第53話 高次元からの取り立て屋
新宿のアビス・マイニング本社、最上階のCEO室。
マヤがモニター越しに叩きつけてきた「地球の魔素がゲートを通じて吸い上げられている」という絶望的な報告は、データ上の単なる数値の異常にとどまらなかった。数秒後、それはオフィスの物理的な異変として明確に顕在化した。
天井を覆う間接照明が不規則に明滅を繰り返し、空調の低い唸りが、金属が軋むような不快な異音へと変わっていく。同時に、室内の温度が急激に低下し、真琴は思わず自分の二の腕をさすった。
デスクの足元で呑気に寝そべっていたアッシュが、突然飛び起き、毛を逆立てて低く唸り始めた。彼が警戒しているのは、普段顔を合わせるS級ハンターたちから発せられる暴力的な魔力圧ではない。空間そのものが目に見えない巨大な力で圧縮され、引き裂かれるような、未体験の重圧に対してだった。
「……社長、本社の非常用電源回路まで干渉を受けています。このままではメインサーバーの冷却システムが」
真琴が三枚のモニターにしがみつくようにして叫んだ時だった。
CEO室の中央、最高級のペルシャ絨毯の上空約二メートルの位置に、空中でインクが滲むような黒い亀裂が走った。
ガラスを引っ掻くような甲高いノイズが室内に反響し、空間の裂け目が左右に無理やり押し広げられる。その亀裂の縁からは、見たこともない紫色の放電がバチバチと散っていた。
「なっ……」
真琴は息を呑み、椅子から立ち上がろうとして足をもつれさせた。膝から力が抜け、デスクの端にすがりつく。
裂け目の向こう側から、圧倒的な光が溢れ出した。網膜を直接焼くような純白の光の中から、ゆっくりと「それ」が降りてくる。
人間の輪郭を持っているが、明らかに人間ではなかった。完璧な左右対称の造作を持った白磁のような顔には、目や鼻にあたるパーツが存在するものの、感情の機微を読み取れる筋肉が一切ない。性別を感じさせない体躯は、布とも金属ともつかない未知の素材で覆われている。背中には、光の粒子で形成された三対の翼のような器官が展開し、ゆっくりと明滅していた。宗教画に描かれる天使に酷似していたが、そこに慈愛は欠片もなく、ひたすらに無機質で冷酷な存在感が部屋の空気を極限まで圧迫した。
アッシュが悲鳴のような甲高い鳴き声を上げ、真琴のデスクの下へ逃げ込む。
『現行次元座標、地球。魔力エネルギーの過剰消費によるシステム・レギュレーション違反を確認』
天使の口は動いていなかった。だが、その声は空気を振動させるのではなく、真琴や千葉の脳内へ直接、機械的な音声として響き渡った。
『私はシステムの監査役。当該座標におけるエネルギー管理の逸脱を是正するために派遣された。貴様らが掘り出しているエネルギーは、本来この星に割り当てられた許容量を大幅に超過している』
真琴は恐怖で全身の血の気が引き、指先が氷のように冷たくなるのを感じた。
ダンジョン・ゲートからモンスターが現れるのとは次元が違う。世界を箱庭として管理している「上位の存在」そのものが、物理的な形を伴って干渉してきたのだ。神と呼んでも差し支えない圧倒的な力の差が、本能レベルで理解できた。人類がこれまで築き上げてきた兵器も、法律も、経済も、この存在の前では単なる砂の城に等しい。
「……久保CFO。室内の録画および音声データ、すべてクラウドの別サーバーへリアルタイムでバックアップを回しなさい。物理メモリへの隔離も同時に」
張り詰めた静寂を破ったのは、千葉秀俊の極めて平坦な声だった。
彼はデスクから一歩も動かず、いつものネイビーのスリーピーススーツの皺すら気に留めない様子で、宙に浮く監査役を見上げていた。その声には、未知の存在に対する畏怖も、状況の異常さに対する動揺も一切含まれていない。
「えっ……あ、はい!」
真琴は震える指でキーボードを叩き、バックアップのコマンドを走らせる。
『無駄な抵抗だ』
監査役の光の翼がわずかに波打った。
『当該座標のエネルギー残量は、すでに危険水域にある。超過エネルギーの返済を直ちに要求する。返済不能と判断された場合、この星の全生命体の霊的リソース――貴様らの言葉で言えば、魂の接収をもって担保とする』
「人類の、隷属……」
真琴の唇から絶望的な言葉が漏れる。目の前で起きている不条理な光景を、彼女の合理的な頭脳は瞬時に処理しきれずにいた。
しかし、千葉は懐から銀のシガーケースを取り出し、ゆっくりと葉巻を一本引き抜いた。銀のシガーカッターで端を切り落とす金属音が、静かな部屋に響く。
「債権回収のプロセスとしては、極めて乱暴で原始的ですね」
千葉の言葉に、監査役の白い顔がわずかに千葉へと向いた。
「アビス・マイニングCEO、千葉秀俊です。我々は今、あなた方が引き起こした不当なエネルギー引き出しによるインフラ障害の対応で多忙を極めています。要件を手短に」
『……我が言葉が理解できないのか。これは監査に基づく正当な執行だ』
「監査というからには、我々がいつ、いかなるルールに同意し、どれほどのエネルギーを負債として抱え込んだのか、その明確な法的根拠があるはずだ」
千葉は火のついていない葉巻を口元に運び、目を細めた。
「一方的な難癖で当座の資産を差し押さえようとするのは、三流のヤミ金がやることです。相手が神であろうと、監査役であろうと関係ありません。資本のルールを乱す不法行為には、我々は断固として応じません」
CEO室の空気が完全に凍りついた。
真琴は心臓が止まるかと思った。相手は、世界中のゲートの魔素を瞬時に逆流させるほどの、規格外の力を持った上位存在なのだ。逆鱗に触れれば、このビルごと消滅させられかねない。
監査役は数秒の沈黙の後、冷たい思念を響かせた。
『愚かな。下位存在のルールなど、我々のシステムの前では無意味だ。……だが、規定の手続きは踏む。猶予は地球の自転二周分、四十八時間を与えよう』
監査役の指先から、眩い光の板のようなものが生み出され、千葉のデスクへと滑り落ちた。それは大理石のデスクに触れた瞬間、半透明の硬質なパネルのような物体へと実体化した。表面には、人類の言語ではない幾何学的な紋様が浮かび上がっている。
『四十八時間以内に、超過エネルギーの完全な返済、もしくは全生命体のリソース譲渡に同意せよ』
言葉を残し、監査役の姿は空間の亀裂の向こう側へと吸い込まれるように消滅した。バチンッ、という鋭い破裂音と共に空間が元通りに塞がり、オフィスの照明が正常な光量を取り戻す。
数秒の静寂。
真琴は限界を迎え、デスクに手をついてその場に崩れ落ちそうになった。膝の震えが止まらない。タイトスカートの下の脚は立っているのがやっとで、背中は冷や汗でびっしょりと濡れていた。
「……社長。あれは……」
「久保CFO」
千葉は葉巻を灰皿に置き、デスクに落ちた「光の板」を横目に、腕時計で時刻を確認した。
「十一時半ですね。出ますよ。地下駐車場へ」
「……はい?」
真琴は自分の耳を疑った。
「出ますって、どこへ!? 猶予は四十八時間しかないんですよ! 世界中の魔素が吸い上げられて、インフラが止まりかけてるんです! あの光の板……たぶん請求書か契約書の類ですよね、今すぐ中身を解析しないと……!」
「現状のインフラ維持とデータ解析は、マヤCTOと技術部門に全権を委譲済みです。彼女の組んだシステムなら、四十八時間は持ち堪える」
千葉はスリーピースのジャケットを羽織り、淡々と告げた。
「そして、あなたには現在、その書類を適切に処理するだけの余力が残っていない。極度のストレスと疲労は、論理的な思考を鈍らせます」
「でも……!」
「業務命令です。減給対象になりますよ」
有無を言わさぬその言葉に、真琴は反論を飲み込み、重い足取りで千葉の後を追った。
★★★★★★★★★★★
千葉自らがステアリングを握る黒塗りのSUVは、魔素流出による一時的な電力低下の影響で信号が機能しなくなり、混乱の兆しを見せ始めている都心の喧騒を抜け、目黒区の閑静な住宅街へと滑り込んだ。
交差点では警察官が笛を吹きながら手信号で交通整理を行い、歩道では人々が不安げにスマートフォンの画面を見つめている。世界規模でインフラが停止し始めている影響が、徐々に一般社会にも波及しつつあった。
車が停まったのは、看板も暖簾も出ていない、一見するとただの古い邸宅だった。
「ここは……?」
「すっぽん料理の専門店です。完全予約制で、他者の目はありません」
案内されたのは、美しく手入れされた中庭を望む個室だった。畳の匂いと、微かに漂う出汁の香りが、真琴の張り詰めた神経をわずかに緩ませる。
席に着くと、注文もしていないのにすぐさま料理が運ばれてきた。
透き通るような琥珀色のスープが張られた丸鍋。その中で、ぶつ切りにされたすっぽんの身と焼き葱が、炭火で静かに沸き立っている。ゼラチン質をたっぷりと含んだエンペラが、熱いスープの中でふるふると揺れていた。
「冷めないうちにどうぞ」
千葉は完璧な所作で自分の器にスープを取り分けながら言った。
「すっぽんは良質なアミノ酸とコラーゲン、そして豊富なビタミンB群を含んでいます。脳の疲労を即座に回復させ、交感神経の過活動を抑えるには最も合理的なエネルギー源です」
真琴は戸惑いながらも、勧められるままに器を手に取り、熱いスープを一口飲んだ。
「……っ」
深い旨味が、喉から胃へと染み渡る。余計な味付けが一切ない、純粋な命の出汁。その圧倒的な滋味に、張り詰めていた緊張の糸がふっと解け、真琴の目から不意に涙がこぼれそうになった。恐怖と疲労で冷え切っていた内臓が、じんわりと温められていくのがわかる。
「美味しい……です。すごく」
「当然です。最高の素材を、最も無駄のない調理法で引き出しているのですから」
千葉は箸を進めながら、一切の感情を交えずに言った。
真琴はすっぽんの身を頬張りながら、目の前の男の顔を見た。
「社長は……怖くないんですか」
「何がですか」
「さっきの……上位存在とか、神様みたいな相手ですよ。私たちが今まで相手にしてきた国家や財閥とは、文字通り次元が違うじゃないですか。人類が全員、奴隷にされるかもしれないんですよ」
千葉は酒を飲まず、熱いほうじ茶の湯呑みを口へ運んだ。
「相手が人間であろうと、高次元の存在であろうと、彼らが『請求』というアクションを起こした以上、そこには必ず『契約』や『ルール』という枠組みが存在します」
千葉の鋭い眼光が、真琴を真っ直ぐに射抜いた。
「ルールがあるということは、必ず論理的な穴がある。彼らが用意したあの光の板……星間レベルの負債証明書か何かは知りませんが、それを法的に解体し、無効化できるのは、アビス・マイニングのCFOであるあなただけです」
真琴は箸を止めた。
彼がこんな非常時に自分を連れ出した理由。それは単なる気まぐれでも、慰めでもない。地球の命運を懸けた法的攻防という、最も重要な盤面を任せるための、最高のコンディション作りのためだった。
「……わかりました」
真琴は顔を上げ、残っていたスープを一気に飲み干した。先ほどの恐怖は嘘のように消え去り、代わりに法律家としての静かな闘志が腹の底に満ちていく。
「午後一番でオフィスに戻ります。相手が神だろうと悪魔だろうと、法的な不備があれば、徹底的に論破して突き返してやりますよ」
真琴の宣言に、千葉の口角がほんのわずかに上がった。
「期待していますよ、久保CFO」
真琴はもう一度熱いスープを口に運び、千葉は静かに湯呑みを手にする。個室の窓の外では、目黒の静かな街並みが、変わらぬ午後の陽光に包まれていた。




