第32話 女木雪音 ⑨
「…はぁ…はぁ…」
人通りが激しい交差点の中を人目も気にせず私は全力で駆けていた。それに伴い体から過剰に吹き出す汗が今日のために着てきた服に付着しシワにする。
先程までごく平凡な休日を過ごし今日という日を心から楽しんでいたあの頃の気持ちは今はこれっぽっちもなく、私は急ぎながらもスマホの時間を確認し自分の愚かさに心で舌打ちする。
「どうして…なんで!?」
完全に油断していた。GWの少し前、あいつはGW中、家を留守にすると私達に伝え家を後にした。その瞬間私は何か悪い付きものが落ちたように身体が軽くなり、そのことも重なってか今日こうして気兼ねなくみんなと行動を共にできていた。
しかし数十分前一通の着信によってその夢は私を現実の世界へと引き戻すことになった。私は着信相手を見るなり、席を外し電話に出た。
「はい」
「もしもし?雪音ちゃん、今どこ?」
電話口からは野太い中年男性の声が響く。その声は紛れもなく私を幾度となく苦しめたあの男からだった。
「今…その…友達と遊んでて…その…ごめんなさい…」
「んー聞こえないなぁ〜まあいいや、それよりさ門限って覚えてる?まさか私がいないからってそれを破っていいってことになってるのかな?」
男は猫撫声で不気味に囁き、私の身体が小刻みに震える。
「ごめんなさい!すぐ帰りますから…だから!!お母さんには手を出さないで!お願い!!」
私は震える声で懇願するようにその男に頼み込むとふいに電話越しから不気味な男の笑い声が聴こえる。
「それは、雪音ちゃん次第だよね?だって私達のハウスルールなんだからさ。か・ぞ・くのさ♪」
そう答えると勝手に電話は切られた。
時刻は17時42分…ああ…だめだ…とても間に合わない。でも急がなきゃ!急いで家に帰らないと……お母さんが!!
私は急いで電車に乗り込むと、何駅か先の目的地までずっと入口で立ったまま、爪を噛んで時間を惜しんでいた。窓から映る茜色の空はまるでそれがタイムリミットのように私の心を急かせた。
そして電車から降り、再び全力で自宅に向かうための路地をひたすらに走る。
「…ハァ…ハァ…ゼェ…」
走り続けた代償か、先ほど食べたクレープなのか、お昼のご飯なのかわからない物が胃液を分泌しせり上がってくる感覚に襲われる。
私は何とかそれを抑えながら汗だくになった手足を必死に動かす。そしてマンションの前につくと、急いで鍵を回しドアを開け、遥か上空に位置するエレベーターには乗らず、階段で駆け上がる。
女木の身体は既に限界であり、階段を休息なしで上がるのは無茶だったのか、途中で段差につまずきこけてしまう。
「ゼェゼェゼェゼェ……くっ!…」
そうゆうと握りこぶしを固めすぐに起き上がると再び階段を駆け上がり一気に目的地の階までたどり着くと、あらかじめ手にしていた鍵を無理やり回しドアを力強く開け、転がり込むようにリビングに向かう。
ガチャ
「お母さんッッ!!?」
扉を開けた途端、無意識にそう叫んだが返事は帰ってこず、部屋は散乱しもぬけの殻だった。
私は辺りを見回し、肩で息をしながら呼吸を整える。
「…どこ…お母さん…」
私は既に涙目になりながら乱れた髪を左右に振り、必死にお母さんを探した。
キッチン、自分の部屋、お母さんの部屋、トイレ…そして残るは浴室のみとなり、私はおそるおそるノブに手をかける。すると浴室から水の流れる音が微かに聞こえ、私はその音を頼りに歩み寄るとすりガラスの扉をゆっくり開けた。
「お母さん?」
するとまず目に入ったのは地面のタイルに流れる赤い液体が排水溝に向けて流れ出ていた。
浴槽にはぐったりとし、頭から血を流す母と、母の頭を鷲掴みにしながらこちらに気付き、ニタァと笑う不気味な男が濡れた服のままそびえ立っていた。
「あ…あ…」
私は声にならない声を上げながら目の前の狂気に足がすくんでいた。
「あー雪音ちゃん。おかえり♪でも20分も遅刻だよ!だからそれまでお母さんと大分時間潰ししてたよ」
「な…何をいっているの?」
目の前の惨事に口を震わせ小さく呟くとぐったりとした母が私を視界に入れ、小さく呟く。
「雪音…ごめんね…せっかく今日楽しみにしてたのに…こんなことになっちゃって…」
その言葉に反応したのか母の髪を持つ力が強くなるのを感じ、男が般若のような形相に変わる。
「やっぱりお前の仕業だったのか!!えぇ!!だから娘が非行に走るんだよッッ!!」
そうゆうと男は水が流れ出るシャワーヘッドを本来とは全く違う持ち方で握るとそれを母に叩きつけようとする。
「駄目ッッ!!!やめてッッ!!」
私は無意識にその間に割るように入るとちょうどその凶器であるものが私の顔に直撃する。それと同時に頭部に鈍い痛みを走らせる。
「ぐあっ!!…ああッッ!!…」
私と母はその衝撃で二人して湯船に落ち、男はその様子を見て興醒めしたように風呂場から出ていった。私は痛みで目が開けられず、浴槽の中で必死にもがき苦しむと、か細い腕が私を引き上げる。
「はあはあはあ……」
「雪音ぇ…はぁ…大丈夫……?」
衰弱した声と裏腹に絶対に離すまいと必死に引き寄せるその両手に目が見えない私にもそれが母だと認識できた。
「…はぁ…だ…大丈夫だよ…お母さん…私は大丈夫…だから」
私は精一杯の嘘をつくとそのまま湯船で暫く母と抱合いお互いの存在を強く確かめ合う。
そうして暫くすると片目を開けることができ私は弱った母と一緒に湯船から出ると自分と母をバスタオルで拭き適当な服に着替えた。
男はいつものようにリビングでテレビを見続け、私はお母さんの部屋で手当てを済ませ、ベッドに寝かせた。その間もお母さんはしきりに私に謝り続け、私はその度に大丈夫だよと呟いていた。
朝になると男はどこかに消え、私は弱ったお母さんに朝食を口に運ばせると、散らかった部屋を片付けた。そして腫れ上がった片目を抑え病院で診てもらうと幸い目の方に以上はなく暫くすると治るそうだ。
しかし、私のことよりも今はお母さんが心配だ。暫く側にいてあげよう。
その後、残りの休日と学校を数日休み、私はお母さんにずっと付き添っていた。途中でお母さんも少しずつ元気になっていって私がホッとしたのも束の間、少しのアクシデントが起こった。それは涼介達が私のことをお見舞いにマンションまで来ていた事で、それの応対をしたのが母だったことだ。
私は突然やってきた友人に心の準備ができておらず、玄関口で2人に冷たい態度を取って帰らせてしまい後からそのことを引きずり、玄関前で体育座りで泣き崩れていると、お母さんがおぼつかない足取りでやってきた。本当はお母さんが1番病院で診てもらわなきゃいけないのに本人はそれを頑なに拒否し傷の回復が遅れている。
「雪音、学校に行きたい?」
「…グスッ…うん」
「私のことはいいから、明日はいっておいで」
「嫌だ!お母さんが心配でそれどころじゃないよ!!またいつあの男が現れたらって思うと私…」
「…大丈夫…あの人は明日出張でこっちにいないからここに来ることもないのよ。だから明日は学校にいっておいで」
「……でも…この前みたいに…またいつ急に帰ってくるかもわからないんだよ!?」
するとお母さんは小さく丸まった私を優しく抱きしめてくれた。
「ねぇ、涼介君のことが好き?」
「…え?…どうして…」
「わかるわよ。私はあなたのお母さんよ。昔はよく遊んでたわよね。その時からあなた涼介君にべったりだったじゃない…高校をここにしたのもなんとなくそうゆうことだって思ってた…さっきだって…あなたのことを心配して2人とも来てくれてたんでしょ?だからこれ以上心配させちゃだめ。わかった?雪音」
そう諭すように私に言い聞かせる母に私は鼻をすすりながら答えた。
「…うん…わがっだ…」




