第38話 えにし
時は数十分前に遡る。
雨に濡れた液晶を何度も拭いながら八重は目的の女木のマンションにたどり着くと異変に気付いた。
「うん?これはどういうことなんやろか」
自分からすれば牛歩のように目的地に向かう涼介を見捨てて一足先に着いたつもりが、そのフロントのガラスが既に何者かによって叩き割られていたのだった。
涼介でないとすれば今これを引き起こした人物は間違いなく今回の件について関わりがあると八重は思い焦った。
「はやく、いかんと」
八重は涼介から教えてもらった部屋番号を頭で何度も繰り返しながら濡れた服を拭いながらエレベーターを待っていた。
プルルルルル プルルルルル
突然どこからか着信音が鳴り響く。それはポケットにしまっていた端末が振動を介して彼女に知らせる。
「もうっ!誰やこんな時に!」
八重は半ばキレ気味にポケットから涼介のスマホを取り出すと液晶に目をやる。
「久くん?」
聞き慣れた名前だったため朝のアラームの止め方と同じ要領で少女は指でスライドさせるとすんなりと着信に応じた。
「もしもし?久くん?」
「良かった!!電話に出られたんだな!?」
「んーなんで久くんの電話から涼介がでるん?」
八重は額に人さし指を当てて少々混乱する。
「そんなことはどうでもいい!!あんた今どこにいるんだ!?」
涼介は焦った様子で早口のまま荒々しい口ぶりで会話を繰り返す。
「どこって…雪音ちゃんのマンションについたとこやけど…」
「じゃあ今下にいるんだな!?そこの階に管理人室があるだろ。悪いがそっからマスターキーを持ってきてくれ!!」
「マスターキーって…そんなん他人に簡単に貸してくれるわけないやろが!?それほどいかん状況なんか?」
「ああ…このままじゃ雪音達がどんな目に遭うかわかんねぇ…俺も出来るだけ中に入る方法を探すッ!」
そうゆうと勝手に電話は切れた。
八重は一旦エレベーターから離れると、辺りを見回し管理人室らしき部屋を発見する。中はガラス張りになっており、書類や観葉植物固定電話などが確認できたが肝心の管理人は留守のようだった。
八重は一応、横の扉のノブをガチャガチャとしてみるが当然施錠されていた。
「いかんな、やっぱり一度上にいって涼介と合流しようか…」
そう思い、八重は再びエレベーター前に戻ろうとしたその時、入口から年配の男らしき声が聞こえた。
「ああ…派手に割れとんなぁ…」
その声に少女は振り返ると管理人とおぼしき人を発見し目を見開く。
「とくろうさん?」
八重はそう名前を呼ぶと耳が遠いのか、一向にこちらに気付いていない老人に歩み寄り再び尋ねる。
「徳郎さんやないの!!久しぶりやねぇ!!」
「ん?誰や?あんた…ウチの住人やないな」
徳郎と呼ばれた管理人は今度は近づいてきた少女を認識したようでそう答えるが八重ということには気付いていないようだった。
「ああ…こんな姿やもんな…当然やな…私や!八重や!響子さんは元気なん?」
「んん?」
管理人は目を細めると八重を凝視するように見つめる。すると急にニッコリと笑って答えた。
「ああ、なんや八重さんか。えらい久しぶりやんか。暫くみんうちにちょっとこば背が縮んだんやないか?響子?そりゃあもう元気やで!こっちがくたびれるほどになぁ!」
最後に遭ってから実に20年ぶりぐらいだろうか。そのことさえも曖昧な程に八重と徳郎は老いてしまい本当ならこうして巡りあったとしてもお互いを旧友として認識することはなかったのかもしれない。しかし今、彼女の肉体は全盛期といっていいほどの状態であり徳郎や響子と過ごした遠い日々でさえ昨日のことのように思い出せていた。
「そうや!こんなとこで会ったんもなんかの縁やし、ちょっとお茶でもしていきまい!」
「え、いや今ちょっとこば急いでーわわっ!?」
八重の言葉を聞こうともせず徳郎はシワだらけの手で少女の手を握り半ば強引に事務所へと連れて行く。傍から見れば孫とじいちゃんと云われても差し支えない。
そして徳郎は震える手でポケットから鍵を取り出し解錠し八重を中へと案内した。
事務所の中には書類やノートパソコン、ペン立て、他にも若者向けの雑誌が広がっており、徳郎の他にもここの責任者がちょくちょく出入りしているような形跡があった。
「あら?響子のやつさっきまでここにおったんやけどなぁしようのないやつや」
徳郎は一人でブツブツと呟くと、机に置いてあった急須を小さな流しで洗い始めた。
「いやぁ、ほんとお構いなく」
少女は先ほどからキョロキョロと辺りを見回し、鍵のありかを探している。久しぶりにあった旧友に対しいきなり物色するのは気が引けたが今はそんな事を気にしている場合ではなかった。
しかし鍵のありかより先にあるものが少女の目に止まる。
「…これは」
1つだけやけに殺伐としたディスクの片隅に小さな緑色の宝石が施されたネックレスが白いハンカチの上に置いてあった。
そしてその傍らにはある人の写真が飾ってあり、八重はその2つのどれにも見覚えがあった。
「このネックレスは…確か…響子さんがいつも肌見放さずに身につけていた…ああ…そうか…ここにおったんか…響子さん久しぶりやなぁ…元気にしとったか?」
八重は全てを悟ると久しぶりにあった旧友に挨拶を交わしネックレスに手を伸ばした。
「悪いけんどちょっとこば貸してもらうけんね」
八重はポットの前でお茶っ葉を入れている、徳郎さんの肩を叩く。すると徳郎さんは手を止めてこちらを振り返ると八重は静かにそのネックレスを渡し悲しそうな笑みを浮かべて言い放った。
「徳郎さん、響子さん、ここにおったよ」
徳郎は暫く静止していたが、急に震えだしそのネックレスを抱きしめるように顔に埋めた。
「ああ…そうか…ここにおったんか…ごめんな…こんな夫で…寂しかったな…」
「響子さんも喜んどるよ」
「ああ、そうやな。というより八重さんその姿は一体どうなっとるんや?」
まるで正気を取り戻したかのように徳郎は八重の姿に疑問を抱いた。
「今はそれどころやない!悪いけんど何も云わずに他の階の鍵を開ける鍵を貸して貰えんか?もちろん悪い事には使わん!!」
そのことを伝えると管理人はニッコリと微笑み、机の下の奥に置いてあるダイヤル式の金庫を回し、その中から束になった鍵を取り出すとすんなりと八重に渡した。
「え、ええんか!?」
少女はあまりにもあっさりと了承してくれた徳郎に対して、驚きの声を漏らした。
「八重さんが悪いことに使わんことくらいわかっとる。何年の付き合いやと思っとるんや。それにたった今ばあさんの場所を教えてくれた礼もせないかんしな」
徳郎はパイプ椅子に腰を掛け静かに笑っていた。
「徳郎さん、本当にありがとうな。今度改めてお茶しに来てもええ?」
「ああ、いつでもきまい」
そして、八重は最後に深く礼をすると急いで部屋から出ていってしまった。
そんな少女を見送りながら徳郎は先ほど入れたお茶をすすりながら独り言を呟く。
「ふふ…ばあさんや…人生何があるか本当にわからんもんやな」




