第11話 既得権益の反撃
『――以上のように、アビス・マイニングによる帝都プロミネンスの買収劇は、市場のルールを逸脱した極めて強引な手法と言わざるを得ません。彼らはハンターを単なる使い捨ての駒、あるいは数字としか見ていない。このような血も涙もない乗っ取り屋が、日本のダンジョン産業の中核を担うことになれば、業界全体のモラル崩壊に繋がります』
壁掛けの大型モニターに映し出されたニュース番組のコメンテーターが、深刻そうな顔でそう締めくくった。画面の右上には『徹底検証! ハゲタカギルドの闇』という扇情的なテロップが踊り、背景には隠し撮りされた千葉秀俊の無表情な顔が、意図的に暗い色調で加工されて使われている。
久保真琴は、手元のリモコンの電源ボタンを強く押し、モニターを真っ暗にした。
旧プロミネンス本社ビルから接収した、新宿の広大な新オフィス。
フロアの向こう側から、今日もカスタマーセンターのオペレーターたちが必死に謝罪を繰り返す声が、かすかに、しかし絶え間なく聞こえてくる。
「……これで今週に入って、主要キー局の報道番組すべてで同内容の特集が組まれました。ネットのニュースサイトやSNSのトレンドも、うちへのバッシング一色です」
真琴は、自身のデスクに積み上がった書類の山を前に、深く重いため息を吐いた。ここ数日、まともな睡眠時間を確保できていない。
「抗議電話の件数は昨日の1.5倍に膨れ上がっています。さらに今朝、取引先のメインバンク2行から、今後の融資枠の縮小について遠回しな打診がありました。世論の反発を理由に、完全に足元を見に来ています」
「彼らも必死ですね」
広大な社長室の奥。黒大理石のデスクで、千葉秀俊は複数のモニターに表示された海外市場のチャートから視線を外すことなく、淡々と答えた。その声には焦りはおろか、苛立ちすら見当たらない。
「自分たちの既得権益が脅かされていると理解したのでしょう。だからこそ、使い慣れた武器――メディアと政治に縋り付いている。追い詰められた人間が最後に取る、古典的ですが効果的な手段です」
「裏の資金ルートは、もう割れてるわよ」
千葉の後方のソファで、市川ひろみが薄いグラスの炭酸水を傾けながら口を挟んだ。
タイトな黒のパンツスーツを着崩した彼女の膝の上には、情報収集用の特殊なタブレットが置かれている。画面には、複雑な相関図と無数の口座番号が羅列されていた。
「旧プロミネンスを支援していた大手ギルド連合系のダミー会社から、3つのPR会社を経由して金が流れてる。テレビ局の制作部門のトップや、SNSで影響力を持つアカウントに、見事なまでに均等にばら撒かれているわ。……随分と気前のいいことね」
「大衆は今、自分たちが正義の側に立って『悪徳企業』を叩いていると信じて疑っていません。相手が感情論で来ている以上、こちらがどれだけ法的な正当性や数字の正しさを主張しても、火に油を注ぐだけです」
真琴は疲れたようにこめかみを揉んだ。
法務と財務の数字を完璧に組み上げ、合法的に敵を排除することはできる。しかし、「空気」や「感情」という掴みどころのない相手に対しては、彼女の武器はあまりにも無力だった。いくら反証データを揃えようと、聞く耳を持たない群衆の前ではただの紙切れに過ぎない。
その重苦しい空気を物理的に破壊するように、社長室の重厚なマホガニーの扉がバンッ! と勢いよく開かれた。
「おい、ボス! 真琴! ちょっと見てくれよこれ!」
無遠慮な大声と共に乱入してきたのは、菅原留美子だった。
ダンジョン探索の帰りなのだろう。無骨な防具には薄っすらとモンスターの血と泥が跳ね、歩くたびに高級なペルシャ絨毯に黒い足跡を残していく。しかし、彼女の背中にあるはずの巨大な大剣『ニーズヘッグ』はなく、代わりにその両腕には、不釣り合いなほど小さく、フワフワとした灰白色の毛玉が大事そうに抱えられていた。
「キュゥ……」
「る、留美子さん!? なんで犬!?」
真琴が目を丸くして立ち上がった。
留美子の腕の中で身をよじっていたのは、シベリアンハスキーの仔犬だった。生後数ヶ月といったところだろうか。まだ立ち切っていない三角の耳に、顔には隈取のような特徴的な模様。透き通るようなアイスブルーの丸い瞳が、見知らぬ場所に怯えたように周囲を見回している。
「いやさ、第3ゲートの帰り道に駅前のペットショップの前を通ったら、こいつとバッチリ目が合っちまってよ! アタシを呼んでたんだよ、絶対に! だからさ、この子の代金、アタシの借金に追加しといてくれ!」
留美子は悪びれる様子もなく、満面の笑みでハスキーの仔犬を高く掲げた。
「あのねえ……! ただでさえ会社が世間から叩かれて大変な時期に、オフィスのど真ん中にペットを持ち込むなんて……!」
真琴が頭を抱えて説教を始めようとしたその時、デスクの奥で千葉が静かに立ち上がった。
千葉は無言のまま留美子の前に歩み寄り、その長身から見下ろすようにハスキーの仔犬を凝視した。冷徹なCEOの視線に晒され、ハスキーの仔犬はビクッと体を震わせ、留美子の腕の中で小さく丸くなる。
「しゃ、社長……すみません、すぐに外へ出させますから……」
「貸しなさい」
千葉は留美子から仔犬を受け取ると、自身の腕の中に収めた。
真琴は、高級なオーダースーツが犬の毛と泥で汚れるのを見て思わず息を呑んだが、千葉は気にする素振りも見せなかった。
千葉の大きな手が、仔犬の胸のあたりをしっかりと支え、もう一方の手で後ろ足を包み込むようにホールドする。仔犬の背中が千葉の分厚い胸板にぴったりと密着した。
「……骨格に歪みはない。眼球の濁りもなく、心音のリズムも正常。健康状態は良好のようですね」
千葉の手が、ハスキーの頭から背中にかけて、ゆっくりと一定のリズムで撫で下ろしていく。数秒前まで怯えていたハスキーの仔犬は、その安定したホールドと規則的なストロークに安心したのか、千葉の腕の中で目を細め、小さく尻尾を振り始めた。
「いや、社長。そういう査定みたいな話じゃなくて……」
真琴が呆れたように突っ込むが、千葉は仔犬を抱いたまま、振り返って真琴を見た。
「久保CFO。この個体の代金、および今後のワクチン接種、飼育に必要なすべての設備費用を、当社の『広報宣伝費』として計上しなさい」
「……はい? 広報宣伝費、ですか?」
真琴は自分の耳を疑った。
「大衆が求めているのは、複雑な財務諸表の正しさや法的な正当性ではありません。彼らが反応し、消費しやすいのは、分かりやすい『絵』です」
千葉は、自分の指先を甘噛みし始めたハスキーを見下ろした。
「理路整然とした反論会見を開くより、留美子のような過剰な武力を持つハンターと、この脆弱な仔犬の組み合わせを露出させる方が、我々に向けられた敵意を中和する効果は高い。投資対効果としては十分だ」
「あははっ! さすがボス、よくわかんねえけど話がわかるぜ!」
留美子は犬の購入が認められたことに歓喜し、千葉の背中をバンバンと叩いた。
ひろみはソファの上で、肩を震わせて声を殺して笑っている。
「……相変わらず、理屈の通し方が異常ですね」
真琴は深いため息をつき、手元のタブレットに新たな経費項目を入力し始めた。
だが、その直後、真琴のタブレットの画面に赤色の緊急アラートが割り込んできた。通知のヘッダーを見た瞬間、真琴の呼吸が浅くなり、キーボードを叩く手がピタリと止まる。
「……社長。状況が動きました」
真琴の声のトーンが急激に下がったのを感じ取り、ひろみの笑みが消え、留美子も動きを止めた。
千葉は仔犬をそっと留美子に預け、真琴の方へ向き直った。
「大手ギルド連合が、実力行使に出たようです。彼らの息がかかった市民グループが、うちの主力収益源である第1A級ゲート周辺で、大規模な座り込みデモを開始しました」
真琴はタブレットの映像を壁のモニターに転送する。
そこには、プラカードを掲げた数百人の群衆が、ダンジョンの入り口を完全に封鎖している様子が映し出されていた。プラカードには『アビスは魔素汚染を隠蔽している!』『近隣住民の命を守れ!』と大書されている。
「そしてたった今、ダンジョン庁から正式な通知が来ました。『周辺住民の安全が確認されるまで、第1ゲートの稼働を無期限で停止する』とのことです」
真琴はギリッと奥歯を噛み締めた。
「デモ隊との物理的な衝突は絶対に避けなければなりません。少しでも強引な排除を行えば、待機しているメディアが『暴力的な弾圧』として大々的に報じるでしょう。……完全に、手足を縛りに来ましたね」
ひろみがモニターの映像に目を細め、静かに立ち上がった。
「……プラカードの文字体、見事に揃ってるわね。それに、前列で腕を組んでる連中。一般市民のフリをしてるけど、立ち方や視線の配り方が違う。ハンター崩れのゴロツキか、プロの扇動屋が混ざってるわ」
「彼らが用意した盤面の上では、データを示して反論しても『企業の捏造だ』と切り捨てられるだけです」
真琴は悔しげにモニターを睨みつけた。
「相手の土俵で論理を語る必要などありません」
千葉はデスクに戻り、PCの電源を落とした。
その声は、絶体絶命の危機に直面しているとは到底思えないほど、静かで、冷え切っていた。
「大衆は正しい数字ではなく、面白いストーリーを求めている。彼らが用意した陳腐な物語など、より刺激的なエンターテインメントで上書きしてしまえばいい」
「上書きって……どうやって?」
真琴が問う。
「我々の正当性を、彼らの感情に直接突き刺すための手段です」
千葉はデスクの上のスマートフォンを手に取り、無言で入り口へと歩き出した。
「久保CFO。明日の朝までに、新たな役員報酬の契約書面を1つ用意しておきなさい。……我々の言葉を最も効率よく大衆に届けるための、スピーカーを迎えに行きます」
千葉がマホガニーの扉を開けて出て行く。
残された社長室では、留美子に抱かれたハスキーの仔犬だけが、状況もわからずに無邪気な欠伸を1つ、小さく漏らした。




