第8話 数字は嘘をつかない
深夜3時。アビス・マイニングの執務室は、サーバーの無機質な排気音と、空調の低い唸りだけが支配していた。
フロアの照明はすべて落とされ、久保真琴のデスクに並んだ3枚の大型モニターだけが、暗闇の中で青白い光を放っている。
真琴は、乾ききった目を擦ることも忘れ、画面上のスプレッドシートを猛烈な速度でスクロールさせていた。
右の画面には、帝都プロミネンスが過去5年間に提出した有価証券報告書。左の画面には、ダンジョン庁が一般公開している第1から第7ゲートの魔素枯渇率の推移データが並んでいる。一見すると何の変哲もない、ただの退屈な数字の羅列だ。大手監査法人の無難な承認印も押されており、表向きは完璧な財務諸表に見える。
しかし、無数のセルを横断して独自の計算モデルを組み上げていくうちに、この膨大な情報の海の中に潜む極めて不自然な「歪み」が、はっきりとした輪郭を持ち始めていた。
「……合わない。どう計算しても、物理的な法則を無視している」
真琴はキーボードを強く叩き、複数のパラメーターを入れ替えて再度データをクロスチェックしていく。
ダンジョン内でモンスターを倒し、あるいは鉱脈から採掘される魔石。その産出量は、ダンジョンそのものが持つ魔素濃度に完全に比例する。プロミネンスの決算書上の売上原価――つまり魔石の仕入れ量は、年々微減という形で綺麗に平準化されていた。
だが、ダンジョン庁のデータが示す彼らの主力ゲートの魔素枯渇スピードは、その数倍の早さで進行している。
「これだけ魔素が枯渇しているのに、帳簿上の採掘量が少なすぎる……。掘り尽くしているのに、決算書には反映されていない?」
真琴の指が止まる。
仮説は1つしかない。彼らは採掘した魔石の大半を、意図的に帳簿から除外している。
「見つけましたか、久保CFO」
背後から落ちた低い声に、真琴はビクッと肩を揺らした。
振り返ると、暗がりの中に千葉秀俊が立っていた。夜明け前の暗闇に溶け込むような、完璧に仕立てられたダークスーツ姿。いつからそこにいたのか、足音すら聞こえなかった。
「……社長。はい、出ました。完璧な粉飾です」
真琴は安堵と興奮の入り混じった息を吐き、モニターの集計結果を指差した。
「彼らは『掘りすぎ』です。帳簿上、プロミネンスの主要ダンジョンからの魔石採掘量は綺麗にコントロールされています。しかし、現場の魔素濃度の減少率から逆算した実際の採掘量は、その比ではありません。特に、軍事転用や高度な魔力炉の燃料となるA級以上の高純度魔石。これが、過去5年間で少なくとも総額200億円分、完全に帳簿から『蒸発』しています」
千葉はモニターの数字を一瞥しただけで、微かに顎を引いた。
「その200億円分の魔石を市場外で横流しし、裏金を作っているということですね」
「間違いありません。これだけの規模の脱税と横領です。証拠が揃えば、プロミネンスの経営陣は全員実刑、上場廃止は免れません」
真琴の言葉に、千葉の背後の暗闇からスッと1つの影が分離した。
「その『消えた魔石』の行き先だけど、物理的な裏付けならここにあるわ」
市川ひろみだった。タイトな黒のスーツ姿の彼女は、音もなく真琴のデスクの横に立ち、手元のタブレットを操作して真琴のモニターに数枚の写真を転送した。
映し出されたのは、県南部の港湾エリアにある巨大な第4コンテナヤードと、深夜にそこへ出入りする黒塗りの大型トラックの列だった。
「ここ、佐伯幹事長の資金管理団体が実質的に所有してるダミー会社の管轄よ」
ひろみは画像をスワイプし、トラックの荷台から厳重に梱包された木箱が降ろされる様子を映し出した。
「深夜にゲートから採掘部隊のトラックが直行してる。佐伯の息がかかってるから、税関のチェックは当然フリーパスよ」
真琴は画面を食い入るように見つめ、点と点を繋ぎ合わせた。
「……そのまま、海外の非公認ギルドや軍需企業へ密輸している。見返りは佐伯への莫大な政治献金と、プロミネンス経営陣の法外な裏金ですね」
数字の矛盾と、物理的な証拠。2つのピースが完全に噛み合った。
真琴はマウスを強く握り直した。
「……これだけの証拠があれば十分です。すぐに証券取引等監視委員会と、東京地検特捜部に告発の準備を。これなら佐伯幹事長でも握り潰せません」
「告発はします。ですが、その前にやるべき手順がある」
千葉は真琴のデスクの端に手を突き、キーボードを操作して別ウィンドウを立ち上げた。
そこに表示されたのは、現在の帝都プロミネンスの株価ボードだった。画面は特大の買い注文で埋め尽くされ、ストップ高の気配値を張り付けたまま激しく点滅している。昨日から続く異常な熱狂だ。
「彼らは今、経営権を握られまいと必死です。ホワイトナイトを探す時間もない彼らは、佐伯議員のルートを使い、横流しで蓄えた裏金の一部を市場に還流させて自社株を買い支えている最中でしょう。市場も我々のTOBに便乗し、株価は実態を無視した異常な高値を付けている」
「……はい。時価総額は昨日から20パーセント以上跳ね上がっています。買収に必要な資金も、それに伴って膨れ上がっている状態です」
真琴が答えると、千葉はさらに別の暗号化されたウィンドウを展開した。
そこには、ケイマン諸島やシンガポールに籍を置く複数のファンド名義で構築された、天文学的な数字のポートフォリオが表示されていた。
「高いところまで登らせたのなら、そこから突き落とすのが最も効率的だ」
画面に並ぶ『売り』のポジション。
その意味を理解した瞬間、真琴は息を呑み、キーボードの上の指が空中で完全に硬直した。喉の奥が張り付くように乾き、言葉が上手く出てこない。
「……まさか。社長、あなた……最初から、プロミネンスを買収する気なんてなかったんですか?」
真琴は、掠れた声で千葉を見上げた。
「買収手続きは正規のものです。ですが、敵対的TOBには莫大なキャッシュが固定されるリスクが伴う。内部が腐りきり、政治家に寄生されているような非効率な組織の経営権など、元より引き受ける気はありません」
千葉は淡々と言い放つ。
「私が欲しいのは、彼らの絶望によって生まれる差額だけだ。市場が熱狂し、彼ら自身が裏金を使って株価を吊り上げている『今』が、最も高く売れる絶好のタイミングです」
真琴は手元の数字と千葉の顔を交互に見比べた。
TOBの発表は、プロミネンスの株価を人為的に極限まで暴騰させ、彼らに防衛のための裏金を吐き出させるための、ただの巨大な『撒き餌』に過ぎなかった。
そして今、千葉は海外のダミーファンドを使い、高値で彼らの株を限界まで「空売り」している。
「……午前9時の市場が開くと同時に、この不正の証拠を暴露する気ですね」
「ええ。彼らが自らの手で積み上げた株価という塔を、根元から爆破します」
千葉は手首の高級時計に視線を落とした。時刻は午前8時45分。
「留美子の配置は」
「県内南部の港湾部、対象の密輸倉庫前で待機中。相手の警備部隊はA級が3人、B級が10人程度。あの子なら5分もかからないわね」
ひろみが即答する。
「結構。久保CFO、午前8時55分。市場が開く5分前に、監視委員会と東京地検特捜部、および主要メディア各社の情報提供窓口へ、全ての証拠データを一斉送信。同時に、留美子に装着させたウェアラブルカメラの映像を、報道機関のオープン回線へ直接ストリーミング配信しなさい。市川CCOは、留美子に突入の許可を」
一切の感情を交えない、冷酷なタクトの振り下ろし。
真琴は深く息を吸い込み、モニターの光で冷えた手首を軽く回した。もう、後戻りはできない。いや、後戻りする気など最初からなかった。彼女の指が、キーボードの上で正確無比なタイピングを再開する。
「データ送信のスクリプト、最終確認完了。映像のストリーミング経路も複数確保しました。……カウントダウン、入ります」
午前8時55分。
真琴の指が、エンターキーを強く叩き込んだ。
数分後。
社長室の壁面に設置された大型モニターのニュース専門チャンネルで、番組が突然中断された。緊迫した表情のアナウンサーが、手元の原稿に目を落としながら早口で読み上げる。
『――速報です。東京地検特捜部と証券取引等監視委員会は合同で、国内最大手ギルド「帝都プロミネンス」の本社、および関係先へ強制捜査に入りました。巨額の魔石の違法輸出、および粉飾決算の疑いが持たれています』
同時に、画面の半分が切り替わり、アビス側から各メディアへリークされたリアルタイムの映像が映し出された。
分厚い鉄扉がひしゃげて吹き飛んだ巨大なコンテナ倉庫の内部。整然と積み上げられた、未申告の高純度魔石の山。その前で、プロミネンスの裏仕事を引き受けていた武装部隊の男たちが、留美子の振るう大剣『ニーズヘッグ』の一撃で、文字通り紙くずのようにまとめて壁に叩きつけられている。
『あーあ、こいつら、こんなに石ころ隠し持ってやがった! ボス、これ全部叩き割っていいか!?』
返り血を1つも浴びていない留美子が、ウェアラブルカメラのレンズ越しに無邪気な声を上げる。
彼らがひた隠しにしてきた不正の『真実』が、一切の言い逃れができない物理的な形となって、全世界のモニターへとばら撒かれていた。
午前9時。
東京証券取引所の取引が開始された。
昨日までストップ高で張り付いていた帝都プロミネンスの株価ボードは、開始のベルが鳴った瞬間に完全に凍りついた。
買い手はゼロ。特売りの表示が激しく点滅し、圧倒的なパニック売りが市場を呑み込んだ。
経営陣の逮捕、粉飾決算、違法輸出。信用という基盤を失った企業の株券は、一瞬にしてただの紙切れへと変貌していく。株価の数字が、滝のように急転直下で崩れ落ちていった。
同時に、千葉のデスクのモニターに表示された海外ファンドの口座残高が、凄まじい勢いで跳ね上がり始める。
暴落する前に空売りを仕掛けていたポジションが、株価の落下と反比例して莫大な利益を叩き出していく。秒単位で数億円、数十億円という価値が、プロミネンスの絶望から千葉の口座へと吸い上げられていく。
真琴は、その暴力的なまでの数字の奔流を前に、静かに立ち尽くしていた。
法律も、証拠も、国家の捜査機関すらも、全てはこの男が描いたチャートを完成させるためのプロセスに過ぎなかったのだ。
「株主の信用、政治家の庇護、そして彼らが溜め込んだ裏金。すべてが市場のパニックに飲み込まれ、我々の口座へと還流する」
千葉はデスクから手を離し、ゆっくりと姿勢を正して窓際へと歩み寄った。
眼下に広がる東京の街を見下ろすその顔には、勝利の歓喜も、相手への憐憫も一切ない。ただ、計算式が正しかったことを確認しただけの、冷徹な観察者の目があった。
「数字は嘘をつきません。彼らの負債は、私の利益だ」
真琴は深く息を吐き、モニターから視線を外して千葉の背中を見つめた。
ただ静かに、淡々と盤面を支配し、巨大な組織を根底から解体してみせた男。真琴はその背中から目を逸らすことができなかった。
「……本当に、恐ろしい人。でも……完璧なスキームです、社長」
真琴の呟きに、千葉は振り向くことなく、手元の銀色のシガーケースから葉巻を1本引き抜いた。
千葉の後ろに控えていたひろみが、無言のまま静かにライターの火を差し出し、薄く笑った。




