第7話 敵対的TOB
アビス・マイニング本社の執務室。
フロアの照明はとっくに落とされ、久保真琴のデスクの上だけが、3枚の大型モニターが放つ青白い光に照らされていた。
画面には、帝都プロミネンスの財務諸表、株主名簿、そして複雑に分岐した金融商品のスキーム図が並んでいる。
時価総額820億円。過半数の株式を取得し、経営権を完全に掌握するには、最低でも410億円のキャッシュが必要になる。アビス・マイニングの現預金と流動資産をすべて掻き集めても、到底届かない数字だ。
真琴はキーボードを叩く手を止め、マグカップに残っていた冷え切ったコーヒーを喉に流し込んだ。苦味がザラリと舌に残るが、眠気を散らすにはちょうどいい。
国内の主要銀行は使えない。すでに与党の佐伯幹事長からの圧力がかかっており、アビス・マイニングの新規融資枠は事実上凍結されている。
加えて、プロミネンス側もただ黙って買収されるわけがない。敵対的買収を仕掛けられた際、彼らは必ず定款に定められた防衛策を発動し、新株を大量発行してこちらの持ち株比率を薄めにかかってくるはずだ。
真琴は首の骨を鳴らし、千葉から渡された一つの暗号化ファイルを開いた。
そこには、ケイマン諸島やシンガポールに籍を置く、複数の海外ヘッジファンドのリストと直通の連絡先が記載されていた。かつて千葉がウォール街で支配していたネットワークの残滓。彼が「氷の死神」と呼ばれていた時代の、危険な武器庫だ。
真琴の指が、再び猛烈な速度でキーボードを叩き始める。
買収先の資産と将来のキャッシュフローを担保にして、海外のファンドから莫大な資金を借り入れる。外為法と金融商品取引法の厳しい規制網をすり抜けるため、SPC(特別目的会社)を3つ噛ませ、資金の出所を合法的にロンダリングするルートを構築していく。
同時に、別ウィンドウでプロミネンスの過去の定款変更履歴を過去10年分にわたって洗い出す。
「あった……。第14条第3項」
真琴は画面上の特定の条文をハイライトした。
防衛策発動時の特別決議要件。旧会社法の解釈のままアップデートされていない、法的なバグだ。彼らが防衛策を発動した瞬間に東京地裁へ差し止め請求を出せば、手続き上の重大な瑕疵を突き、その動きを完全に封じ込めることができる。
パズルのピースが、カチリと音を立ててはまっていく。
法の網の目を縫い、巨大な敵の喉元に致命的な刃を突き立てるための完璧な論理。それは、彼女がかつて大手法律事務所で心底嫌悪していた「権力者のための強引な法解釈」の裏返しだった。
しかし今、彼女の胸を満たしているのは罪悪感ではない。
理不尽な既得権益のシステムそのものを、より巨大で洗練されたロジックで叩き潰すという、身震いするような暗い高揚感。自分の手で組み上げた法と数字の檻が、巨大企業を絡め取っていく確かな手応えだった。
「残業代と深夜手当は、分単位できっちり請求させてもらいますからね、社長」
真琴はモニターの光に薄く笑いかけ、最後のエンターキーを強く叩いた。
★★★★★★★★★★★
その日の深夜。
アビス・マイニングが入る雑居ビルの地下駐車場は、冷たいコンクリートの匂いと重い静寂に包まれていた。
千葉秀俊は、一切のシワを許さないネイビーのスーツ姿で、待機しているハイヤーに向かって一定の歩調で歩いていた。彼の革靴の足音だけが、不気味なほど規則正しく響き渡っている。
背後の暗がりから、音もなく3つの影が分離した。
プロの暗殺者たちだ。ダンジョンの魔素を利用した光学迷彩の外套を羽織り、足音すら魔力で完全に打ち消している。佐伯幹事長とプロミネンスの役員が、アビスの急激な動きに焦り、裏のルートで手配した実働部隊。
3人の標的はただ一つ、千葉の心臓。
先頭の1人が、魔力を帯びたセラミックナイフを逆手に構え、千葉の背後わずか2メートルの距離まで肉薄した。
その瞬間、暗殺者の足元の影が、文字通り「跳ね上がった」。
「ガッ……!?」
声にならない絶叫。
床の影に同化して潜んでいた市川ひろみが、暗殺者の顎下から鋭い短刀を突き上げ、脳幹を正確に破壊していた。鮮血が吹き上がるよりも早く、ひろみの体はすでに次の標的へと沈み込んでいる。
「チッ!」
2人目の暗殺者が反射的に腰の魔力銃に手を伸ばす。
しかし、ひろみの回し蹴りがその手首を真下から蹴り上げた。骨が砕ける鈍い音とともに銃が宙を舞う。ひろみはその銃を空中で掴み取ると、躊躇なく相手の膝を撃ち抜いた。
3人目。最後尾にいた魔法特化の暗殺者が、状況の異常さを察知して後退しながら炎の詠唱を始める。
「炎よ、我が敵を――」
詠唱が完了するより早く、ひろみの左手から放たれた黒いワイヤーが暗殺者の首に巻き付いた。ひろみが手首を鋭く引き絞ると、ワイヤーは特殊な防刃布を食い破り、頸動脈を完全に切断した。
戦闘開始から、わずか3秒。
3つの死体がコンクリートの床に崩れ落ち、赤黒い血だまりが広がり始める。
千葉は、その間、一度も振り返ることなくハイヤーのドアの前に立ち止まっていた。
「少し遅いですね、市川CCO」
千葉は手元のスマートフォンで時刻を確認しながら、平坦な声で言った。
「ごめんなさい、ボス。1人、B級の身体強化持ちが混ざってたわ。ワイヤーで落とすのにコンマ数秒、余計な手間がかかった」
ひろみは血のついた短刀をハンカチで拭い、タイトなスーツの襟元を直しなから千葉の背後に歩み寄った。その呼吸は、深夜の散歩でも終えたかのように一切乱れていない。
「佐伯の息がかかった連中でしょうか」
「ええ。口座の動きはもう押さえてあるわ。プロミネンスの専務の個人口座から、ダミー会社経由で報酬が振り込まれてた。……随分と焦ってるわね」
ひろみは倒れている暗殺者のポケットから通信端末を抜き取り、冷たい目で見下ろした。
「この通信記録と口座履歴は、後で真琴のデスクに投げておくわ。交渉のいい弾になるでしょ」
「上出来です。これで、彼らの物理的な手駒は底を突いた」
千葉はハイヤーのドアを開けた。
「留美子の状況は」
「あの子は指示通り、プロミネンスの主力A級ダンジョン周辺で『散歩』中よ。S級の魔力圧を垂れ流して歩いてるから、周辺のモンスターが怯えて深層に引き籠もっちゃって、向こうの採掘部隊は今日一日、完全に足止めね」
「結構。彼らの最大の収益基盤にヒビが入れば、市場は必ず敏感に反応する」
千葉はハイヤーの後部座席に乗り込んだ。ひろみは静かにドアを閉め、助手席へと回る。
車が滑り出す中、千葉は冷たい目で窓の外の東京の夜景を見つめた。
★★★★★★★★★★★
タイムリミットの48時間が経過した、午前8時。
アビス・マイニングの社長室。
久保真琴は、真新しいブラウスに着替え、千葉のデスクに分厚いファイルの束を静かに置いた。
疲労の極致にありながらも、その立ち姿にはこれまでになかった確かな風格が漂っている。彼女自身が組み上げた強固な法と数字の防壁が、彼女を支えていた。
「公開買付届出書、およびSPCを通じた海外ファンドからの資金調達証明書です。公開買付価格は、直近の終値2400円に対し、30パーセントのプレミアムを乗せた3120円に設定しました」
千葉はファイルを開き、並んだ数字と契約条項に素早く目を通していく。
「プロミネンス側の買収防衛策への対抗ロジックは」
「第14条の定款の瑕疵を突きます。彼らが防衛策の特別決議を行った瞬間に、東京地裁に差し止め仮処分の申し立てを行う準備が整っています。過去の判例と現在の会社法に照らし合わせれば、差し止めが認められる公算は極めて高いです」
真琴は千葉の目を真っ直ぐに見据えた。
「行政や政治が不当な介入をしてくる前に、市場のルールと既存の法体系で完全に雁字搦めにしました。佐伯幹事長がどれほど圧力をかけようと、裁判所が法律の明文規定を完全に無視することは不可能です」
千葉は視線を書類から外し、真琴の顔を見た。
その冷徹な瞳が、彼女の仕事の成果を値踏みするように細められる。
「……資金調達のルート構築に、私の想定より2時間多くかかりましたね」
「外為法のクリアランスを完璧にするためです。後から金融庁に難癖をつけられるリスクを完全に排除しました」
一歩も引かない真琴の返答に、千葉の口角がほんのわずかに上がった。
「よろしい。合格です、久保CFO」
千葉は手元のタブレットを操作した。
「たった今、関東財務局のEDINETを通じて、公開買付届出書を提出しました。同時に、各報道機関へプレスリリースを送信。市場が開く午前9時、すべてが公になります」
真琴は小さく息を吐き、デスクの横に静かに控えていたひろみと視線を交わした。ひろみは無言のまま、労うように薄く笑って片目をつぶった。
午前9時。
東京証券取引所の取引が開始された瞬間、帝都プロミネンスの株価ボードに異常事態が発生した。
圧倒的な買い注文の殺到。ストップ高の気配値のまま、取引がまったく成立しない。
『――速報です。新興ダンジョンギルドのアビス・マイニングが、業界最大手の帝都プロミネンスに対し、敵対的TOBを実施すると発表しました。買付総額は最大で約500億円規模に上ると見られ……』
社長室の壁面モニターに映し出された経済ニュースのキャスターが、手元の原稿を見ながら興奮気味に読み上げている。
「プロミネンスの経営陣は、今頃パニックでしょうね」
真琴がモニターを見上げながら呟いた。
「彼らは必ず防衛策に走ります。ホワイトナイトを探すか、自社株買いか。だが、彼らのメインバンクはすでに私が裏で手を回し、追加融資を渋るように仕向けてあります。動ける資金には限界がある」
千葉は立ち上がり、窓際に歩み寄って眼下に広がる新宿の街を見下ろした。
「彼らの防壁は、外側からの巨大な資本の圧力と、内側からの疑心暗鬼で崩壊します」
千葉は振り返り、真琴とひろみを見た。
「だが、相手は国に深く根を張った巨大組織です。このTOBは、彼らを交渉のテーブルに引き摺り出し、首に縄をかけるための手続きに過ぎません。確実に息の根を止めるためには、彼ら自身の足元を崩す必要があります」
「足元、ですか」
真琴の表情が引き締まる。
「巨大な組織が急激な成長を遂げ、なおかつ政治家に多額の裏金を流している場合、帳簿の数字と実際の現場との間に、必ず物理的な矛盾が生じます」
千葉はスーツのボタンを外し、革張りの椅子に深く腰を下ろした。
「彼らの過去5年間のダンジョン資源の採掘量、販売記録、そして決算書の売上原価の推移。すべてのデータを集めなさい。彼らがひた隠しにしている『歪み』を暴き出し、市場の真ん中で完全に解体します」
「……了解しました。徹底的に洗い出します」
真琴はファイルを胸に抱き、踵を返して社長室を出て行った。その足取りは力強く、迷いは一切なかった。
ドアが閉まった後、ひろみが千葉のデスクに歩み寄った。
「ボス。大手のギルドを一つ潰せば、次はダンジョン庁や、他の大手ギルド連合が本気でうちを潰しにかかってくるわよ」
「望むところです」
千葉は窓の外へ視線を向けたまま、淡々と答えた。
「彼らが作り上げた非効率なルールで戦う気はありません。盤面ごとひっくり返し、私のルールで市場を再定義する。準備を進めてください、市川CCO。これからが本番です」




