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非覚醒の天才金融屋は、法と金でダンジョン産業を蹂躙する  作者: 伊達ジン


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第42話 過去からの亡霊

 新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社の最上階。


 午前3時。防音ガラスの向こうで東京は深い眠りについているが、広大なCEO室の空気は、張り詰めたピアノ線のように軋んでいた。


 壁面を埋め尽くす巨大なモニター群は、普段の冷静なブルーの光調を失い、システムへの致命的な侵攻を示すどぎつい赤色のアラートで染まりきっている。


「……弾き返されました! シンガポールのダミー口座を経由した資金の迂回ルート、すべて凍結されています。こちらの資本移動のアルゴリズム、完全に先回りされている……!」


 久保真琴は、血走った目で3枚のモニターを睨みつけながら、ひび割れた声で報告した。彼女の細い指先はキーボードの上を狂ったような速度で踊り続けているが、画面を埋め尽くす赤いエラーコードの増殖を止めることはできない。


「どうして……物理的な通信網は遮断されていないのに、送金トランザクションだけがピンポイントで落とされるの? まるで、うちの資金の動きを上空から全部見透かしているみたいな……」

「物理的なサーバーの壁は私が守ってるけど、金融ネットワークの正規ルートから『合法的な顔』をして殴ってきているわ。私の管轄外よ!」


 マヤ・ワシントンが、コンソールの下から顔を出し、忌々しげに舌打ちをした。彼女のトレードマークであるパープルのショートヘアは鳥の巣のように乱れ、目の下には濃い疲労の影が落ちている。


 マヤの手元にある自作の解析デバイスは正常に稼働し、外部からの非合法なハッキングは完全にシャットアウトしている。しかし、市場のルールに従って合法的に行われる口座の凍結や株の空売りに対しては、彼女のハッカーとしての技術は介入できない。


 千葉秀俊は、自身のデスクに座ったまま、メインモニターに流れるその「攻撃の軌跡」を無言で観察していた。


 彼の周囲だけが、この狂乱の空間の中で奇妙なほどの静寂を保っている。手元に置かれたグラスの中のペリエから、微かな炭酸の泡が立ち上る音すら聞こえそうだった。


 冷徹な視線が、画面上の数字の羅列が描く特異な幾何学模様を捉える。


 世界中の市場で、アビス・マイニングに関連するダミー法人の株が秒単位で空売りされている。


「……見事な手際だ。AIによる単なる力押しではない。人間の持つ『恐怖』と『欲』の偏りを計算式に組み込み、市場心理を誘導してこちらの防壁を内側から崩壊させる手法」


 千葉の氷のような声に、真琴がタイピングの手を止めて顔を上げた。


「社長……この攻撃のパターン、ご存知なんですか?」

「『ブラック・スワン・プロトコル』。……私がウォール街で設計し、実用化の直前に封印したアルゴリズムです」


 千葉はグラスを置き、ゆっくりと立ち上がった。


「なるほど。トライデント・アームズやアメリカ政府の背後に隠れ、この制裁の糸を引いていた黒幕の正体がわかりました。オブシディアン・キャピタル。……リチャード・スターリングですか」

「オブシディアン・キャピタル……。ウォール街の、あの巨大ファンドが黒幕だったんですか」


 真琴が小さく息を呑む。


「ええ。私からすべてを奪い、追放した連中です」


 千葉の声には、怒りも憎悪も一切含まれていなかった。ただ、古びた不良債権の束を見つけた時のような、底知れぬ冷たさだけが漂っている。


「私が残した設計図を完成させたつもりでしょうが、所詮は他人の模倣。本質を理解していない」


 千葉は真琴のデスクに歩み寄り、彼女のキーボードに手を伸ばした。


 一切の無駄がない、ピアニストのような打鍵。数行の複雑なコマンドが、システムの中枢へ直接打ち込まれていく。


 エンターキーが叩かれた瞬間、それまで真っ赤だったモニターの半分が、一瞬にして緑色の正常なステータスへと反転した。荒れ狂っていた数字の暴流が、嘘のように凪いでいく。


「アルゴリズムの根幹にある変数に、意図的なバグを流し込みました。これで相手のAIは、架空のダミー法人の残骸を攻撃し続けることになります。防壁の再構築まで、約12時間は稼げるはずです」

「……12時間。その間に、次の手を打つんですね」


 真琴がデスクに手をつき、安堵の息を長く吐き出す。


 千葉は頷き、床に座り込んでいるマヤの方へ視線を向けた。


「マヤCTO。現在のシステム維持はAIに委譲しなさい。あなたは今から、私と外出します」

「は? 今こんな状況で?」


 マヤは目を丸くして千葉を見上げた。手には絡まったケーブルを握りしめている。


「あなたの脳は現在、アビス・マイニングにとって最も価値のある資産です。それがオーバーヒートして焼き切れることは、会社にとって致命的な損失となる。強制的な給油が必要です」


 千葉は自身のスリーピースの袖口を正し、腕時計で時刻を確認した。


「正午に地下駐車場へ。遅刻は減給対象とします」


 マヤは数秒間呆気にとられていたが、やがて口の端をニヤリと吊り上げた。


「……それって、デートのお誘い? この天才をエスコートしてくれるわけ?」

「必要経費の投資です」


 千葉は表情一つ変えずに言い残し、足音も立てずにCEO室を後にした。


★★★★★★★★★★★


 正午を少し回った頃。


 千葉の運転する黒塗りのSUVは、六本木の表通りから静かな裏通りへと入っていった。


 厚い防音ガラスで外の騒音が遮断された車内には、微かなエンジンの重低音だけが響いている。マヤは助手席で足を組み、パーカの上にオーバーサイズのハイブランドジャケットを羽織ったストリートスタイルで、窓の外を流れる景色を退屈そうに眺めていた。


 彼女が案内されたのは、看板も出ていない、コンクリート打ちっぱなしの小さなダイナーだった。


 店内には客は誰もおらず、初老のシェフがカウンターの奥で一人、静かに鉄板の温度を調整している。余計な装飾のない、機能美だけを追求したような無骨な空間だ。


「貸し切りですか。ボスの『投資』にしては、随分とささやかな場所ね」


 マヤはカウンター席に腰掛け、店内を興味深そうに見回した。


「ジャンクフードがあなたの思考の触媒になることは、過去のデータで証明されています。ただし、我が社のCTOの胃袋に、市場に溢れる粗悪な工業製品を流し込むわけにはいかない」


 千葉が合図を送ると、シェフが二つの皿を運んできた。


 乗っていたのは、圧倒的な質量と香気を放つハンバーガーだった。


「……ッ」


 マヤの鼻腔を、強烈な肉の焼ける匂いと、熟成されたチーズの香りが一気に貫いた。


「特別に手配させた、最高級の赤身肉と熟成チーズのバーガーです。……食べなさい」


 マヤは両手でその巨大なバーガーを掴み、躊躇なくかぶりついた。


 その瞬間、彼女の瞳孔が限界まで開いた。


 溢れ出す極上の肉汁を、専用に焼かれたバンズの甘みが完璧に受け止め、チーズの深いコクがすべてを統合していく。脳の報酬系が直接電気ショックを受けたかのような、圧倒的な快感。余計な理屈など必要ない、純粋な旨味の暴力だった。


「……うまっ! なにこれ、ブルックリンで食べてた最高のバーガーが、ただの段ボールに思えるわ!」


 マヤは行儀悪く指を舐めながら、一心不乱にバーガーを貪った。


 千葉は自身のバーガーを、ナイフとフォークを使って一切の無駄のない所作で切り分け、静かに咀嚼している。


 マヤは半分ほど食べ終えたところで、ふと手を止め、ペリエのグラスを掴んだ。氷の当たる音が静かな店内に響く。


「ねえ、ボス」


 彼女の瞳からストリートの軽薄さが消え、MITを15歳で飛び級した天才の鋭い光が宿る。


「私をトライデントで飼い殺しにしていた連中と、ボスをウォール街から追い出した連中。同じ穴の狢なんでしょ」


 千葉はナイフを動かす手を止めなかった。


「マヤCTO。質問の意図は」

「ボスの復讐戦に、私を巻き込んでるんじゃないかってこと。……個人的な因縁で世界を相手にケンカを売るほど、あなたは愚かじゃないはずだけど」


 マヤの直球の問いに、千葉はフォークを置き、ナプキンで口元を拭った。


「私は感傷や復讐といった非合理な感情で資本を動かすことはありません。オブシディアン・キャピタルが長年市場を独占し、技術の進歩を阻害してきた事実。それは世界経済における巨大な『不良債権』です。私はただ、その債権を適正な金利をつけて回収し、私が定義する新たな理に書き換えるだけです」


 平坦で、底知れぬ重みを持った言葉。


 マヤは千葉の目を見つめ、やがて短く息を吐いて笑った。


「出た。そういう血の通ってない可愛げのないとこ、ほんとムカつくけど……最高にクールね。私の頭脳は、ボスのそのイカれた計算式に賭けてあげるわ」


 その時だった。


 千葉の胸ポケットに収められていた、高度に暗号化された特殊な通信端末が、低く無機質な振動を始めた。


 発信元は不明。だが、この回線にアクセスできる人間は世界に数人しかいない。


 千葉は端末を取り出し、画面を一瞥してから耳に当てた。


「……オブシディアンの回線を使うのは、5年ぶりですね。リチャード」


 スピーカー越しに、かすかなノイズを伴って、上品だが傲慢な初老の男の笑い声が響いた。


『相変わらず、可愛げのない男だ。ヒデトシ』


 オブシディアン・キャピタルCEO、リチャード・スターリング。アメリカの金融と軍需を裏から支配する、世界経済の真の怪物。


『ずいぶんと派手に暴れ回っているようだな、ヒデトシ。だが、我々の島を荒らした代償は高くつくぞ。お前が作った特許というおもちゃ箱は確かに優秀だ。だが、現実の資本主義はお前の計算式よりずっと冷酷で、野蛮だ』

「ええ。だからこそ、あなた方の腐りきったシステムを解体し、私が再構築しているのです。不当に搾取した利益の違約金は、高くつきますよ」


 千葉の言葉に、リチャードの笑い声がピタリと止まった。


『ウォール街の死神も、極東の島国で随分と吠えるようになった。お前が手に入れたあの天才少女の頭脳ごと、アビス・マイニングを物理的にも社会的にも完全に消去してやる。……震えて眠れ』


 一方的に通信が切断される。


 静寂が戻ったダイナーで、マヤが残りのバーガーを口に放り込みながら呆れたように肩をすくめた。


「……元カノからの未練がましい電話?」

「ただの、債務者からの言い訳です」


 千葉は端末を懐にしまい、グラスの残りを飲み干した。


「さあ、戻りましょうか。世界を差し押さえるための、最後の手続きの準備です」

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