第51話 世界を支える者の朝
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社、最上階。
防音ガラスの向こうで、東京の街が本格的な活動を始める午前七時。都市の喧騒から完全に隔絶されたCEO専用のプライベートキッチンには、冷徹な金融市場の動向とは無縁の、深く芳醇な香りが静かに満ちていた。
千葉秀俊は、いつものネイビーのスリーピーススーツの袖を汚さぬようわずかに引き上げ、細口のドリップポットを一定のリズムで傾けていた。
ドリッパーにセットされたペーパーフィルターの中には、中挽きにされたパナマ産の最高級ゲイシャ豆。そこに、正確に八十三度に設定された湯が、糸のように細く、均一な円を描きながら注がれていく。
湯を含んだ粉が美しくドーム状に膨らみ、炭酸ガスとともに華やかなジャスミンのような香りが立ち上る。抽出時間はきっちり二分三十秒。タイマーの数字を見るまでもない。一切のブレも妥協もない、機械のように正確な所作だった。
千葉が抽出を終えたコーヒーを、温めておいたマイセンのカップに注いでいると、背後の広大な執務フロアから、ひどく重い、乾いたため息が聞こえてきた。
「……社長。EUのダンジョン規制委員会から、新たな魔力炉規格のローカライズに関する追加の質問状が届きました。総数四百五十項目。フランス語とドイツ語が混在しています。期限は、明後日の現地時間正午です」
久保真琴は、自身のデスクに設置された三枚の大型モニターから血走った目を離さずに報告した。彼女の細い指先は、キーボードの上で狂ったような速度で踊り続けているが、処理すべき書類の山は一向に減る気配がない。
「AIのリーガルチェックを通した後、シンガポールの法務チームに割り振りなさい。あなたが直接目を通すのは、最終的な決裁を要するCランク以上の条項だけで構いません」
千葉はコーヒーカップを手に取り、平坦な声で答えた。
「そのシンガポールのチームから、『これ以上は人間の処理限界を超えている。睡眠時間をくれ』と泣きが入っているんです。時差を利用して二十四時間体制で回していますが、向こうのスタッフもそろそろ限界です……世界を支配するって、こういうことだったんですね。もう、数字もアルファベットも全部ゲシュタルト崩壊を起こしそうです」
真琴は乾ききった目を擦ることも忘れ、両手で顔を覆った。
その時だった。
シャカシャカシャカシャカ!
フローリングの床を、硬い爪が空回りするような派手な音が響いた。
「……っ!」
真琴が顔を上げると、ラウンジエリアの方向から、灰白色の巨大な毛玉が猛スピードで滑ってきた。シベリアンハスキーのアッシュだ。
生後数ヶ月が経過し、彼の体はすっかり大きくなっていた。おまけに本格的な冬毛へと生え変わったことで、その体積は暴力的なまでのモフモフ感に包まれている。
彼は、マヤが息抜きに作った自動で不規則に跳ね回る特製ポリマーボールを追いかけて全力でダッシュした結果、ワックスで鏡のように磨き上げられた床で完全にブレーキを失っていた。
短い四肢を必死にバタつかせるが、肉球を覆う分厚い毛のせいで摩擦はゼロだ。アッシュはそのまま横倒しになり、「キュウゥ……」と情けない声を上げながら、ツーッと滑って真琴のデスクの足元にポスンとぶつかった。
真琴は無言で椅子から立ち上がり、床に転がったアッシュの腹部に顔を埋めた。
「……すぅぅぅぅぅぅ」
深く、長い呼吸。日光とドッグフードの混ざった香ばしい匂いが、限界を迎えていた真琴のすり減った神経をじんわりと解きほぐしていく。柔らかく滑らかな冬毛の感触と、小さな体から伝わってくる無防備な温もりが、冷え切っていたオフィスの中で確かな熱源となっていた。アッシュは真琴の耳をペロペロと舐め、喉の奥で心地よさそうに鳴いている。
「……よし。あと四時間はいけます」
真琴は少しだけ生気を取り戻した目で立ち上がり、再びキーボードに向かった。アッシュは何事もなかったかのように立ち上がり、短い尻尾を振りながらボールを追って去っていった。
★★★★★★★★★★★
正午過ぎ。
広大なCEO室に、不釣り合いな白いビニール袋を提げた市川ひろみが入ってきた。
「ボス、ご指名通り調達してきたわよ。下の階の連中が、私がこれを提げてエレベーターに乗ったのを見て、何かの危険物でも運んでるんじゃないかって顔してたわ」
ひろみがデスクの端に置いたのは、見慣れた青と白のストライプのロゴが入ったコンビニエンスストア、ローソンの袋だった。
千葉は手元のタブレットを置き、スリーピースの袖をわずかに引き上げた。
「ご苦労様です。市川CCO」
千葉は袋の中から、二つのプラスチック容器を取り出した。
一つは『直火焼きチャーシュー丼』。もう一つは『ごぼうのサラダ』だ。
別のデスクで昼休みの休憩に入ろうとしていた真琴が、その光景を見て目を丸くした。
「……社長。世界経済を牛耳る企業のCEOが、今日のランチは五百円のコンビニ弁当ですか? 昨日は銀座の三つ星フレンチをフロアごと貸し切っていたのに」
「価格と価値は必ずしもイコールではありません、久保CFO」
千葉は備え付けのウェットティッシュで指先を丁寧に拭き、割り箸を綺麗に割った。その所作には、最高級のステーキを切る時と何ら変わらない品格が漂っている。
「膨大なデータから最適化された味覚と、効率的なカロリー摂取。……極めて合理的なエネルギーのパッケージです」
千葉は淡々と語りながら、チャーシュー丼の蓋を開けた。
甘辛い醤油ダレと、炙られた豚肉の香ばしい匂いが広がる。
千葉は箸でチャーシューと白米を適量つまみ、口に運んだ。一切の無駄がない、正確な咀嚼。続いてごぼうのサラダの蓋を開け、シャキシャキと音を立てて味わう。高級レストランでの会食時と全く同じ、冷徹なまでに洗練されたテーブルマナーだった。
真琴は、完璧な所作でコンビニ弁当を食す千葉を見つめ、小さくため息をついた。
「……社長が食べていると、それが最新の金融商品のプレゼンに聞こえてくるから不思議です」
「あー! アタシもそれ食う! 肉の匂いがする!」
ラウンジのソファで昼寝をしていた菅原留美子が、匂いに釣られて跳ね起きてきた。彼女の前には、すでに特盛サイズのチャーシュー丼が三つ、ひろみによって用意されている。
「遠慮せずに食べておきなさい。午後からは、第3ゲートの深層での物理的なクリアランス作業が控えています。エネルギーは満タンにしておくように」
「おう! 任せとけ!」
留美子は箸も使わず、プラスチックの容器ごとチャーシュー丼を豪快に口にかき込み始めた。喉を鳴らして次々と平らげていくその様は、まさに餌を与えられた猛獣だ。
ソファの反対側では、ユン・ソアが自作のハーブティーを飲みながら、この異様な光景にドン引きしていた。
「……世界を支配したトップたちが、コンビニ弁当でここまで真剣になれるなんて。やっぱりこの会社、どうかしてるわ」
平和で、しかしどこか歪な日常。
だが、その平穏な空気を破るように、ラボの分厚い扉が開いた。
「ねえ、ボス」
マヤ・ワシントンが、手元の自作タブレットを凝視しながら歩み出てきた。彼女の表情には、いつものストリートの軽薄さはなく、天才特有の鋭い光が宿っていた。
「ちょっと気になるデータがあるんだけど」
千葉は箸を止めず、視線だけで先を促した。
「世界中のダンジョン・ゲートからメインサーバーに上がってくる魔素濃度のデータ……全体的に、ほんの少しだけ下ブレしてるの。〇・〇〇二パーセントくらい。誤差の範囲内って言えばそれまでだけど」
マヤの報告に、真琴がタイピングの手を止めた。
「……計器の故障ではなく?」
「ただの計器の故障じゃ説明がつかないわ。……世界中のダンジョンで、コンマ一秒の狂いもなく同時に『何か』が起き始めてる」
千葉は最後の一口を飲み込み、静かに箸を置いた。
ナプキンで口元を拭い、冷たいペリエで喉を潤す。
「……システムの監視レベルをフェーズ3へ引き上げなさい、マヤCTO。あらゆるデータの蓄積と傾向の分析を優先。わずかなノイズも見逃すな」
「了解。徹夜明けの脳みそに、最高に面倒なパズルが降ってきたわね」
マヤは不敵に笑い、ラボへと戻っていった。
千葉はゆっくりと立ち上がり、壁面を覆い尽くす巨大なモニター群を見上げた。画面を流れる数字の滝は、今はまだ平穏なリズムを刻んでいる。彼はポケットに両手を入れ、無表情のまま、その無機質なデータの波を見つめ続けていた。




