第54話 神からの負債証明書
新宿のアビス・マイニング本社、最上階のCEO室。
すっぽんの圧倒的な滋味で神経の疲労を強制的に回復させた久保真琴は、マホガニーのデスクに置かれた「それ」と、すでに三時間以上睨み合っていた。
それは、つい先ほど高次元からの使者たる「天使」が残していった、半透明の硬質なパネルだった。『星間負債証明書』という概念を物理的に実体化させたものだ。
マヤが組み上げた翻訳アルゴリズムを通し、パネルから発せられる未知の信号が、隣に置かれたモニター上で現代の言語と数字の羅列へと変換されていく。
「……信じられない。こんな杜撰なものを持ってきたんですか、あいつらは」
真琴は乾いた目を瞬きさせ、キーボードを叩く指を止めた。
「法的な解体は終わりましたか、久保CFO」
デスクの向こう側で、千葉秀俊は完璧に仕立てられたスリーピーススーツの皺一つ乱さず、手元のタブレットから視線を上げずに問うた。
「ええ。相手がアメリカの巨大軍需企業だろうと、上位次元の神様だろうと、契約の体裁を取ってきた時点で私の土俵です。論破する準備は整いました」
真琴の瞳には、未知の存在への恐怖は微塵も残っていない。ただ、法務のプロフェッショナルとして、極めて低レベルな書類を突きつけられたことに対する純粋な怒りがあった。
「よろしい。それでは、こちらの返答を示すとしましょう」
千葉はタブレットをタップし、通信回線を開いた。
「マヤCTO。猶予期間は無視します。今すぐ世界中のゲートの逆流を物理的に遮断しなさい」
『了解、ボス!』
通信越しに、マヤの軽快な声とエンターキーを強く叩き込む音が響いた。
その瞬間だった。
CEO室の空気が、急激に圧縮された。
天井の照明が不規則に明滅し、空間の中央、ペルシャ絨毯の上空に、ガラスを引っ掻くような甲高いノイズと共にインクが滲むような黒い亀裂が走る。
紫色の放電がバチバチと散り、裂け目が左右に無理やり押し広げられた。
そこから現れた「それ」は、前回と同じく、透き通るような白い肌に黄金の長髪、そして背中に光学兵器のような三対の翼を持つ「天使」の姿をしていた。
だが、その存在から発せられるプレッシャーは、先ほどとは全く質が異なっていた。空気そのものが重みを増し、重力場が狂ったかのように内臓が下へと引っ張られる。S級ハンターたちが放つ暴力的な魔力圧とは違う、生物としての根源的な階層の違いを細胞レベルで叩きつけられる感覚。
デスクの下で、アッシュが毛を逆立てて牙を剥き出しにし、低く唸り声を上げている。
「下等な管理者たちよ。我の宣告した猶予を自ら破り、システムの遮断を試みるとは」
天使の声は空気を振動させず、脳へ直接響いた。一切の感情がない、冷徹な機械音声。
「これは明らかな契約不履行であり、反逆である。これより直ちに、この星の全知的生命体の隷属による強制回収を実行する」
天使が白く細い腕を振り上げた。空間が歪み、致死量の重圧が真琴の肩にのしかかる。
だが、その圧倒的な重圧に晒されながらも、真琴の瞳から恐怖がスッと抜け落ちていった。彼女は無言のまま一歩を踏み出し、デスクの上に置かれた半透明のパネル――『星間負債証明書』を無造作に掴み上げた。
「……なんですか、この穴だらけの書類は」
冷え切った真琴の声が、脳内に直接響く天使の音声を切り裂いた。
天使の無表情な顔がわずかに動く。
「下等生物が。我の宣告に口を挟むか」
「宣告? 笑わせないでください。これを『証明書』として置いていった以上、これは債権者と債務者の間に発生する契約文書です」
真琴は硬質なパネルをビシッと指で弾いた。
「まず第1条。魔素の超過消費とありますが、債務発生の根拠となる具体的な数値データ、および過去の従量課金のログが一切添付されていません。客観的な計量証明がない以上、これではただの架空請求です。証拠不十分で却下します」
天使の周囲を漂う光の粒子が、不規則に明滅を始めた。
「さらに第3条の遅延損害金。これ、複利計算になっていますが、金利が天文学的な数字です。どこの次元の利息制限法を基準にしているんですか? 出資法はおろか、公序良俗に完全に反する暴利です。法律上、無効と見なされます」
真琴は止まらない。恐怖よりも、目の前の「杜撰な契約書」に対する法務責任者としてのプロ意識が完全に勝っていた。
「致命的なのが第8条。万が一この契約内容で揉めた場合、どこの法廷で決着をつけるのか、管轄裁判所の指定条項がありません。まさか『神の裁き』なんて曖昧なものを持ち出す気じゃないでしょうね。我々地球側に上位次元へのアクセス権がない以上、著しく公平性を欠く一方的な契約です」
「貴様……理を外れた戯言を……」
天使の放つ重圧がさらに増し、防音ガラスにピキピキと細かい亀裂が入り始めた。
だが、真琴は一歩も引かず、パネルを天使の目の前に突きつけた。
「そして最後に。サインも、責任者の捺印も、タイムスタンプすらない。誰がこの決定を下し、誰が責任を負うのかが全く不明確です。こんなものは契約書でもなんでもない。稟議にも上がらない、ただの質の悪い怪文書です」
真琴の容赦ないリーガルチェックの連打に、天使は完全に沈黙した。宇宙の法則を管理する存在であっても、人間の築き上げた極度に複雑で執拗な「資本と契約のルール」に正面から論破されたのは初めてだったのだ。
「我が社のCFOが指摘した通りです」
それまで静観していた千葉が、デスクから立ち上がり、ネイビーのスリーピースのフロントボタンを留めながら前に出た。その歩調には、世界を相手にM&Aを仕掛ける時と何一つ変わらない、冷徹な威圧感があった。
「この板切れに、法的かつ経済的な拘束力は一切ない。よって、支払いは拒否します。請求の正当性を証明する完全な書類を用意し、指定の窓口から再提出を求めます」
千葉は手元のタブレットを操作した。
「マヤCTO。ファイアウォールを最大出力へ」
『任せて! 次元間のパケット通信、物理的に完全シャットアウト!』
アビス・マイニングのメインサーバーが限界を超えて稼働し、世界中のゲートに組み込まれた制御システムが強制的に防壁を展開した。天使の背後にある空間の裂け目が、激しいノイズを発しながら不安定に揺らぎ始める。
「下等生物ども……この不遜、必ず代価を支払わせる……」
天使は屈辱に顔を歪ませ、強制的に閉じていく空間の裂け目へと吸い込まれるように消えていった。
CEO室に、再び重苦しいほどの静寂が戻る。
真琴は手元のパネルが光の粒子となって消滅するのを見届けると、膝から崩れ落ちるようにペルシャ絨毯にへたり込んだ。
「……あ、あああ……っ、心臓、止まるかと思った……」
「見事な監査でした、久保CFO。あなたの法務知識が、高次元からの不当な差し押さえを完全に弾き返した」
千葉はペリエのボトルを開け、グラスに注ぐと真琴に差し出した。
「褒められても嬉しくないです……。社長、これからどうするんですか。法律が通用したのは、相手が油断して『書類』の形をとってきたからです。次は物理的に潰しに来ますよ」
真琴が震える手でグラスを受け取った。
「やることは同じです。相手がアメリカの軍産複合体であろうと、高次元のシステム管理者であろうと、我々の資本とインフラを脅かす存在であるならば、防壁を築き、最終的には彼らのシステムごと買収し、支配するだけです」
千葉の氷のような声には、狂気すら孕んだ絶対的な確信があった。
「そのための第一歩として、地球側の足場を完全に固めます。今夜、重要な会食がある」
★★★★★★★★★★★
東京、銀座。
地下深くにある、看板のない完全紹介制のフレンチ・レストラン。
分厚いオーク材の扉の奥、計算し尽くされた間接照明に照らされた個室は、外の喧騒だけでなく、先ほどまで世界を揺るがせていた高次元の脅威すらも遮断しているかのように静謐だった。
クロエ・ヴァン・デル・ベルグは、深いワインレッドのイヴニングドレスに身を包み、アンティークのグラスに注がれたヴィンテージのシャンパンを静かに見つめていた。透き通るような白い肌が、間接照明を浴びて滑らかに光っている。
「わざわざ私をベルギーから呼びつけておいて。食事の誘い文句が『世界の終わりに向けたポートフォリオの再構築』だなんて、ロマンチックの欠片もないわね、ミスター・チバ」
向かいの席で、千葉は氷を入れないペリエを一口飲み、完璧な所作でグラスを置いた。テーブルの中央には、完璧な火入れでロゼ色に仕上げられた仔羊のロティが置かれ、芳醇なトリュフの香りを漂わせている。
「適正なリスク開示は、長期的なパートナーシップにおいて不可欠です。あなたには、我々が現在直面している『上位次元からの不当請求』という事実を知った上で、EUの政治基盤を完全にアビス・マイニングの規格へ固定化する作業を進めてもらう必要がある」
クロエは赤い唇の端をわずかに吊り上げた。
彼女はすでに、マヤが構築した暗号通信網を通じて、アビス・マイニングの本社で起きた異常事態――高次元生命体による接触――のデータを受け取っていた。常人であればパニックに陥り、世界が終わると絶望するだろう。
だが、このベルギーの旧貴族の令嬢は、恐怖よりも先に、目の前の男の底知れぬ野心に戦慄と、ある種の恍惚を覚えていた。
「アメリカの特許網を焼き払い、韓国の財閥を解体したと思ったら、次は神様との戦争の片棒を担がせる気?」
「戦争ではありません。不良債権の整理と、システムの適正化です」
千葉は銀のナイフを滑らかに動かし、肉の繊維を一切潰すことなく切り分けた。
「現在、世界中の魔力炉は我が社のシステムで完全にロックされ、上位次元への魔素の流出は食い止められています。しかし、各国の政府がパニックを起こし、独自にゲートの制御を試みれば、防壁に穴が空く。それを防ぐためには、ヨーロッパのダンジョン規制委員会を通じ、EU加盟国のインフラの全権を我が社に完全委譲させる超法規的措置が必要です」
「……EUの重鎮たちに、国家の主権を放棄しろと言っているのと同じよ。いくら私がロビー活動を得意としているとはいえ、見返りなしで動かせる規模じゃないわ。彼らは未知の脅威よりも、既得権益を失うことを恐れる生き物よ」
クロエはシャンパングラスを置き、千葉を真っ直ぐに見据えた。
「だからこそ、あなたが動くのです。彼らには『未知の脅威から保護するための唯一のシェルター』という名目でパッケージングして提供しなさい。ヴァン・デル・ベルグ嬢、あなたにはEU市場におけるアビス製品の価格決定権の三割を委譲します」
それは、ヨーロッパ全土の経済を実質的に支配する権利に等しかった。クロエの碧眼が、一瞬だけ獲物を見つけた肉食獣のように鋭く光る。
「……いいわ。神様を相手にインサイダー取引を仕掛けるなんて、私の血筋の歴史を探っても初めての経験になるでしょうね」
クロエはナイフとフォークを手に取り、優雅な手つきで仔羊のロティを口に運んだ。彼女の所作は完璧な貴族のそれでありながら、内なる野心は確実に目の前の男の狂気と共鳴していた。
「頼りにしていますよ。我々が全次元の理を書き換えるための、最初の布石です」
千葉の冷徹な言葉が、銀座の地下の静寂に溶け込んでいった。




