第50話 新たな経済帝国
アーサー・スタインの失脚から数ヶ月。世界のダンジョン産業のインフラは、アビス・マイニングの規格へと静かに、そして完全に統合されていた。
★★★★★★★★★★★
東京・丸の内。五つ星ホテルの最上階に位置するメインダイニングは、今夜、ただ二人の客のためだけに完全に貸し切られていた。
眼下に広がる圧倒的な夜景を前に、菅原留美子は忌々しげに首元を引っ張った。クロエ・ヴァン・デル・ベルグが見立てたというダークブルーのイヴニングドレスは、彼女の驚異的なプロポーションを完璧に引き立てていたが、本人は極度の居心地の悪さを感じていた。
「……なんで肉を食うのに、こんな息の詰まる布切れを着なきゃなんねえんだよ。愛剣もクロークで預かられるし、落ち着かねえ」
向かいの席で、千葉秀俊はいつものネイビーのスリーピーススーツ姿で、氷を入れないペリエのグラスを傾けた。
「社会的立場に合わせたパッケージングです。あなたは今や、世界のインフラを裏から担保する最大火力の象徴。その価値にふさわしい見栄えが求められます」
「よくわかんねえけど、美味い肉が食えるから我慢する」
給仕が恭しく銀のクロッシュを開けた。
現れたのは、完璧な火入れでルビー色に輝く黒毛和牛のシャトーブリアン。芳醇な白トリュフのソースが、肉の断面で艶やかに光を反射し、付け合わせの温野菜から上品な湯気が立ち上っている。
留美子は目を丸くして、喉をゴクリと鳴らした。彼女はフォークとナイフを手に取ると、ドレスの窮屈さなど忘れたように豪快に、しかし確かなマナーの向上を感じさせる手つきで巨大な肉の塊を切り分け、次々と胃の腑へ流し込んでいく。
千葉はその様子を静かに観察しながら、自身の肉を一口分だけ切り分け、咀嚼した。
「……ッ! なんだこれ、噛む前に溶けやがった! ソースの香りもヤバいな!」
「当然です。投資したコストに見合うだけの品質が保証されていますからね」
千葉はナイフを置き、ナプキンで口元を拭うと、手元のタブレットを操作して留美子の前に滑らせた。
「先日のオブシディアン・キャピタル関連の制圧任務による特別報酬と、これまでのインセンティブの累積です。あなたの負債、3億5000万円は昨日付けで完全に相殺されました」
留美子の顎が止まった。
彼女はフォークをくわえたまま、画面に表示された数字の羅列を瞬きもせずに見つめた。
「……は?」
「加えて、現在のあなたの個人口座には、税引き後で42億円のキャッシュが入金されています」
千葉は淡々と事実だけを告げた。
「あなたは自由です。専属の債務奴隷契約は満了しました。独立して自分のギルドを作ることも、このまま引退して一生遊んで暮らすことも可能ですが」
数秒の沈黙。
留美子は飲み込みきれなかった肉をゴクリと嚥下し、ナイフとフォークをテーブルに静かに置いた。
「借金が、ない? あたしが?」
「ええ。数字は嘘をつきません」
留美子は天井を見上げ、深く息を吐き、そして再び目の前の空になった皿を見た。
「独立したら、こういう肉は毎日食えるのか?」
「税金の計算、ギルド運営の法的リスク、装備のメンテナンス費用。すべてあなた自身で管理しなければなりませんね。悪徳ブローカーの格好の的となり、おそらく一ヶ月で再び破産するでしょう」
留美子は心底嫌そうな顔をして、顔をしかめた。
「じゃあ、ダメだ。ボス、あたしはここに残る」
彼女は千葉を真っ直ぐに見据えた。
「難しいことや面倒くせえ計算は、全部お前がやれ。あたしは言われた通りに、お前の邪魔をするモンスターとクソ野郎をぶっ飛ばす。その代わり、美味い肉と最高の剣をずっと用意しろ」
千葉は、グラスに残ったペリエを飲み干した。
「それが、あなたの合理的判断ですか」
「ああ。一番シンプルで、間違いない」
「よろしい。では、新たな特別役員待遇での契約に移行しましょう」
千葉は懐から万年筆を取り出し、タブレットの横に置いた。
「デザートの前に、サインを」
留美子は獰猛に笑い、迷うことなく万年筆を握った。
★★★★★★★★★★★
同時刻。新宿、アビス・マイニング本社。
最上階の役員会議室では、世界経済を回す心臓部としての高度で容赦のない応酬が繰り広げられていた。
「クロエさん。フランス政府が提示してきた新たな環境基準ですが、これではマヤさんの第5プラントの稼働要件を満たせません。至急、ロビー活動で条項を修正してください」
久保真琴が、目の前の大型モニターに法的要件のリストを映し出しながら要求する。膨大な実務を処理し続けている彼女の目の下には薄っすらとクマがあるが、その声には一切の淀みがない。
円卓の向かい側で、クロエは優雅にハーブティーのカップを置いた。
「簡単に言わないでちょうだい、久保CFO。フランスの環境相はただでさえ旧体制寄りだったのよ。彼らのメンツを潰さずに数字をいじるには、あと三日は必要だわ」
「三日も待てないわよ!」
マヤ・ワシントンが、手元のホログラム・キーボードを叩きながら割って入る。
「こっちはアジアとヨーロッパのシステム統合のスケジュールがカツカツなの。基準値なんて無視して強行稼働させちゃダメ? バレないように監視データを改ざんするパッチなら五分で書けるわよ」
「絶対にダメです! 法的瑕疵を残せば、そこから必ず足元を掬われます。私たちは今や、世界を支えるインフラなんですよ!」
真琴が机を叩いて制止する。
その横で、ユン・ソアがこめかみを押さえて深いため息をついた。
「マヤ、技術部門のスタッフのストレス値が昨夜から急上昇しているわ。これ以上のスケジュール前倒しを強制すれば、忠誠心が低下して内部リークのリスクが高まる。私のメンタルケアにも限界があるのよ」
「あいつら、MITの学生より頭の回転が遅いのよ! 脳みそに直接回路繋ごうかしら」
「冗談でも禁止よ。人間は機械じゃないわ」
白熱する議論の横で、松尾伸子がジンバル付きのスマートフォンを構え、その様子を笑顔で撮影していた。
「はい、というわけで! こちらがアビス・マイニング役員会のリアルな日常です! みんなピリピリしてますねー。……あ、真琴さんがこっち睨んでるんで逃げます!」
伸子がカメラを反転させて逃げるようにフレームアウトする。
壁際では、市川ひろみが巨大化したアッシュの分厚い首毛を撫でながら、あきれたように小さく笑っていた。
「相変わらず、動物園みたいね。……まあ、これが一番『安全』な状態なんだけど」
その時、重厚なオーク材の扉が静かに開いた。
会議室の空気が、一瞬で引き締まる。
入ってきたのは千葉秀俊だった。その後ろには、テイクアウト用の超高級和牛カツサンドを頬張る留美子が続いている。
全員の視線が千葉に集まり、議論がピタリと止んだ。
千葉は最上座の椅子にゆっくりと腰を下ろした。ジャケットの皺を軽く伸ばし、組んだ両手の上に顎を乗せる。
「現在の状況は」
真琴が即座に姿勢を正し、報告する。
「世界の魔石取引における我が社のシェア、92パーセントを維持。決済システムのエラー率はゼロ。法的・政治的な障害は、現在クロエさんが対応中のフランスの一件を除き、すべてクリアされています」
千葉はわずかに頷いた。
「ご苦労様です。これで地球上のダンジョン資源と物流は、我々のルールで統合されました。適正な労働には適正な対価が支払われ、資本の目詰まりは解消された」
千葉は卓上の端末を操作した。
壁面の巨大モニターの映像が切り替わる。そこに映し出されたのは、地球の経済指標のグラフではなく、冷たいクレーターが広がる月面の高解像度映像だった。
そのクレーターの中心に、地球上のどのゲートよりも巨大で、禍々しい漆黒の「渦」が口を開けていた。
「しかし、資本主義の構造上、市場がある限り我々は拡大を続けなければならない」
千葉の言葉に、会議室の空気が一変した。
全員がモニターの異常な映像と、千葉の顔を交互に見た。
千葉は、氷のように冷たく、そして底知れぬ野心を秘めた悪魔のような笑みを浮かべた。
「さて。次は宇宙の採掘権でも買収するか」
数秒の静寂。
やがて、マヤが「最高にクレイジーね」とストリートのノリで笑った。
クロエが「国連宇宙局との交渉が必要になるわね。頭が痛いわ」と優雅にため息をつく。
真琴が「宇宙条約の解釈からやり直しですか……徹夜が確定しましたね」と呆れながらも、すでにタブレットで文献の検索を始めている。
ソアが「宇宙飛行士のメンタル管理なんて、やったことないんだけど」とこぼし、伸子が「『月面ダンジョン制覇してみた』! 絶対ミリオンいきますね!」と歓喜の声を上げる。
ひろみが愛用のカランビットナイフを取り出して刃こぼれを確認し、留美子が最後の一切れのカツサンドを飲み込んで、背中の大剣の柄を力強く叩いた。
「宇宙人も、ぶっ飛ばせばいいんだろ?」




