第40話 甘く危険な嫉妬
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社の最上階。
防音ガラスの向こうで東京の空が白み始め、都市が重苦しい活動を再開しようとする午前7時。静まり返った広大なオフィスに、カタカタという乾いたキーボードの音だけが不規則に響いていた。
「……数字が、全部アラビア語に見えてきました」
久保真琴は、デスクに突っ伏したままうわ言のように呟いた。目の下には、ここ数日見たこともないほど濃いクマが張り付いている。手元のマグカップのコーヒーはすでに三杯目だが、カフェインなど全く機能していないようだった。
「だめだ……頭が回らない。昨日の夜から、ずっと変な夢ばかり見るんです。M&Aの契約書が無限に白紙に戻ったり、社長から突然『君は無能だ』って解雇通知を延々と読み上げられたり……」
「あんたも? 私も最悪だったわ」
コンソールの下から、ローラー付きの椅子に乗ったマヤ・ワシントンが滑り出してきた。彼女のトレードマークであるパープルのショートヘアは鳥の巣のように乱れ、手には噛み潰されたガムの包み紙が握られている。いつもなら音楽に合わせて揺れているはずのリズム感は、今は見る影もない。
「私が苦労して組み上げた魔力炉のプロトタイプが、全部ただのトースターに変わる悪夢よ。おかげで一睡もできなかった。誰よ、私の脳みそにハッキング仕掛けたのは」
二人が深い溜息をついたその時、オフィスの一角から優雅な足音が近づいてきた。
「あら、お疲れのようね。自己管理もCFOとCTOの重要な仕事じゃないかしら?」
ユン・ソアだった。
完璧に手入れされたストレートヘアに、体のラインを美しく見せるコンサバティブな白いブラウス。徹夜明けの二人とは対照的に、その肌は透き通るように白く、艶やかな生気に満ちている。手には、上品な香りを放つアールグレイのティーカップ。
「……ソアさん。あなた、何かしました?」
真琴が血走った目で睨みつけると、ソアはふわりと微笑んだ。
「あら、私はCHROとして、少し熱意を測ってみただけよ。……あの人の隣に立つには、皆少し緊張感が足りないようだから」
余裕を含んだ笑みを浮かべながらも、ソアの大きな瞳の奥には、氷のように冷たく、そして暗く濁った執着の光が揺れていた。
ティーカップの縁をなぞる彼女の白い指先は、不自然なほどに力が込められている。彼女の視線は真琴とマヤを通過し、ずっと奥にあるCEO室の閉ざされたドアへと向けられていた。ただ一人の男の隣という絶対的な領域。そこをうろつく他の存在への、隠しきれない刺々しい敵意が、その艶やかな微笑みの裏側に張り付いていた。
「寝言は寝て言いなさいな」
唐突に、冷ややかな声がソアの背後から響いた。
ソアが振り返るより早く、彼女の白く細い首筋に、鈍く光る冷たい刃先がピタリと当てられた。市川ひろみだ。いつの間にかソアの背後の死角に立ち、手にしたカランビットナイフを寸分の狂いもなく頸動脈に添えている。
「……猟犬が、何の用?」
ソアは首に刃を当てられたまま、ティーカップの紅茶を微塵もこぼさずに冷笑した。
「ボスの所有物に勝手に手を出して、資産価値を下げないでくれる?」
ひろみは感情のない目でソアを見下ろした。
「真琴もマヤも、今は重要なタスクを抱えてる。あの子たちの睡眠を邪魔して処理速度を落とすなら、私があなたのその綺麗な首と胴体を物理的に切り離すわよ」
「ふふっ。暴力しか能のない猟犬が。でも、あなたには私の思考は止められないわ。私が本気を出せば、あなたの脳みそに過去のトラウマをリピート再生させることだって……」
「思考は止められなくても、心臓は止められるわ」
ひろみがナイフをミリ単位で押し当て、ソアの白い肌に一筋の赤い線が滲みそうになった、その時だった。
「そこまでです」
極めて平坦な声が、凍りついた空気を一刀両断した。
いつもの隙のないスーツ姿で、千葉秀俊がCEO室からゆっくりと歩み出てきた。その歩調には一切の乱れがない。
千葉は手元のタブレットから視線を上げることなく告げた。
「本日の午前中だけで、法務部門のタスク処理速度が想定値より18パーセント、R&D部門が12パーセント低下しています。ユンCHRO。あなたの能力による私的な干渉は、我が社の利益に一切貢献していません。直ちに中止しなさい」
「社長……」
ソアはナイフを向けられている時とは打って変わり、熱を帯びた瞳で千葉を見つめた。
「でも、彼女たちは弱すぎます。あなたが描く完璧な世界には、不純物です。私がより強固な組織に……」
「私の資産の価値を決めるのは私です。あなたではない」
千葉はタブレットを閉じ、氷のように冷たい視線でソアを射抜いた。
「社内のリソースを無駄に削り合う行為は明確な背任だ。これ以上、私の利益を毀損する行動をとるなら、ペナルティを与えます」
「ペナルティ……」
ソアの唇が、微かに開かれた。
千葉の次の言葉は、事務的な響きを持ったまま、オフィスに冷たく落ちた。
「今後1ヶ月間、私に対する一切の直接接触、および同一空間での呼吸を禁じます。業務報告はすべてAIの自動音声を通じて行いなさい。私の視界に入ることすら許可しません」
その瞬間、ソアの完璧な笑みが完全に剥がれ落ちた。
顔から急激に血の気が引き、大理石の彫刻のように硬直する。ティーカップを持つ手がガタガタと震え出し、ソーサーとぶつかって高い音を立てた。彼女にとって、千葉との繋がりが絶たれること、千葉の視界から外れることは、何よりも恐ろしい事実だった。
「……っ」
ソアは声を出そうとして、うまく呼吸ができずに喉を鳴らした。無言のまま、大きく見開かれた瞳が小刻みに震えている。何かを訴えようと手を伸ばしかけたが、千葉の眼差しには交渉の余地など1ミリも残されていなかった。
「では、直ちに平常業務に戻りなさい。久保CFOたちのメンタルケアもあなたの仕事です」
千葉が視線を外すと、ソアは足元をふらつかせながら、逃げるように自席へと戻っていった。ひろみも無言でナイフを収め、気配を消して姿を消す。
重苦しい空気が少しだけ緩んだオフィスで、千葉はふと、フロアの隅にあるカフェスペースに目を向けた。
「松尾部長」
「……は、はいぃっ!」
カフェスペースの陰で、息を殺して怯えていた松尾伸子が、ビクッと肩を震わせて立ち上がった。彼女の背中には、いつもの安っぽいリュックではなく、最新型の配信用ジンバルカメラが抱えられている。
「午後から外出します。同行しなさい」
「えっ、私ですか? どこに……動画の撮影ですか?」
「いいえ。カメラは不要です。純粋な視察――あるいは、定期メンテナンスです」
「て、定期メンテナンス?」
伸子の素っ頓狂な声が響き、疲れ切っていた真琴とマヤが目を丸くして千葉を見た。千葉は二人の視線など意に介さず、腕時計で時刻を確認した。
「12時に地下駐車場へ。遅刻は減給対象です」
★★★★★★★★★★★
正午過ぎ。
千葉が自らステアリングを握る黒塗りのSUVは、新宿の喧騒を抜け、浅草の入り組んだ路地裏へと滑り込んだ。
車を降りた伸子は、目の前の光景に首を傾げた。
高級フレンチや会員制のレストランを想像していた彼女の目の前にあったのは、色褪せたレンガ調の外壁に「洋食 ヨシダ」と書かれた、創業80年を越えるという小さな老舗洋食店だった。入り口のガラスケースには、日に焼けた食品サンプルが並んでいる。
「社長……ここですか?」
「ええ」
店内に入ると、油とバターが焦げた暴力的なまでに食欲をそそる匂いが漂ってきた。ピークタイムを過ぎた店内は客もまばらで、年配の店主がカウンターの中から千葉を見て軽く顎を引いた。
「いつものオムライスで。彼女にはハンバーグ定食を」
「あいよ!」
数分後、二人の前に料理が運ばれてきた。
伸子の前には、熱々の鉄板で肉汁を弾けさせる巨大なハンバーグ。
千葉の前には、完璧なアーモンド型に整えられた黄金色のオムライス。その上には、深い漆黒のデミグラスソースが艶やかに光を反射している。
千葉は銀のナイフを手に取り、オムライスの中央に一切の迷いなく一筋の切れ目を入れた。
その瞬間、内側に閉じ込められていた半熟の卵が、自重に耐えきれずに花のようにふわりと開き、湯気と共にチキンライスを包み込んだ。
「……完璧な火入れです。長年の経験だけが成し得る技術ですね」
千葉はスプーンでそれをすくい、黙々と口へ運んだ。
伸子もハンバーグを大きく切り分け、口に放り込む。
「んんっ! 美味しいです! お肉がぎっしりしてて、コンビニ弁当とは次元が違う!」
千葉は水を一口飲み、伸子を見据えた。
「ところで社長」
伸子はもぐもぐと咀嚼しながら、少しだけ声を潜めた。
「どうして私なんですか? 真琴さんとか、マヤさんとか、それこそソアさんとか誘えばいいのに。今日の朝のオフィス、マジで猛獣の檻みたいで怖かったんですけど」
「同行しなさいと言ったはずです。……息抜きですよ」
「息抜き? 社長が?」
「ええ」
千葉は短く返し、再びスプーンを動かした。
伸子は少しだけ首を傾げたが、目の前の男から発せられる空気は、オフィスにいる時の極度に張り詰めたものとは確かに違っていた。相変わらず表情はないが、その沈黙は決して不快なものではない。大仰な理由があるわけでもなく、ただここで食事をとっているだけだという事実が、伸子を妙に安心させた。
「……まあ、美味しいご飯食べさせてもらえるなら、私はお供でも何でもやりますよ! これ、社長のおごりですよね!」
「当然です。広報活動の必要経費として、久保CFOに計上させます」
「そこは自腹じゃないんだ……」
伸子は苦笑しながらも、食後の麦茶をぐいっと飲み干した。
異常な能力者たちがひしめくアビス・マイニングの中で、伸子自身がどれほど平凡な存在であるか、彼女自身が一番よくわかっている。だが、だからこそ、この静かな洋食屋でハンバーグを頬張る時間が、この冷徹な船長にとっても必要なのだとすれば。
「じゃあ、食後のコーヒーも経費でいっちゃいましょうか!」
「……いいでしょう」
千葉はナプキンで口元を拭い、わずかに目を細めた。
外からは、下町の穏やかな喧騒がガラス越しに聞こえてくる。重苦しい朝の空気は、すでにここにはなかった。




