銀の暗殺者と副団長の邂逅。
月が綺麗な夜だった。
リュネリア王国の王都、ルナヴェル。
昼間は貴族たちの馬車が行き交い、露店からは焼き菓子の甘い匂いが漂う賑やかな街も、夜が深まれば少しずつ姿を変える。
表通りから一本裏へ入れば、街灯の届かない路地が増えていく。
そして、その闇を好む者たちがいた。
「……今日も、月が明るいなぁ」
屋根の上で、少女が空を見上げていた。
銀色の髪が夜風に揺れる。
月明かりを受けた蒼い瞳は、まるで夜空に浮かぶ月を映しているようだった。
少女の名は、ルシア。
十六歳。平民。
そして──── 暗殺者
「さて、と」
ルシアは小さく伸びをすると、屋根の端にしゃがみ込んだ。
昼間なら、どこにでもいる普通の少女に見える。
市場でパンを買い、店主とくだらない話をして笑い、道端で泣いている子どもを見つければ放っておけない。
けれど夜になれば話は別だった。腰に下げた短剣へ手を添える。
表情から笑みが消えた。
「……標的は、あの屋敷」
視線の先にあるのは、王都でも有数の豪邸。今回の依頼は、貴族の屋敷に忍び込み、そこで少女人身売買に手を染めている男を始末すること。依頼書には、それ以上のことは書かれていなかった。
「殺せ、ね……」
ルシアは少しだけ眉を寄せる。依頼だからといって、何も考えずに人を殺すつもりはない。
それが彼女の決めたルールだった。
「まずは本人を見てから」
そう呟いた瞬間────
ルシアの姿が消えた。
《完全隠密》
気配も、音も、魔力さえも。
まるで最初からそこに存在していなかったかのように、夜の闇へ溶け込んでいく。屋根から屋根へ。
誰にも見つからないまま、目的の屋敷へ近づいていく。
警備兵の横を通り過ぎる。
窓から屋敷へ侵入する。
廊下を歩く。そのすべてを、誰一人として認識できない。
「……いた」
廊下の先。一人の男が書類を抱えて歩いている。ルシアは壁際に身を寄せ、男を観察した。
男の懐には短剣。腰には魔道具。
周囲を警戒している。
「それなりに強そう」
けれど────
ルシアの蒼い瞳が細くなる。
《死線》
人間の身体に存在する、致命へ繋がる一点が視える。
男の胸元。そこに赤い線が浮かび上がった。
「……ここ」
ルシアは短剣を抜いた。
だが、その瞬間。
男が突然振り返った。
「っ、誰だ!」
「!」
ルシアは咄嗟に身を引いた。
気づかれた?
いや。違う。
男が見ているのは、自分ではない。廊下の向こうから、複数の足音が聞こえてくる。
「騎士団だ!」
「なに?」
ルシアは目を見開いた。
依頼書には、騎士団が動いているなど書かれていなかった。
「面倒くさ……」
思わず小さく呟く。
次の瞬間、屋敷の扉が開いた。数人の騎士が一斉に駆け込んでくる。
その先頭にいた男だけが、周囲とは違う空気を纏っていた。
黒髪。整った顔立ち。
騎士服を着ているというのに、どこか堅苦しさがない。男は周囲を見渡すと、落ち着いた声で言った。
「逃がすな。だが、無理に追う必要はない」
「副団長、それでは────」
「彼は逃げ道を一つ残している」
「……?」
「そこへ追い込めばいい」
淡々とした指示。それだけで、騎士たちが動き始める。
ルシアは思わず男を見つめた。
「……あの人、強い」
直感だった。あの男には隙がない。騎士たちが標的を追っていく。
その混乱に乗じて、ルシアも屋敷から脱出しようとした。窓を開ける。外へ出る。そして────
屋根へ降りた。
「よし」
ルシアは一息ついた。任務は失敗ではない。標的はまだ生きているが、騎士団が捕らえるだろう。
ならば自分が手を出す必要もない。
「帰ろ」
そう呟いて、屋根から飛び降りようとした。
「……ところで」
背後から声がした。
「君は、どこへ帰るのかな?」
「────っ!」
ルシアの身体が止まった。ゆっくり振り返る。そこにいたのは、先ほどの騎士だった。いつの間に。
どうやって。
ルシアは《完全隠密》を使っている。気配も音も魔力も消している。なのに────
「どうして……」
思わず声が漏れた。男は少しだけ目を細めた。
「やっぱり、いた」
「……」
「さっきから、妙な違和感があったんだ」
男が一歩近づく。
ルシアは反射的に短剣へ手を伸ばした。
「近づかないで」
「怖いな」
そう言いながら、男は笑った。本当に怖がっているようには見えない。
「その歳で短剣を向けるのか」
「歳は関係ないでしょ」
「それもそうだね」
男はあっさり認めた。その態度が、妙に腹立たしい。
「……あなた、誰?」
「僕?」
男は少し考えるように首を傾げた。
「クロード。リュネリア王国第一騎士団、副団長」
「……!」
ルシアの目が見開かれる。
第一騎士団副団長。
王都の騎士たちを束ねる、王国屈指の実力者。
そんな男が、なぜ自分に話しかけている?
「君は?」
「……通りすがり」
「夜の屋根の上を?」
「そう」
「短剣を持って?」
「護身用」
「なるほど」
クロードは笑った。
「ずいぶん物騒な通りすがりだね」
「……」
からかわれている。絶対に。
ルシアは睨みつける。
「私、帰るから」
「そう」
「追わないの?」
「追ってほしい?」
「誰が!」
「なら、いいんじゃないかな」
クロードは道を開けるように一歩横へ退いた。
ルシアは警戒したまま、その横を通り過ぎる。
そして数歩進んだところで────
「ルシア」
名前を呼ばれた。
「……え?」
振り返る。クロードは笑っていた。
「君の名前」
「……なんで」
「さっき、君を探していた人間が呼んでいたから」
ルシアの背筋が凍る。しまった。情報を拾われていた。
「……」
「安心して。今夜は追わないよ」
「……どうして?」
クロードは少しだけ空を見上げた。月明かりが、その横顔を照らしている。
「君が、本当に悪い人には見えなかったから」
「……!」
胸の奥が、妙にざわついた。
「じゃあね、ルシア」
それだけ言って、クロードは屋根から降りていった。残されたルシアは、しばらく動けなかった。
「……何なの、あの人」
蒼い瞳が、彼の消えた先を追う。暗殺者として生きてきた十六年間。誰にも見つからなかった自分の存在を、初めて見抜いた男。
それなのに、剣を抜かなかった。
「……変なの」
そう呟いたルシアの頬は────
ほんの少しだけ赤くなっていた。
まだ、このときの彼女は知らない。この夜の出会いが、自分の人生を大きく変えることを。
そして。
自分がいつか、この騎士のことを誰よりも大切に思うようになることを。




