第55話 宇宙的スケールの理不尽と物理的拒絶
新宿のアビス・マイニング本社、最上階のCEO室。
空調の低い稼働音だけが響く広大な空間で、久保真琴は手元に置かれた半透明のパネル――高次元からの使者が突きつけてきた『星間負債証明書』――から視線を上げ、目の前に浮かぶ「天使」を真っ直ぐに見据えた。
「……以上が、この書類に対する当社の法務的見解です」
真琴の声は、ひどく冷たく、淀みがなかった。
S級ハンターの放つ殺気などとは比較にならない、存在の根源を揺さぶるような圧迫感。細胞の一つ一つが警鐘を鳴らしていたが、連日の徹夜と、自らが構築してきた法的ロジックへの絶対的な自信が、未知の脅威に対する恐怖を完全にねじ伏せていた。
「管轄裁判所の指定がなく、金利計算は地球上のあらゆる利息制限法を完全に無視した暴利。何より、債権者であるあなた方自身の署名も捺印も存在しない。地球のいかなる法律、そして国際的な商取引のルールにおいても、これはただの『落書き』と同義です。こんな杜撰な紙切れで我々の資産――人類の未来を差し押さえられると考えているなら、あなた方は宇宙規模で法務部を再編すべきですね。到底、契約書として受理できる代物ではありません」
真琴がパネルをデスクの端へ無造作に押しやると、空中に滞空していた高次元生命体の顔から、先ほどまでの超越的な余裕が完全に消え去った。
美しい大理石の彫刻のようだった無機質な顔面が、理解しがたい屈辱にピクリと引き攣る。
『下等生物が……ッ!』
室内の空気が、急激に圧縮された。
天使の背後に広がる空間の亀裂から、莫大な量の紫色の放電がバチバチと散り、CEO室の分厚い防弾ガラスが悲鳴のような軋み音を上げる。床に敷かれた最高級のペルシャ絨毯が、目に見えない重圧によって繊維から押し潰されていく。
『我ら上位次元の定めた絶対の「理」を、泥で作られたような局所的なルールで測るか。思い上がるな、塵芥ども。契約の不備を衒うなら、力によって強制執行を行うまでだ』
天使の周囲に、空間を歪ませるほどの高密度な魔力エネルギーが球体となって集束し始めた。それは地球上のハンターたちが放つ魔力とは根本的に質が異なっていた。物理法則そのものを書き換え、対象の存在を概念ごと消滅させるような、宇宙的スケールの理不尽な暴力。このままエネルギーが解放されれば、新宿のビル群ごと物理空間が消し飛ばされる。
真琴が思わず息を呑み、反射的に体を硬くしたその時。
「想定内の反応です」
マホガニーのデスクの向こう側で、千葉秀俊は手元のタブレットから一切視線を外すことなく、極めて平坦な声で告げた。
彼の眼前で、世界の終わりを体現するようなエネルギーが膨張しているというのに、その横に置かれたペリエのグラスは、微かな微動すら見せていない。
「法と論理で勝てない相手が次に取る行動は、いつの時代も、どの次元でも共通しています。……処理しなさい」
千葉が短く命じた瞬間、天使の背後の空間が、不自然に波打った。
『――何?』
天使がその異変に気づくより早く。
タイトな黒のパンツスーツを着崩した市川ひろみが、影そのものから溶け出すようにして天使の死角に顕現していた。
「ご高説の途中だけど、うちのボスは騒がしいのが嫌いなのよ」
冷たく透き通った声と共に、ひろみの両手に握られたカランビットナイフが銀色の閃光を描く。
天使が咄嗟に展開した高次元の光の防壁。いかなる現代兵器も弾き返すはずのその絶対的な装甲の「継ぎ目」――事前のマヤの解析によってピンポイントで特定されていた魔力の結節点を、ひろみの刃は寸分の狂いもなく、まるで水風船を切り裂くように滑らかに切断した。
『馬鹿な、我々の次元装甲が……ッ!』
驚愕に目を見開く天使の背中から、ひろみは両腕の関節と背面の腱の駆動部を正確に切り裂いた。音もなく、流れるような手際で、高次元生命体の姿勢制御を完全に奪う。
「留美子!」
「っしゃあああッ! 邪魔だオラァ!」
ひろみが身を翻して後退した直後、CEO室の重厚なオーク材の扉を粉砕して、菅原留美子が飛び込んできた。
彼女の手に握られているのは、自身の背丈ほどもある大剣『ニーズヘッグ』。高次元の未知なる合金と、マヤが組み上げた過剰な魔力回路によって最適化された最新鋭の暴力装置だ。
留美子は床のペルシャ絨毯を蹴り破るほどの踏み込みで跳躍し、姿勢を崩した天使の頭上から、圧倒的な質量を乗せて大剣を振り下ろした。
彼女の全身から噴出する青白い魔力光が、天使の放っていた高次元のエネルギーを力任せに押し潰していく。
斬撃ではない。物理法則すらも力で捻じ伏せる、純粋な「粉砕」。
ドォォォォンッ!!
空気を切り裂く轟音と共に、天使の体が中央から真っ二つに叩き割られ、さらにひろみが切り裂いていた関節のラインに沿って、文字通り『三枚おろし』の無惨な姿へと解体された。
神々しい光を放っていた肉体が、三つの巨大な光の塊となって床に叩きつけられ、やがて粒子となって空間の亀裂の中へと吸い込まれるように消滅していく。
残されたのは、真っ二つに割れた天使の光輪の一部と思われる、紫色の結晶体だけだった。
「……ふぅ。なんか、豆腐斬ってるみたいで手応えなかったな」
留美子は大剣を肩に担ぎ直し、つまらなそうに首の骨を鳴らした。
ひろみはカランビットナイフの刃をハンカチで拭いながら、小さく息を吐く。
「神様気取ってた割には、物理的な拒絶に弱かったわね。マヤの解析データが完璧だったおかげだけど」
真琴は、腰が抜けそうになるのを必死に堪えながら、デスクに手をついた。
高次元からの取り立て屋。宇宙的スケールの理不尽。それが、ほんの数秒の間に、圧倒的な物理的暴力によって完全に排除されたのだ。
「……社長。これは、その……」
千葉はタブレットを伏せ、立ち上がった。
「論理が通じない相手には、物理的なコストを支払わせる。ビジネスにおける基本です。……マヤCTOを呼んで、そこに落ちている残骸の解析を。未知のエネルギー源として、我が社のバランスシートに貢献するはずです」
「は、はい……」
千葉は左手首の時計に目を落とし、真琴へ視線を向けた。
「さて。松尾広報部長は、社内にいますか」
「え? あ、はい。本日はスタジオで明日の配信用の編集作業をしているはずですが……」
「19時に地下駐車場へ降りるよう伝えてください。ドレスコードはスマートカジュアルです」
真琴が目を丸くする。
「……それって、デートですか?」
「優秀なスピーカーには、適切な給油と、次なる戦略のインプットが必要です」
千葉は静かに呼吸を整え、告げた。
★★★★★★★★★★★
19時30分。
東京湾を静かに滑る、黒塗りの流線型クルーザー。
アビス・マイニングが法人の福利厚生枠として接収したこの中型クルーザーのキャビンは、計算し尽くされた間接照明と、海面を見渡せる広い窓によって、極めて洗練されたプライベート空間を形成していた。
松尾伸子は、少し背伸びをして揃えたダークネイビーのワンピース姿で、グラスのシャンパンを両手で握りしめたまま、目の前に運ばれてきた料理を凝視していた。
東京湾を見下ろすクルーザーで、世界を牛耳る男と二人きりで食事をしている。現実感が欠落しそうになるが、漂ってくる磯の香りとバターの暴力的な匂いが、これが紛れもない現実であることを彼女の胃袋に教え込んでいる。
「……しゃ、社長。これ、本当に私が食べていいんですか?」
テーブルの中央に置かれたのは、最高級の伊勢海老と、アワビの炭火焼き。そして、キャビアが添えられた雲丹の冷製パスタだった。
対面の席で、千葉は氷を入れないペリエのグラスを置き、銀のフォークを手に取った。
「当然です。これはあなたの労働に対する正当な対価の一部であり、今後のパフォーマンスを最大化させるための先行投資です。冷める前に食べなさい」
伸子はゴクリと喉を鳴らし、フォークを手にした。
パスタを一口頬張った瞬間、彼女の顔が劇的に緩む。
「んんんっ……! なにこれ、雲丹が甘い! キャビアの塩気とパスタがめちゃくちゃ合います! 鼻から抜ける香りがもう、海そのものっていうか……最高です!」
目の前で美味そうに料理を平らげる彼女の、嘘偽りのない親しみやすいリアクション。千葉はそれを静かに観察しながら、自身もパスタを少量切り取り、無駄のない所作で口に運んだ。
彼にとって食事とはカロリーの摂取であり、味覚への刺激を通じた脳への報酬だ。しかし、目の前で美味そうに食べる部下の姿が、その報酬効果をわずかに引き上げている事実を、千葉は否定しなかった。
「美味しい食事は、神経の緊張を解き、想像力を活性化させます。……松尾部長、本日の午後、本社に高次元の存在が侵入し、物理的に排除された件について、すでに真琴から概要を聞いていますね」
千葉の言葉に、伸子は口元をナプキンで拭い、表情を引き締めた。
「はい。天使みたいな奴らが借金の取り立てに来て、ひろみさんと留美子ちゃんが三枚におろしたって。……正直、スケールがデカすぎてまだ頭が追いついてないんですけど」
「理解が追いついていなくても構いません。重要なのは、この『事実』をどのようにパッケージングし、世界に向けて発信するかです」
千葉はクルーザーの窓の向こう、遠くに見える東京の夜景に視線を向けた。
「我々は現在、アメリカやEUといった国家権力と、市場経済の覇権を巡って対立しています。彼らは我々を『ルールを乱す悪』として糾弾しようとしている。そこに、高次元からの未知の脅威が現れた」
「……つまり、アビス・マイニングが、人類を未知の脅威から守る『防波堤』になる、ってことですか?」
伸子の言葉に、千葉は視線を戻し、わずかに頷いた。
「その通りです。彼らにとって未知の脅威は恐怖でしかないが、我々にとっては新たな市場を開拓するための足場に過ぎない。彼らが内輪揉めをしている間に、我々はすでに星間規模の脅威を物理的かつ法的に退けている。この圧倒的な事実を、あなたの言葉とカメラで、世界中の大衆に直接届けてほしい。大衆が我々を『頼れる巨大な盾』だと認識すれば、国家権力も容易には手を出せなくなります」
伸子はグラスのシャンパンを一口飲み、少しだけ身を乗り出した。
彼女の瞳には、かつての小市民的な怯えはない。世界を動かす巨大なシステムの一部として、自分の役割を完全に理解し、大衆の感情をハッキングすることに喜びを見出すクリエイターの光が宿っていた。
「任せてください、社長。高次元の神様だろうが何だろうが、うちの会社に手を出した奴らがどうなるか、最高にバズるエンタメにして世界中に配信してやりますよ。タイトルは……そうですね、『【特大スクープ】神様が借金の取り立てに来たので、法的・物理的に論破してみた』とか、どうですか?」
千葉はペリエのグラスを傾け、静かに口角を上げた。
「悪くないセンスです。あなたの動画が世界中の世論をひっくり返すのを、楽しみにしていますよ」
海風がクルーザーの窓を静かに叩く。グラスを傾ける千葉の横顔を見つめながら、伸子はすでに頭の中で、世界を騒がせる次の配信のサムネイルを組み立て始めていた。
【書籍発売のお知らせ】
作者の別作品『実力S級の俺、配信切り忘れで「虚無顔でボスを瞬殺する姿」が全国放送されてた件。今さら「ただの荷物持ち」とは言えない~定時で帰りたいので、追放してくれてありがとう~』第1巻が、9月4日に発売されます。
現在予約受付中です。
もしご興味がありましたら、こちらもチェックしていただけると嬉しいです。
書籍の詳細は活動報告をご覧ください。




