第10話 新たな支配者
帝都プロミネンスの解体作業は、真琴にとって想像以上に手応えのある、恐ろしいほどに美しいパズルだった。
プロミネンスの残党から買い叩いた新宿のハイグレードビル。その最上階に新設された広大なオフィスの自席で、久保真琴は3枚の大型モニターを素早く行き来させていた。
「旧法人の不良債権と不採算部門は、新設したダミーのペーパーカンパニーに完全分離。第1から第3までのA級ゲート採掘権、および付随する最新の魔力プラント設備のみを、我が社が適正価格で引き受ける……」
独り言のように呟きながら、真琴の指は滑らかにキーボードを叩き続ける。
かつて国内最大手として君臨した巨像は、今や完全にバラバラに解体され、旨味のある部位だけがアビス・マイニングの血肉として取り込まれようとしていた。
かつての真琴であれば、この強引なスキームに法的・倫理的な抵抗を覚えていたはずだ。しかし今、彼女の胸を満たしているのは罪悪感ではない。複雑に絡み合った法律の糸を解きほぐし、あるいは意図的に結び目を作り出し、巨大な富を合法的な手段のみで移動させるという、背徳的なまでの快感だった。
「会社法第784条の略式組織再編の要件……クリア。債権者保護手続きの期間短縮も、この論理構成なら法務局を黙らせることができる。抜け道は、探せばいくらでもある」
エンターキーを叩き、最後の一手となる移管登記のオンライン申請を完了させる。
完了を知らせるポップアップ画面を見つめながら、真琴は深く息を吐き出した。これで、アビス・マイニングは名実ともに国内トップクラスのギルドへと躍り出たことになる。たった数週間で、市場の勢力図は完全に塗り替えられた。
真琴は処理を終えたタブレットを片手に持ち、社長室へと向かった。
分厚いマホガニーの扉をノックし、入室する。
広大な社長室の奥。黒大理石のデスクでは、深いチャコールグレーのスーツを纏った千葉秀俊が、すでに次の決済書類に静かに目を通していた。
「プロミネンスの優良資産の移管手続き、すべて完了しました。旧法人は明日の朝一番で特別清算に入ります」
真琴が報告すると、千葉は手元の書類から視線を上げた。
「ご苦労様です、久保CFO。想定より……」
「15分早いですよ。法務局のシステムのレスポンス速度まで計算に入れた上で、完璧に処理しました」
真琴は、ほんの少しだけ挑戦的に口角を上げてみせた。千葉は言葉を切られ、わずかに目を細めたが、叱責の言葉は口にしなかった。
「……結構。これで足場は固まりました」
真琴は、静かに書類の束を揃える千葉の手元に、つい視線を奪われていた。
冷酷で、血も涙もない男だ。だが、その無駄を一切削ぎ落とした身のこなしに、どうしようもなく惹きつけられている自分がいる。法の抜け道を探し、彼が求める「数字」をテーブルに叩きつけたとき、この氷のような瞳が自分を認める瞬間に、真琴は強い中毒性のようなものを感じていた。
「……見惚れてる暇があるなら、次のフェーズの準備をしておいてよ、真琴」
背後から掛けられた声に、真琴はビクッと肩を揺らした。
いつの間にか、部屋の隅の影から市川ひろみが姿を現していた。今日もタイトな黒のパンツスーツを着こなし、首筋のタトゥーを覗かせている。彼女の目は、真琴の僅かな心の揺れなど完全に見透かしているようだった。
「み、見惚れてなんかいません! 私はただ、今後の法務戦略のロードマップを頭の中で再構築していただけで……!」
「はいはい。そういうことにしておくわ」
ひろみはクスクスと笑いながら、千葉のデスクに歩み寄った。
「ボス。旧プロミネンスの残党の動きは完全に沈静化したわ。佐伯幹事長も特捜部の対応に追われて、こちらにチョッカイを出す余裕はないみたいね」
「一時的なものに過ぎません。これほどの急激な肥大化は、必ず既存の生態系からの強烈な反発を招く」
千葉は手元のファイルを閉じ、静かに告げた。
「法務や物理的な妨害への対処は済みました。だが、市場のルールを書き換えるには、まだ別の仕掛けが必要になります。……まあいい。今日の業務はここまでとしましょう」
千葉は立ち上がり、ジャケットのフロントボタンを留めた。
「五反田に店を手配してあります。留美子も向かわせた。行きましょう」
★★★★★★★★★★★
五反田駅前の喧騒から少し離れた、目黒川沿いの路地裏。
看板のないそのレストランは、重厚な木の扉を開けると、ほの暗い照明と静かなジャズが流れる、隠れ家のような空間だった。
テーブル席にはすでに、菅原留美子が陣取っていた。巨大な大剣『ニーズヘッグ』は店のクロークに強引に預けたらしく、彼女の背中は珍しく身軽だ。
「遅えぞ! アタシ、もう腹の虫がダンジョン暴走起こしそうなんだけど!」
「静かにしなさい。ここはファミレスではありません」
千葉がたしなめながら上座に着き、真琴とひろみも席に座る。
コースはすでに手配されていた。
最初の一皿として運ばれてきたのは、厚切りの牛タンのソテーだった。
「うおおっ! なんだこれ、分厚っ!」
留美子が目を輝かせてフォークを突き立てる。
表面は香ばしくカリッと焼き上げられているが、ナイフを入れると中は驚くほど美しいロゼ色のレアだった。熟成された肉の旨味が、バルサミコベースのソースと絡み合う。
「……美味しい」
真琴は小さく感嘆の声を漏らした。噛むほどに溢れる肉汁の甘みが、連日の徹夜作業で疲労しきった体に染み渡っていく。
「良いお肉ね。ボスの奢りだと思うと、余計に美味しく感じるわ」
ひろみは悪戯っぽく笑いながら、ソムリエが注いだ赤ワインのグラスを回した。
続いて、鮮やかなトマトの赤が美しいミネストローネが運ばれてくる。単なるスープではなく、細かく刻まれた季節の野菜と、パンチェッタの塩気が複雑な層を成しており、メインディッシュへ向けて食欲を刺激する完璧な役割を果たしていた。
そして、メインのステーキ。
熱々の鉄板ではなく、温められた陶器の皿で提供されたそれは、完璧な火入れが施された黒毛和牛のシャトーブリアンだった。
「あははは! 肉が溶ける! 噛む必要がねえ!」
留美子は瞬く間に自分の分を平らげ、物足りなそうに真琴の皿をチラチラと見ている。真琴は慌てて自分の肉をナイフで守った。
「あげませんよ! 私だって、数日ぶりのまともな食事なんですから」
「ちぇっ。ケチ」
千葉は無言のまま、淡々とナイフとフォークを動かしていた。大げさな感想を口にすることはないが、その的確な手つきとグラスの赤ワインを傾ける静かな所作から、彼がこの上質な食事を確実に楽しんでいることが真琴には伝わってきた。
「……社長」
真琴は赤ワインで喉を潤し、少しだけ声のトーンを落とした。
「プロミネンスを吸収したことで、アビス・マイニングは国内のダンジョン資源の約3割を掌握しました。既存の巨大ギルド連合が、このまま黙っているとは思えません」
千葉は手を止めず、グラスのワインを一口飲んでから答えた。
「ええ。水面下で彼らはすでに動いています。法や資金力で我々を潰せないと悟った連中が次に使うのは、大衆の感情です。我々を『冷酷な乗っ取り屋』として、世論の力で市場から排除しようとするでしょう」
「……メディアへのリークや、ネガティブキャンペーンですか」
ひろみが鋭い視線を向ける。
千葉はナプキンで口元を拭った。
「既存のメディアは彼らの息がかかっていますからね。相手の土俵でまともに反論しても意味がない。大衆を動かすには、我々自身の『声』が必要になります」
「我々の声……。広報体制を強化するということですか?」
「そういうことです。理路整然とした反論ではなく、大衆の感情を直接揺さぶるような劇薬がね。……まあ、面白い素材はすでに見つけてあります。近いうちに紹介しましょう」
千葉はそれ以上語ろうとはせず、ソムリエに視線で合図を送った。
プロミネンスの解体という巨大な事業を終えたばかりだというのに、この男の目はすでに、さらに先の盤面を見据えている。
食事が終わり、食後酒が運ばれてきた。
「ヘレスです。甘口のペドロ・ヒメネスを手配しておきました」
千葉の前に置かれたチューリップ型の小ぶりなグラスから、ナッツやカラメルのような、深く複雑な香りが立ち上る。
「……強いお酒ですね」
真琴は自分に配られたグラスに口をつけ、その芳醇な甘みと、喉の奥を焼くようなアルコール度数に思わず小さく咳き込んだ。
「アルコール度数は20度前後ありますからね。少し強いですが、悪くない酒です」
千葉は自分のグラスを静かに傾けた。
「……なんだよこれ、甘っ! 子供の飲み薬みたいだな」
留美子は一気に煽り、不満げに舌を出した。
「味わって飲みなさいな、馬鹿犬。ボスの隣で飲むヘレスは格別なのよ」
ひろみはグラスの琥珀色を照明に透かしながら、妖しく微笑んだ。
真琴は、手の中のグラスを見つめた。
甘く、しかし確実に酔いを回らせる強い酒。それはまるで、今の自分の状況そのもののようだった。
法と数字を武器に、巨大な組織を解体し、市場のルールを書き換えていく。その圧倒的な力の渦中にいることは、かつての自分が想像もしていなかったほど心地よかった。
真琴は顔を上げ、千葉の横顔を真っ直ぐに見つめた。
「……この味を知ってしまったら、もう元の安い居酒屋のワインには戻れませんね、社長」
真琴の言葉に、千葉は表情を変えることなく、ただヘレスのグラスをテーブルに置いた。
「私の求める成果を出し続ける限り、席は用意しますよ、久保CFO」
「ええ。期待していてください。明日の朝一番で、残りの清算手続きも完璧に終わらせてみせます」
真琴は残りのヘレスを飲み干し、静かに空のグラスをテーブルに置いた。喉の奥に残る芳醇な熱を確かめるように小さく息を吐くと、すでに席を立っていた千葉の背中を追って、迷いなく夜の街へと歩み出した。




