第52話 アビス・ゲートの異常発生
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社、最上階のCEO室。
午前9時。東京のビジネス街が本格的な稼働を始め、絶え間ない資本の血流が都市を循環する時間帯。しかし、分厚い防音ガラスで外部から完全に隔絶されたこの広大な空間には、都市の喧騒は一切届かない。空調の微かな稼働音だけが満ちるその静謐な場所で、世界経済の動向とは全く無縁の、極めて局地的な「攻防戦」が展開されていた。
千葉秀俊は、いつものネイビーのスリーピーススーツ姿のまま、マホガニーのデスクから離れ、床に敷き詰められた最高級のペルシャ絨毯を見下ろしていた。
絨毯の上には、頑丈な金属製の六角形サークルが設置されている。さらにその内部には、反発力の異なるクッション、視覚的な錯覚を利用した幾何学模様のマット、そして特定の嗅覚を刺激する誘引剤が、緻密に計算された配置で置かれていた。
千葉の手元にはタブレットがあり、画面上には複雑な軌跡が表示されている。
「……対象の現在位置、ポイントA。ここから過去の行動データに基づく最適化された動線です。94パーセントの確率で右側の赤いクッションを迂回し、ポイントBの指定シーツへと到達するはずです」
「社長」
デスクの向こう側から、久保真琴が血走った目で三枚のモニターから顔を上げ、重いため息とともにツッコミを入れた。
「さっきから何をブツブツ言ってるんですか。ただの犬のトイレトレーニングですよね、それ」
「オフィスの衛生環境および業務効率を維持するための空間制御です。この個体は成長に伴い、私の想定を越える不規則な軌道を描くようになりました。これを完全に制御できなければ、今後の事業運営に不要なリスクが生じます」
千葉の視線の先で、冬毛へと生え変わり、暴力的なまでの質量を持つ「モフモフ」と化したアッシュが、短い尻尾をパタパタと振っていた。
生後数ヶ月が経過し、シベリアンハスキー特有の骨格がしっかりしてきたアッシュは、すでに仔犬と呼ぶには大きくなりすぎている。アイスブルーの丸い瞳が、サークル内に配置された障害物を不思議そうに見つめていた。
アッシュは赤いクッションの前に歩み寄り、首を傾げた。千葉の計算では、これを避けて通るはずだった。
しかし、アッシュはクッションを避けるどころか、短い後脚で力強く踏み切り、見事な放物線を描いてクッションの真上へダイブした。
「……なっ」
真琴が息を呑む。
そのままクッションの強い反発力を使って跳ね返ったアッシュは、六角形サークルの縁に前脚をかけ、自身の体重を利用した強引な重心移動でサークルそのものを傾かせた。
ガタン、という鈍い音と共にサークルの結合部が外れる。
大理石の床に勢いよく飛び出したアッシュは、そのまま止まれずに千葉の足元まで滑り込んでいった。
「キュゥ……」
千葉の革靴のつま先にゴツンとぶつかったアッシュは、無防備な腹を見せてひっくり返り、短い四肢をジタバタと動かした。
千葉は無言でタブレットの計測を止め、床に転がる灰白色の毛玉を見下ろした。
「……物理法則を無視したベクトル変換。質量と摩擦係数の計算に致命的なノイズが混じりました。根本から見直す必要がありますね」
「だから、ただサークルを力技でぶっ壊して脱走されただけですよ。犬の本能に計算なんか通用しませんって」
真琴は呆れ果てたように肩をすくめ、すっかり冷え切ったマグカップのコーヒーを喉に流し込んだ。徹夜明けの疲労が色濃く残る彼女にとって、この社長の無駄に真剣な奇行は、唯一の精神安定剤になりつつある。
千葉は暴れるアッシュを片手で静かに抱き留め、その確かな重みを確認した。
「私の構築した包囲網を正面から突破するとは。ウォール街のファンドマネージャーよりも優秀な突破力を持っていますね」
「ワフッ」
アッシュは得意げに短く吠え、千葉の腕の中でじゃれついた。
その平和で滑稽な日常は、次の瞬間、鼓膜を劈くような高周波の警報音によって完全に断ち切られた。
『――WARNING. CRITICAL ERROR IN PHYSICAL INFRASTRUCTURE.』
CEO室の照明が瞬時に落ち、代わりに血のような深紅のエマージェンシーライトが激しく点滅を始める。壁面を覆い尽くす巨大モニター群の画面が、一斉に真っ赤なエラーコードの滝へと切り替わった。空調の音が掻き消されるほど、バックヤードのサーバー群が一気にファンの回転数を上げ、悲鳴のような排気音を立て始める。
「なっ……!?」
真琴の顔から一瞬で血の気が引いた。彼女は弾かれたように椅子から立ち上がり、手元のキーボードを狂ったような速度で叩き始める。
「金融ネットワークへのサイバー攻撃ではありません! 当座預金も海外のダミー口座も正常にロックされています……。エラーの発生源は、物理インフラ側です!」
千葉はアッシュを足元に下ろすと、ゆっくりと立ち上がり、冷徹な目でメインモニターを見据えた。
「ダンジョン庁の監視システムからのフェイルセーフか」
「はい! 第1から第7までの国内主要ゲート、および大玄グループから接収したアジア全域のゲートで、同時多発的に警報が作動しています。魔素の流動値が……あり得ない。これ、全部のグラフが垂直に落下してます!」
その時、部屋の隅の影が不自然に膨張し、タイトな黒のパンツスーツを着た市川ひろみが音もなく現れた。彼女はすでにカランビットナイフを両手に構え、千葉の背後を完全にカバーする死角のない位置についている。
「ボス、ビル内への物理的な侵入はないわ。熱源反応もゼロ。でも……」
ひろみは周囲の空気を探るように細い眉をひそめた。
「空気がおかしい。息苦しいというか、空間そのものが急激に薄くなっているような……」
ラウンジのソファで爆睡していたはずの菅原留美子も、自身の背丈ほどもある大剣『ニーズヘッグ』を引きずりながら顔を出した。その表情はいつもの無邪気なものではなく、獣が天敵の気配を察知したような鋭い警戒心に満ちている。
「おいおい、なんだこれ。すっげえ気持ち悪いんだけど。魔力が……体の外に引っ張られるみたいな感覚がするぞ」
S級ハンターである留美子の異常な直感が、事態の異常性を如実に物語っていた。
『ボス! 聞こえる!?』
サブモニターに、マヤ・ワシントンの専用ラボの映像が割り込んできた。
彼女のトレードマークであるパープルのショートヘアは鳥の巣のように乱れ、目にはこれまでにない強い焦燥の色が浮かんでいる。背後のコンソールでは、彼女が独自に組み上げた魔力解析用のプロトタイプ機が、限界を超えた負荷によって火花を散らす寸前だった。
「状況を端的に報告しなさい、マヤCTO」
千葉の声は、警報が鳴り響く室内においても極めて平坦だった。その絶対的な冷静さが、パニックになりかけていた真琴の過呼吸気味の呼吸をわずかに落ち着かせる。
『世界中のゲートが狂ってる! 私たちが組み上げた新しい魔力炉のネットワークから、逆算して異常を検知したわ。ただの魔素の枯渇じゃないのよ!』
マヤは画面に複雑な波形データと、世界地図上に表示されたゲートの位置情報を投影した。地図上の赤い点が、まるで心臓の鼓動のように脈打ちながら、その輝きを急速に失っていく。
『これまで、ダンジョン・ゲートは向こう側から地球に向かって魔素を「排出」するだけのものだった。でも今、そのベクトルが完全に反転してる』
「反転、ですか」
『ええ。地球側に蓄積されていた魔素が、ゲートを通じて猛烈な勢いで吸い上げられてるのよ!』
真琴が絶望的な声を漏らした。
「そんな……! このまま魔素が流出し続ければ、我が社の管理下にあるすべての魔力炉が連鎖的に停止します。電力網、物流、通信、現代社会を支えるすべてのインフラが完全にダウンする……!」
彼女の視線の先で、当座の魔力備蓄量を示すゲージが、まるで底の抜けたバケツのように急激に減少していく。それは単なる数字の減少ではない。病院の生命維持装置、航空機の管制システム、数億人の生活を支える基盤そのものが、物理的に崩壊していくカウントダウンだった。
「吸い上げられたエネルギーの行き先は」
千葉の問いに、マヤはキーボードを力任せに叩きながら唇を噛んだ。
『それが最大の問題なのよ。地球上のどこかの国が秘密裏にエネルギーを奪っているわけじゃない。吸い上げられた魔素のベクトルを逆探知した結果……データ上の座標が、三次元の物理法則を無視した領域を指し示してる』
「具体的に」
『……「上位次元」よ。ダンジョンが発生した根源。私たちがこれまでただの資源の「穴」だと思っていたゲートの向こう側が、強制的な吸い上げを始めているの!』
ラボの空調の音すら聞こえなくなるほどの重い静寂が、一瞬だけモニター越しに共有された。
モニターに映る無数のエラー画面と、急激に低下していく魔力備蓄量の数値が、事態の異常性を如実に物語っている。真琴はカタカタと震える手でキーボードを操作し続けるが、システムからの流出警告を止める手段は見つからない。
千葉の足元では、アッシュが室内の異常な空気を察知したのか、ピタリと身を寄せ、見えない何かに向かって低く唸り声を上げている。
千葉はスリーピースのフロントボタンを静かに外し、冷徹な目でモニターに映る異常な数値の滝を見つめた。
「原因不明の流出が続く限り、我が社のインフラは維持できません。流出元を特定し、物理的に遮断します」
「マヤCTO。吸い上げのルートを完全にロックし、ゲートの接続先を特定しなさい。久保CFOは、現在稼働中のすべての魔力炉の出力を最低限まで絞り、物理的な備蓄タンクへの緊急隔離プロセスを起動しろ」
「……あ、相手は次元の違う存在かもしれないんですよ!? こちらの物理法則すら通じない化け物かもしれないのに!」
真琴の悲痛な叫びに、千葉は振り返ることなく言い放った。
「相手が神であろうと悪魔であろうと関係ありません。我が社のインフラにタダ乗りする不届き者には、それ相応の対処をするまでです」




