第39話 アジア支配
韓国・ソウル中心部。アビス・マイニングが臨時支社として接収した高級ホテルのペントハウス。
防音ガラスの向こうに広がるソウルの夜景は、つい数日前までこの国を裏から支配していた巨大財閥、大玄グループの崩壊など知らぬげに、冷たいネオンの海を瞬かせていた。眼下の幹線道路を流れる車のライトが、まるで血管を流れる血液のように都市の脈動を伝えている。
「……大玄グループが保有していたアジア全域のインフラ網、および魔石物流の制御システム、すべてアビス・マイニングのメインサーバーへの統合が完了しました」
久保真琴は、自身のデスクに並べた三枚の大型モニターからゆっくりと視線を外し、乾ききった目を強く瞬きさせながら報告した。連日の徹夜作業により、彼女の顔には濃い疲労の色が滲んでいる。だが、画面の青白い光に照らされたその声には、世界経済の勢力図を完全に塗り替えたという圧倒的な事実に対する微かな震えが混じっていた。
「台湾、フィリピン、タイ、ベトナムの主要ゲートからの魔石輸出入ルートも、新たな関税およびライセンス契約でロック完了。既存の取引先二百三十社との契約巻き直しも、法務チームが全て終わらせました。これでアジアにおける魔石の流通は、物理的にも法的にも、我が社の決済システムを経由しなければ1グラムたりとも動かせません」
「ご苦労様でした。想定より二時間早いですね」
部屋の中央に置かれた重厚なマホガニーのデスクで、千葉秀俊は手元のタブレットに表示される膨大な完了報告のリストをスクロールさせながら、淡々と答えた。
いつもと変わらぬ隙のないスーツ姿。そこには、巨大財閥を飲み込み、アジア市場という莫大な富の源泉を掌握したことに対する感慨は微塵も存在しない。彼にとっては、複雑な数式がただ正しい解を導き出したという、当然の結果の確認に過ぎなかった。
「これで第一段階は終了です。久保CFOは明日の朝一番のフライトで日本へ戻り、関東財務局への報告と、吸収した資産のポートフォリオ再構築に着手してください。今夜はゆっくり休むといい」
「……言われなくても、そうさせていただきます。もう限界です」
真琴はふらつく足取りで立ち上がり、分厚いファイルの束を抱えてペントハウスの執務室を後にした。彼女が退出すると、広大な部屋には深夜の静寂と、臨時で持ち込まれたサーバーラックの低い唸り音だけが残された。
千葉はタブレットをデスクに置き、静かに顔を上げた。
視線の先、窓際の革張りのソファに、ユン・ソアが足を組んで座っていた。
彼女は、体にフィットした黒のハイネックドレスに身を包み、透き通るような白い肌と、闇を溶かしたような黒髪のコントラストが、作り物めいた美しさを際立たせていた。大玄のトップであるイ・ドンウクの精神を完全に破壊し、買収契約を強制するという彼女の「仕事」は数日前に終わっている。今はただ、窓の外に広がるかつて自分を縛り付けていた帝国の残骸を、退屈そうに見下ろしていた。
「ユン・ソアさん。あなたのCHROとしての初仕事は、投資対効果として十分に合格点に達していました」
千葉は立ち上がり、サイドテーブルに置かれていたペリエのボトルを手に取った。グラスに注ぐ炭酸の弾ける音が、無機質な空間に響く。
「報酬として、明日の午後は時間を空けなさい。現地法人の視察という名目でスケジュールを切ってあります」
「……視察?」
ソアは怪訝そうに細い眉をひそめ、千葉を振り返った。
「ええ。あなたの働きに対する、私からのささやかな『慰労』です。場所はあなたが指定して構いません」
それは、事実上のデートの誘いだった。しかし、千葉の口調は、重要な取引先との会食をセッティングする時と何ら変わらない平坦なものだ。
ソアは数秒間、千葉の意図を探るようにその冷徹な横顔を見つめた。
自分のような危険な手駒と、個人的な時間を共有しようとする意図。そこにあるのは情か、それとも次の仕事への布石か。
やがて、ソアの赤い唇が弧を描き、ふっと妖艶な笑みがこぼれた。
「……いいわ。それなら、とっておきの場所を案内してあげる」
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。
ソアが指定した場所は、ソウル市内を見下ろす北岳山の麓にひっそりと佇む、完全会員制の伝統的韓国料理店だった。外観は歴史ある瓦屋根の伝統家屋だが、一歩中に入れば、現代的なセキュリティシステムと完璧な防音設備を備えた、要塞のような造りになっている。
「ここは以前、大玄の役員たちが政財界の要人を招いて『密談』をするためだけに使っていた場所よ。もちろん、私が彼らの記憶を『調整』するための処刑場でもあったわ」
案内された最も奥のVIP個室で、ソアは座布団の上に優雅に腰を下ろした。
対面の席には、一切の隙がないスーツ姿の千葉。護衛の市川ひろみは「周辺のネズミの駆除と警戒」を理由に、外の車で待機している。
分厚い一枚板のテーブルには、宮廷料理の系譜を引く色鮮やかな品々が次々と並べられていた。
千葉は銀色の箸を手に取り、正確な動作で九節板の極薄のクレープ状の生地に、細切りにされた八種類の具材を均等に乗せて包み、口に運んだ。
「……ほう。食材の温度管理と、五味のバランスの計算が極めて精密だ。大玄の連中が使っていただけあって、料理人の技術は本物のようですね」
千葉は咀嚼を終え、微かに頷いた。続いて供された、澄んだ牛骨スープで丁寧に煮込まれた神仙炉の器に視線を移す。
「食事の評価をしに来たわけじゃないでしょう?」
ソアは手元の酒器をいじりながら、真っ直ぐに千葉を見据えた。
「あなた、本当に何とも思っていないのね。この国を裏で牛耳っていた男たちを全員地獄に落としておいて、彼らの本拠地だった場所で平然と食事をしている。……少しは、私がここであなたに何かを仕掛けるかもしれないって、疑わないの?」
「リスクは事前に計算し、排除済みです。現在のあなたには、私を害する合理的な理由が存在しない」
千葉は冷酒を一口飲み、全く揺らぐことのない目でソアを睨み返した。
「あなたは安全と適正な報酬を求め、私はあなたの能力を求めた。契約は成立しています」
その言葉に、ソアの胸の奥で、黒い炎のようなものが揺らいだ。
彼女はこれまで、周囲の人間を「恐怖」か「欲望」で支配してきた。大玄の会長でさえ、最後は彼女の能力の前に赤子のように泣き叫んだのだ。
しかし、目の前の男には、そのどちらも存在しないように見える。
以前、彼と初めて対峙した時、彼女の精神操作は全く通用しなかった。彼の脳内には、恐怖や感情といった付け入る隙が存在しなかったからだ。
だが、あの時はまだ表層を撫でたに過ぎない。この男が人間である限り、心の奥底に何かしらの感情の揺らぎや、隠された脆弱性があるはずだ。
食事を共にし、警戒が解けているはずのこの瞬間なら。もう少し深く、彼の精神の深淵に触れることができるのではないか。
(……ほんの少しだけ、確かめてみるわよ)
ソアの大きな瞳の奥で、妖しい紫色の光が明滅した。
S級覚醒者としての精神干渉能力。空間がわずかに歪み、白檀のような甘く重い香りが室内に充満する錯覚を引き起こす。彼女は視線を合わせることで、相手の深層心理へダイレクトにアクセスし、自らの存在を焼き付けようとした。
ソアの意識が、千葉の精神の奥深くへと滑り込む。
普通の人間なら、この時点で心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れ、彼女の瞳から目を離せなくなる。
しかし。
ソアが「視た」ものは、以前と変わらぬ、いや、より強固な絶望的な光景だった。
恐怖がない。欲望もない。
そこにあるのは、感情というノイズを一切排除した、巨大で無機質な氷の城だった。
無数の数字、条文、マクロ経済の予測モデル、あらゆる事象の確率計算が、恐るべき速度で滝のように流れ落ち、完璧な論理の防壁を構築している。彼女が流し込んだ「魅惑」や「恐怖」のデータは、その強固なシステムに触れた瞬間、単なる「エラー」として瞬時に分類され、ゴミ箱へと弾き返されていく。
さらに奥へ踏み込もうとしても、そこには底なしの虚無と、冷たい計算式があるだけだった。
「体感温度がわずかに下がり、嗅覚にノイズが混じりました」
不意に、千葉の平坦な声が響いた。
ソアがハッとして現実の視界に戻ると、千葉は先ほどと全く同じ姿勢で、冷酒のグラスを持っていた。その表情には微塵の変化もない。
「……業務時間外とはいえ、不快なアプローチは控えていただきたい」
千葉はグラスをテーブルに置き、ソアの瞳を氷のように冷たい視線で射抜いた。
短い、しかし明確な警告。
ソアはその冷たい拒絶の言葉を突きつけられて、恐怖するどころか、体の芯から強烈な震えが込み上げてくるのを感じた。
(やっぱり、通じない。私の呪いが、この人には一切通じない……)
彼女を長年苦しめてきた、強すぎる力。誰もが彼女を化け物として恐れ、あるいは便利な道具として利用しようとした。大玄のトップたちも、最後は彼女の力を恐れて殺そうとした。
他人の精神を覗き、操作し続ける人生。それは彼女自身にとっても、常に他人の醜い欲望や薄汚い恐怖に晒され続ける地獄だった。どんなに強がっていても、彼女の心はずっと孤独で、ひどく疲弊していたのだ。
だが、この男は違う。
彼はソアの能力を恐れない。そして、ソア自身も彼の心の中にある「醜さ」を見なくて済む。なぜなら、彼自身が、ソアの力が及ばない絶対的な「理」の体現者だからだ。
自分がどんなに狂った能力をぶつけても、決して壊れることのない、絶対的に安全で強固な場所。
初めて出会った、自分を完全に支配し、受け止めてくれる存在。
ソアの唇から、ふふっ、と熱っぽい笑い声が漏れた。
彼女は座布団から身を乗り出し、テーブルに両肘をついて、千葉の顔を間近で見つめた。その瞳には、これまでの冷ややかな観察者のそれではなく、焦がれるような、異常なまでの熱が宿っていた。
「……ごめんなさい、社長。ただの好奇心だったの。でも、分かったわ。あなたは本当に、頭の先からつま先まで、血の代わりに冷たい数字が流れているのね」
ソアの頬が微かに紅潮している。
「ねえ、社長。私の人事権は、すべてあなたが握っているのよね?」
「当然です。あなたの処遇は、我が社の業績に対する貢献度によってのみ決定されます」
「……嬉しい。私、この会社に入って本当に良かった」
ソアは恍惚とした表情で、自らの鎖骨のあたりに手を当てた。
「私の力は、全部あなたのために使う。社内の不満分子も、外部の邪魔な連中も、私が彼らの脳を弄って、あなたにとって都合のいい部品に変えてあげる」
彼女の声は甘く、しかし決定的な狂気を孕んでいた。
「だから、私のことは誰にも渡さないでね。……もし、あなたの完璧な計算を邪魔しようとする泥棒猫がいるなら、私がそいつらの精神を、二度と使い物にならないように焼き切ってあげるから」
千葉は、目の前の女が放つ異常な執着と殺意を正確に認識した。
通常の経営者であれば、この危険すぎる手駒を切り捨てるか、距離を置くべきだと判断するだろう。
しかし、アビス・マイニングのCEOは、銀の箸でアワビの蒸し物を切り分けながら、極めて平坦に答えた。
「あなたの忠誠心の強さは評価しますが、我が社のリソースを私的感情で毀損することは禁じます。……ただし、外部の敵対勢力に対して、その『熱意』を適正な範囲で出力することには制限を設けません」
「……ふふっ。優しいのね、社長」
ソアは満足げに微笑み、自分の酒器を手に取った。
彼女の視線は、決して目の前の男から離れることはなかった。
千葉はそれに応えることもなく、ただ静かに冷酒のグラスを傾けた。




