第9話 チェックメイト
帝都プロミネンス本社、地下大ホール。
収容人数2000人を誇る巨大な空間は、空調が最大出力で稼働しているにもかかわらず、むせ返るような熱気と汗の匂いに満ちていた。
「ふざけるな! 株価が昨日の10分の1だぞ! どう責任を取るつもりだ!」
「特捜部のガサ入れの件、明確な説明を求めます!」
「上場廃止になったら、俺の老後資金はどうなるんだ!」
フロアの至る所から飛ぶ怒号が、マイクのハウリング音と混ざり合ってホール全体を震わせている。
壇上では、プロミネンスの現社長である郷田が、ハンカチで幾度も額の脂汗を拭いながらマイクを握りしめていた。かつて国内最大手ギルドのトップとして君臨していた尊大な面影はどこにもない。血の気を失った顔で、用意された原稿をただ機械的に読み上げている。
「現、現在、第三者委員会を設置し、事実関係の確認を急いでおります。一部メディアの報道にあるような組織的な違法行為は……断じて、確認されておりません。防衛策が承認されれば、必ずや企業価値を……」
「見苦しいですね」
最前列のVIP席。
久保真琴は、手元のタブレットでリアルタイムの株価推移を確認しながら、冷たく吐き捨てた。プロミネンスの株価は、ストップ安の気配値を張り付けたままピクリとも動いていない。市場はすでに彼らを「死に体」と判断している。
「嘘の数字で塗り固められた城は、一度崩れ始めれば早いものです」
真琴の隣で、千葉秀俊は足を組み、一切の感情を排した目で壇上の茶番を眺めていた。
その後ろには、タイトな黒スーツ姿の市川ひろみが影のように控えている。彼女の鋭い視線は、壇上の役員たちではなく、会場の四隅に配置されたプロミネンス側の警備員たちの動きを正確にトレースしていた。いつでも物理的な障害を排除できるよう、その体は静かに殺気を帯びている。
「……そろそろですね、社長」
「ええ。刈り取りの時間です」
千葉はゆっくりと立ち上がった。
その長身と圧倒的な存在感に、周囲の株主たちが思わず息を呑み、道を空ける。千葉は規則的な足音を響かせ、中央のマイクスタンドへと歩み寄った。
「議長。動議の提出を求めます」
低く、しかしよく通る声が、喧騒に包まれていたホールを一瞬にして静まり返らせた。
壇上の郷田が、びくりと肩を揺らして千葉を見下ろす。
「あ、あなたは……アビスの、千葉……! なぜあなたがここにいる! 警備員、彼をつまみ出せ! 彼はまだ当社の株主名簿には……!」
「警備員は動きませんよ。彼らの所属する警備会社との契約は、30分前に私がすべて買い取り、待機命令を出しました」
千葉は微動だにせず、ただ事実だけを述べる。
郷田が慌てて周囲を見渡すと、屈強な警備員たちは誰一人として千葉に向かおうとせず、ただ黙ってその場に直立していた。
「な……ッ」
「それに、株主名簿の件ですが」
千葉は振り返り、真琴に軽く顎で合図をした。
真琴は立ち上がり、抱えていた分厚いファイルの束を高く掲げた。
「本日午前10時をもって、複数の海外機関投資家、および市場の浮動株を、当方のSPCを通じて取得いたしました。ここに、議決権行使の委任状を提出します。その数は……」
真琴はタブレットの画面をスワイプし、冷徹な声でホールの全員に告げた。
「総議決権の51.2パーセント。株式会社アビス・マイニングは現在、帝都プロミネンスの過半数の議決権を保有する筆頭株主です」
ホールが水を打ったように静まり返った。
真琴は手元のタブレットの数字を見つめ、自分自身が構築したスキームながら、その暴力的なまでの結果に背筋が寒くなるのを感じていた。
昨日、極限まで高騰した株価で空売りを仕掛け、莫大な利益を確定させた。そして今日、特捜部の強制捜査でストップ安に張り付き、紙屑同然となった株を、その空売りの決済益のほんの一部を使って底値で一気に買い漁ったのだ。天文学的なマネーゲームが、外為法の網の目を潜り抜けて完遂された瞬間だった。
「そ、そんな馬鹿な……! たった数時間で、過半数だと……!? 違法だ、市場操作だ!」
郷田がマイクを握り潰さんばかりの力で叫ぶ。
「市場のパニックを引き起こしたのは、あなた方自身の粉飾と違法輸出の事実です。私は適正な価格で取引を行ったに過ぎない」
千葉はマイクスタンドを引き寄せた。
「第一号議案、現経営陣が提案する買収防衛策の否決。第二号議案、代表取締役・郷田氏を含む、現取締役12名全員の即時解任。ならびに、アビス・マイニングが推挙する新役員の選任を動議として提出します」
「認めん……! 認められるはずがない! 我々にはまだ佐伯先生がついている! 政治が、国が、こんな乗っ取りを許すわけがないんだ!」
郷田の絶叫に、千葉はほんのわずかに目を細めた。
千葉は再び真琴に視線を送る。真琴はタブレットを操作し、壇上の巨大なスクリーンに一つの文書を投影した。
「本日正午、与党・佐伯幹事長の事務所から発表された公式のプレスリリースです」
真琴の凛とした声が響く。
「『帝都プロミネンスの違法行為疑惑について、当事務所は一切関知しておらず、極めて遺憾である。捜査機関の厳正な対処を望む』――以上です」
スクリーンに映し出された無機質な文面を前に、郷田の膝がガクンと折れた。
千葉の後ろに控えていたひろみが、呆れたように小さく鼻を鳴らす。圧倒的な証拠を前にした権力者の動きは、彼女が裏社会で見てきたものと何一つ変わらなかった。
「……あ、あ……」
郷田はマイクの前にへたり込み、言葉を失った。
「採決を」
千葉の静かな声が、処刑の合図のように響いた。
結果は見るまでもなかった。会場を埋め尽くした一般株主の賛成票に加え、千葉の保有する51パーセントの圧倒的な数字が、彼らの運命を完全に決定づけた。
「可決されました。元・経営陣の皆様は、速やかに退場を。特捜部の車両が、裏口でお待ちです」
真琴が宣言すると同時に、ひろみが小さく手を振った。待機していた警備員たちが壇上に上がり、放心状態の郷田たちを物理的に引き摺って退場させていく。
千葉は静かにマイクから離れ、真琴の方へ歩み寄る。
「完璧な実務でした、久保CFO。想定より3分早い」
「……寿命が3年くらい縮んだ気がします。あんな胃の痛くなる多数派工作、もう二度とご免ですよ」
真琴は大きく肩の力を抜き、パンパンに張った首の後ろを指で揉みほぐした。
緊張の糸が切れたのか、声がわずかに掠れている。これほど巨大な企業が、数字と法律のルールの前になす術もなく解体されたという実感。自分がその引き金を引いたのだという重圧が、今になってのしかかってきていた。
「今日の業務は終了です。市川CCO、事後処理とビルの制圧の指揮を」
「了解、ボス。逃げ隠れしてる残党がいないか、きっちり掃除しておくわ」
ひろみが妖しく微笑んで闇に溶けるように消えると、千葉は真琴に向き直った。
「久保CFO。午後8時に、帝国ホテルのメインダイニングへ来なさい」
「……え?」
真琴は間の抜けた声を上げた。
「予約はすでに入れてあります。ドレスコードがあるので、それなりの準備を」
それだけ言うと、千葉は踵を返し、ホールを後にしてしまった。
真琴は一人取り残され、数秒間瞬きを繰り返した後、自分の着ている少しシワの寄ったパンツスーツを見下ろした。
「……えっ? それって……デート、ですか?」
誰に聞くともなく呟いた声は、株主たちが散り散りになっていく喧騒の中に吸い込まれていった。
★★★★★★★★★★★
午後8時。
帝国ホテルのメインダイニングは、重厚なシャンデリアの光と、静かに流れる生演奏のピアノの音色に包まれていた。
窓際の最も見晴らしの良い席。そこに座る千葉秀俊は、まるで映画のワンシーンのように周囲の景色と調和していた。
「……遅れて申し訳ありません」
案内された真琴は、少しだけ居心地の悪さを感じながら席に着いた。
彼女が選んだのは、深いネイビーのシンプルなドレスだった。仕事用のスーツ以外で、まともに着飾ったのはいつ以来だろうか。少しだけ高めのヒールを履き、髪も綺麗にまとめている。鏡の前で何度もやり直した自分の姿を思い出し、少しだけ頬が熱くなる。
千葉はグラスのシャンパンを静かに置き、真琴の姿を上から下まで一瞥した。
「悪くない。我が社のCFOとして、最低限のTPOは満たしているようですね」
「……お褒めいただき光栄です、社長」
真琴は小さくため息をつき、ナプキンを膝に置いた。
(私が意識したのが馬鹿みたいですね……)
この男にとって、これはデートなどという甘いものではない。あくまで「自社の役員」との会食であり、ステータスの確認なのだ。
食事が進む。
運ばれてくる料理はどれも一級品で、真琴の舌を驚かせた。だが、会話の内容はどこまでも無機質で、冷徹なビジネスの延長だった。
「プロミネンスの解体手続きは、明日から直ちに着手します。契約解除の通知は、明日の午前中にはすべて発送できるように」
千葉はナイフとフォークを完璧なマナーで操りながら、淡々と語る。
「……解体、ですか。吸収合併して、うちの傘下に収めるのではなく?」
真琴がナイフの手を止めて問うと、千葉はペリエのグラスを口に運んだ。
「私が昨日、経営権など元より引き受ける気はないと言ったはずです。あのような内部が腐りきった組織の負債を、我が社が被る理由がない」
「では、買い集めた過半数の株式は……」
「プロミネンスを特別清算に追い込むための議決権に過ぎません。優良なダンジョンの採掘権と最新の機材だけを、我が社が適正価格で買い取る。不採算の下請けや膨大な負債は旧法人に残し、そのまま破産させる」
千葉の言葉に、真琴は息を呑んだ。
会社を立て直すのではなく、箱を捨てて旨味だけを吸い上げる。徹底して冷酷な手段だった。
「なぜ、私をここに?」
真琴は、ふと口をついて出た疑問をそのままぶつけた。
「留美子さんの時は『戦力への給油』と言っていましたね。ひろみさんには『適正価格での買い取り』だと。……私は、何ですか? この会食は、徹夜作業への慰労ですか?」
千葉は手を止め、真っ直ぐに真琴の目を見た。
その知的な眼光に見つめられ、真琴は思わず目を逸らしそうになるのを必死に堪えた。
「私の描いた絵を、あなたは完璧に現実のものにした。あのスキームは、あなたの法務と数字の能力がなければ、どこかで破綻していたでしょう」
千葉はグラスを手に取り、静かに傾けた。
「これは、その働きに対する正当な対価です。優秀な人間には、それに見合うだけの席を用意する。私があなたを評価しているということです」
「……対価、ですか」
真琴は小さく笑い、手元のグラスのステムを指でなぞった。
決して素直に感謝の言葉を口にしようとはしない。だが、自分に向けられた確かな信頼の重みを、真琴は十分に感じ取っていた。
「……あなたのやり方、最初は本当に最低だと思ってました」
真琴は視線を落とし、少しだけ言葉を探すように間を置いた。
「私がいくら法廷で正義を主張しても、あの人たちには届かなかった。でも……あなたが数字の暴力で殴りつけたら、あの巨大な組織があっけなく崩れた」
「……」
「怖いですよ。自分が何に加担しているのか、わからなくなる時があります」
真琴は顔を上げ、千葉を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、かつての青臭い正義感とは違う、迷いを含みながらも前に進もうとする強い光が宿っていた。
「でも……不思議と後悔はしてないんです。私が作ったスキームで、あれだけの人が追放されたのに。……もう、引き返せませんね」
千葉は黙って真琴の目を見返し、やがて薄く、本当にわずかにだが、口角を上げた。
「……頼もしい言葉です。ならば、明日からも死ぬ気で働いてもらいますよ。プロミネンスの解体と資産移管の手続きは、山のようにある」
「ええ、やりますよ。徹底的に」
真琴は少しだけ挑戦的に微笑み、自分のワイングラスを軽く持ち上げた。
「……でも、今夜くらいは仕事の話、忘れませんか?」
「……あまり得意な分野ではありませんがね」
千葉が自らのグラスを合わせる。
澄んだガラスの音が、静かなダイニングに響いた。
真琴は窓の外の夜景に目を向けながら、グラス越しに千葉の横顔をそっと盗み見た。




