第41話 世界の敵
新宿の空が、重苦しい鉛色に沈みかけていた。分厚い雲が蓋をするように都市を覆い、昼間だというのにオフィスは不気味なほど薄暗い。
アビス・マイニング本社の最上階。防音ガラスに囲まれたCEO専用のプライベートキッチンには、いつものような豊潤で贅を尽くした高級食材の香りは漂っていなかった。
静寂。稼働を続けるサーバー群の低い排気音だけが、広大なフロアを這っている。数時間前から物流システムは完全に沈黙し、外部からの補給ルートは物理的にも遮断されていた。
千葉秀俊は、ネクタイを外し、スリーピースのベストのボタンを開けた状態で、IHヒーターの前に立っていた。
「……六つ目。スイスのダミー法人の口座が、たった今凍結されました。続いてシンガポール、ケイマンの主要口座へのアクセスも弾かれています。SWIFT(国際銀行間通信協会)からの制限、完全に始まりました」
キッチンカウンター越しに、久保真琴が手元のタブレットから目を離さずに早口で告げた。赤いエラーコードが画面を埋め尽くしていくたび、彼女の唇は限界まで引き結ばれ、血の気を失っていく。連日の徹夜作業による疲労に、国家レベルの理不尽な暴威が容赦なく襲いかかっていた。
「事実上、我が社は国際金融のネットワークから、たった数時間で物理的に切り離されました」
真琴の悲痛な報告をBGMにするかのように、千葉は無言でまな板に向かっていた。
手元にあるのは、近所のスーパーで辛うじて調達された安価な豚バラ肉と、玉ねぎ。そして「市販の焼き肉のたれ」だ。
世界規模の経済制裁が発動し、口座が凍結された今、最高級の和牛も、ヨーロッパから空輸されるトリュフもない。だが、千葉の客観的な計算は、目の前の限られたリソースから最大のリターンを引き出すことに完全にフォーカスしていた。
彼は豚バラ肉を均等な厚さに切り分け、玉ねぎは繊維を断ち切るようにスライスした。加熱による細胞壁の破壊を計算し、短時間で極限の甘みを引き出すためだ。
熱したフライパンに油は敷かない。豚肉を並べ、弱火でじっくりと自らの脂を引き出していく。肉の表面がチリチリと音を立て、黄金色に色づくメイラード反応が起きた完璧なタイミングで玉ねぎを投入し、豚の脂の旨味を余すところなく吸わせる。
ここで千葉は、市販の焼き肉のたれを具材に直接かけるような愚行はしなかった。フライパンの空いたスペース、高温になった鍋肌に直接たれを注ぎ込む。瞬間、たれに含まれる糖分と醤油が焦げ、強烈な香ばしさが蒸気となって立ち上った。その焦げた香りを纏わせるように一気に具材を煽り、タレの水分を飛ばして肉に照りをつける。
炊き立ての白米をどんぶりによそい、その上に照り輝く豚肉と玉ねぎを乗せる。手抜き豚丼の完成だ。
さらに千葉は、昨日から意図的に寝かせておいた「味噌煮込みのあまり」を小鉢によそった。大根や人参などの根菜に味噌の味が限界まで染み込み、昨日よりも格段に深い旨味を形成している。傍らには、自家製の蕪の漬け物を添える。豚肉の脂を完璧にリセットするための、計算し尽くされた酸味と歯ごたえだ。
最後に、椀にアマノフーズのフリーズドライの蟹みそ汁を割り入れる。90度という計算された温度の湯を注ぎ、立ち上る蟹の香りを逃がさないように手早く混ぜる。仕上げに、刻んだ三つ葉をふわりと散らす。ただのインスタントが、三つ葉の鮮烈な香気と色彩によって、料亭の椀物へと視覚的にも味覚的にも昇華された。
「食べなさい。現在のような極度のストレス下において、脳は質の高いタンパク質と糖質を急速に消費しています」
カウンターに並べられた食事を見て、真琴は小さく息を呑んだ。極度の緊張で胃は縮み上がっているはずなのに、タレの匂いが本能を直接刺激してくる。
隣では、マヤ・ワシントンがすでにスプーンを握りしめ、目を輝かせていた。
「……こんな状況で、よくこれだけ匂いの強いものが作れますね」
「経営者が焦燥を胃袋に持ち込んで、何の利益がありますか。座りなさい」
真琴は抗えずスツールに腰掛け、どんぶりをかき込んだ。
一口食べた瞬間、市販のたれを使っているとは思えないほどの香ばしさと、豚肉の強烈な旨味が脳の芯を直撃した。玉ねぎの甘みがタレの塩味を中和し、白米が無限に進む。味が染み切った味噌煮込みの残りは、疲弊した細胞の隅々にまで染み渡るようだった。合間に挟む蕪の漬け物の冷たさが、口内をリセットし、再び豚丼へと向かわせる。そして、三つ葉の香りが効いた熱い蟹みそ汁が、食道から胃袋までを内側から強烈に温めていく。
「んんっ……美味しい。悔しいけど、めちゃくちゃ美味しい……」
マヤが涙目で豚丼を掻き込んでいる。
「私のラボ用の追加サーバー、税関で止められてるのよ! 新しい魔力炉の演算に絶対必要なのに。アメリカのクソ官僚ども、本当にムカつく!」
食事をしながら、マヤが悪態をついた。
千葉は、彼女たちの食事風景を無表情に観察しながら、自身も同じ豚丼を完璧なマナーで箸を使って口に運んでいた。
「グローバル・ダンジョン・シンジケート、ね」
フロアの奥から、タイトなスーツを着こなしたユン・ソアが歩み寄ってきた。彼女の顔には、かつて大玄グループで見せていたような過剰な演技はなく、ただ目前の事実を処理する役員としての顔があった。
「来ちゃったわよ、社長。国連の緊急決議。禁輸措置に海外資産の凍結……国家権力まで動かしてくるなんて、本気の総力戦ね」
ソアは手元の端末をカウンターに置いた。余裕のある口調を崩してはいないが、その声の底には微かな緊張が走っている。
「我が社の社内ネットワークにおける従業員の『エンゲージメント数値』にも、微細なノイズが生じ始めているわ。世界中を敵に回したという事実が、末端の社員たちに無意識の恐怖を与えているのよ」
「連中、なりふり構わなくなってきたわね」
テーブルに置かれた通信端末から、クロエ・ヴァン・デル・ベルグの硬質な声が響いた。
「EUのダンジョン規制委員会も、アメリカの圧力に屈したわ。アビス・マイニングの特許技術を利用したプラントの稼働を、一時的に凍結する決議が採択された。私がどれだけ裏で手を回しても、国家レベルの『安全保障』という大義名分を振りかざされたら、個人の政治力じゃ限界があるわ」
「法や資本のルールで我々を排除できないと悟り、国家という暴力装置を直接起動させた……。既存の既得権益層にとって、我々はもはや共存不可能な敵ってことですね」
真琴が蕪の漬け物をかじりながら、乾いた声で言った。圧倒的な包囲網。どこを見渡しても、逃げ道は完全に塞がれている。
千葉は最後の味噌汁を飲み干し、箸を静かに置いた。
「想定内のコストです」
平坦な声だった。
絶望的な状況報告をすべて聞き終えても、彼の静かな瞳には微塵の揺らぎもなかった。
千葉は席を立ち、電気ケトルで新たに湯を沸かした。
用意したのは、沖縄県産の乾燥ゴーヤーを使ったティーバッグだ。急須に入れ、熱湯を注ぐ。立ち上る独特の青臭さと強烈な苦味の香りが、キッチンに充満していた豚肉の脂の匂いを一掃する。
湯飲みに注がれた黄金色のゴーヤー茶を、千葉は真琴たちの前に置いた。
「飲みなさい。胃に溜まった脂を分解し、思考をクリアにするための触媒です」
真琴は湯飲みを手に取り、一口すすった。
舌を刺すような鮮烈な苦味が、疲労で麻痺しかけていた脳の覚醒を促す。飲み込んだ後に鼻に抜ける香ばしさが、不思議と心を落ち着かせた。
「相手が国家権力という強権を発動したことは、つまり、彼らが市場経済という盤面上において我々に完全に敗北したという事実の自白に過ぎません」
千葉はゴーヤー茶の湯飲みを持ち、薄い唇を動かした。
「彼らは我々の資産を凍結し、物流を止めれば、アビス・マイニングが干上がると考えている。だが、彼らは致命的な計算違いをしている」
千葉は端末を操作し、背後の壁面モニターに巨大な世界地図と、そこを走る無数の赤いラインを表示させた。
「大玄グループから接収した、アジア全域の魔石物流インフラ。そして、マヤCTOが解析し、久保CFOが権利をロックした、新たな魔力炉の基本特許」
千葉の指が、モニター上のアメリカとヨーロッパの大陸を指し示した。
「現在、世界で稼働している最新の魔力炉の8割は、我々が権利を持つアーティファクトの構造に依存しています。彼らが我々を排除し、それでも既存のシステムを使い続ける限り、彼らは我々の特許を侵害し続けることになる」
真琴は息を呑んだ。モニターに映る無数の赤いラインは、世界中のインフラがアビスの技術に深く根を下ろしている事実を可視化していた。
静まり返るキッチンで、千葉の声だけが淡々と響く。
「彼らは我々を兵糧攻めにしているつもりでしょうが、実際に首を絞められているのは彼ら自身です。我々はただ、彼らが自らの血の少なさに気づき、パニックを起こして自壊するのを待てばいい」
ソアが、少しだけ怯えを含んだ目で千葉を見た。
「……世界中のエネルギーインフラを人質にして、彼らが屈服するまで耐え抜くと言うの? 彼らが実力行使、つまり軍隊や暗殺部隊を差し向けてきたら?」
「そのための防壁は、すでに構築済みです」
千葉は視線を入り口に向けた。
そこには、いつの間にか市川ひろみが立っていた。彼女のレザージャケットからは、微かに硝煙の匂いが漂っている。
「ボス。本社周辺に展開しようとしていたCIA絡みのネズミどもは、すべて物理的に『退去』させたわ。留美子も下の階で、重火器を持ったお馬鹿さんたちをミンチにしてる最中よ」
ひろみはカランビットナイフを指先で回しながら、妖しく微笑んだ。
「世界の敵になるってのは、案外退屈しないわね」
千葉は手元の湯飲みを置いた。
「久保CFO。国際司法裁判所へ提出するペーパーの準備を。マヤCTOは、アジア全域の魔石プラントのシステム監視を継続。ソアCHROは、社内の動揺を抑えるため、適切な『情報』を末端に流し込みなさい」
「了解しました。……もう、やるしかないですね」
真琴は空になった豚丼のどんぶりを押しやり、乾いた笑いを漏らして立ち上がった。ゴーヤー茶の苦味が、完全に彼女の覚悟を呼び覚ましていた。
マヤも「やってやるわよ、クソ野郎ども」と首の骨を鳴らす。
千葉は、夜明け前の暗い空が広がる窓の外を見据えた。
「彼らが提示したコストは、必ず利子をつけて回収する」




