第38話 精神の檻
東京・虎ノ門での優雅な祝杯から、わずか三日後。
アビス・マイニングによる韓国の巨大財閥・大玄グループの敵対的買収と解体手続きは、国際法と資本のルールの下、盤面上ではすでに完全な決着がついていた。
しかし、国家の裏の王として長年君臨してきたイ・ドンウク会長は、その敗北を認めなかった。彼は莫大な裏金と共にソウル郊外の山間部に隠された広大な地下シェルターへと逃亡。最後の足掻きとして、自身の生体認証で強固にロックされたインフラ中枢の制御システムを盾に取り、残存する私兵部隊と共に徹底抗戦の構えを見せていたのだ。
季節外れの冷たい雨が地表を打つ中、地下数十メートルに構築された堅牢なシェルターの最深部では、信じがたい静寂と濃密な硝煙の匂いが立ち込めていた。
シェルターの豪華な会長室で、イ・ドンウクは血の気を失った顔で分厚い防爆扉の残骸を見つめている。
彼が全財産と独自のネットワークを駆使してかき集め、このフロアの最終防衛ラインに配置したはずの私兵部隊――違法な薬物でリミッターを外し、痛覚すら失ったS級覚醒者を含む三十名の精鋭――は、たった一人の少女が振るう巨大な剣によって、文字通り「ひき肉」に変わっていた。
扉の向こうで響いていた、重い肉の塊がコンクリートに叩きつけられる鈍い音は、すでに止んでいる。
つい数分前まで施設内に鳴り響いていたけたたましい非常警報も、アビス・マイニングのCTOマヤ・ワシントンが遠隔でシステムを掌握したことにより、完全に沈黙していた。
土煙と、むせ返るような血の匂いが漂う中、ひしゃげた扉の枠を越えて、三つの影が静かに室内へと足を踏み入れた。
千葉秀俊が、いつもと変わらぬ隙のないスーツ姿でガラスの破片を踏み砕きながら歩みを進める。
その斜め後ろに控えるのは、手元のタブレットで冷徹に処理状況を弾き出しているCFOの久保真琴。
そして、もう一人。
「……ソア、お前か……! お前が、日本人に魂を売ってこの国を売ったのか!」
会長の顔が、恐怖と激怒で醜く歪んだ。
かつて彼自身が最も重用し、そして用済みとして消そうとした大玄の猟犬、ユン・ソア。彼女はタイトなオフィススーツに身を包み、冷ややかな瞳でかつての主を見下ろしていた。
「人聞きの悪いことを言わないでください、会長。私はただ、より適正な評価をしてくれる企業へ転職しただけです。あなた方が私の頭に懸賞金をかけるよりも早く、ね」
ソアの言葉に、会長の額に青筋が浮かび上がった。
彼はダンジョン資源の独占によって莫大な富を築いた権力者であると同時に、彼自身もかつては最前線を潜り抜けたA級の覚醒者だ。自身の命が完全に詰んでいることを理解した瞬間、彼の生存本能が理性を凌駕した。
「ふざけるな……! 貴様らだけでも、道連れにしてやるッ!」
会長の全身から、暴風のような魔力が吹き荒れた。室内の調度品が吹き飛び、高価な絵画が壁から剥がれ落ちる。彼はデスクの引き出しから魔力を増幅させる古代のアーティファクトを鷲掴みにし、致死量の魔力弾を練り上げようとした。
真琴が一瞬息を呑んだが、千葉は眉一つ動かさず、ポケットから手を出そうとすらしない。彼はただ、顎でわずかに前方を指した。
「業務命令です、CHRO。彼の『労務管理』をお願いします」
「承知しました、社長」
ソアが一歩、前に出た。
彼女の大きな瞳の奥で、万華鏡のように複雑な幾何学模様が展開される。
瞬間。
会長の手に集束しかけていた魔力が、霧散した。
「……あ?」
会長は間の抜けた声を漏らし、自分の両手を見た。力が抜けたわけではない。彼の脳の認識システムそのものが、強制的に書き換えられたのだ。
「や、やめ……」
会長の視界が、急速に黒く染まっていく。
豪華な会長室の風景は溶け落ち、気づけば彼は、冷たく湿ったコンクリートの地下室に立っていた。
大玄グループが長年、ポーションの抽出効率を上げるために、非合法に攫ってきたハンターたちを被験者として使い捨ててきた、あの秘密の実験施設だ。
『……返せ……』
『……俺の人生を……痛い……熱い……』
足元から、どす黒いヘドロのような手が無数に伸びてくる。
皮膚が焼け爛れ、カプセルの中で生きたまま魔力を搾り取られて死んでいった者たちの怨霊。それが会長の仕立てのいいスーツを掴み、肉に爪を立て、地下の暗闇へと引きずり込もうとする。
「ひぃッ! 離せ! 私は悪くない! お前たちが無能だからだ!」
幻覚だと頭では理解しようとしても、脳が送ってくる痛覚と嗅覚が、それを現実だと錯覚させる。腐臭。肉の焦げる匂い。そして、永遠に続くかと思われる暗闇への落下。
「あ……あああああぁぁぁぁッ!!」
現実の会長室。
傍から見れば、会長は何もない虚空を必死に掻き毟り、自身の顔を爪で引き裂きながら、絨毯の上を幼児のように這い回っていた。失禁し、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、見えない何かに向かって必死に命乞いをしている。
ソアは、自らが植え付けた極限の恐怖に悶え苦しむ男を、ゴミを見るような冷徹な目で見下ろしていた。
「恐怖で他人を支配してきた人間ほど、自分の脳髄に直接流し込まれる恐怖には抗えない。……哀れなものね」
数分後。
ソアが視線を外し、精神操作のリンクを断ち切ると、会長はビクンと大きく痙攣し、床に突っ伏して荒い息を吐いた。もはや彼の目に、反逆の意志は微塵も残っていない。ただ、極度の恐怖によって完全に自我を破壊された、一匹の怯える獣だった。
千葉は革靴の音を響かせて歩み寄り、手元のタブレットを会長の目の前の床に放り投げた。
「アビス・マイニングが提示する、大玄グループの解体および事業譲渡契約の最終同意書です。あなたの個人資産の95パーセントの差し押さえ、アジア圏における魔力インフラ中枢のアクセス権の完全譲渡、そして人体実験に関する全責任の所在が記載されています」
平坦で、一切の感情を含まない宣告。
「た、助けてくれ……金ならある。隠し口座の暗証番号も教える……だから、あの暗闇には……」
「サインのための生体認証を。網膜と、右手の親指です。拒否すれば、あなたは明日、横領と人道に対する罪で国際手配され、この幻覚以上の地獄を現実の刑務所で死ぬまで味わうことになる。選択肢はありません」
千葉の言葉に、慈悲は1ミリも存在しなかった。
会長は震える手でタブレットを引き寄せ、涙で霞む目を端末のカメラに向け、親指をスキャナーに押し当てた。
電子音が鳴り、画面に緑色のチェックマークが表示される。
「契約成立です」
千葉はタブレットを拾い上げ、真琴へと渡した。
「現地の検察へ通報を。事前に渡りをつけてある通り、彼らを『適正に』処理させなさい」
★★★★★★★★★★★
それから数時間が経過した。
大玄の幹部たちは一人残らず拘束され、押し寄せた韓国の検察当局によって地下シェルターから連行されていった。
主を失い、完全に静まり返った広大な会長室。
非常用の照明だけが薄暗く点灯する中、千葉はもはや単なる作業机と化したマホガニーのデスクにノートパソコンを展開し、膨大な事後処理の承認作業を無言で進めていた。
「社長。現地の法務スタッフと金融庁へのクリアランス、すべて完了しました。これで中枢システムの移行も無事に終わります」
廊下から戻ってきた真琴が、安堵の息を吐きながら報告した。その手には、不釣り合いな白いビニール袋が下げられている。
「ただ、事後処理が立て込んで、現地のスタッフも手が離せずケータリングを手配する余裕がありませんでした。地上へのルートを確保した部隊が、近くのコンビニで買ってこられたのはこれくらいでして……」
真琴がデスクの端に置いたのは、透明なフィルムで包装された「上海焼きそば」だった。
「ご苦労様です」
千葉はキーボードを叩く手を止め、スリーピースの袖をわずかに引き上げた。
プラスチックの蓋を開けると、オイスターソースとごま油の、安っぽくも強烈な香りが格式高い会長室に充満する。
千葉は割り箸を割ると、一切の躊躇なく麺をすくい上げて口に運んだ。
キクラゲとモヤシの食感が、静かな室内に微かな音を立てる。
彼は黙々と箸を動かし、油でコーティングされた麺を平らげていく。
「……こんなジャンクフードでよかったんですか?」
真琴が少し申し訳なさそうに尋ねると、千葉はペリエのボトルを開けて喉を潤し、淡々と答えた。
「疲労した脳のエネルギー補給には、これくらいが最適解です」
その光景を、部屋の隅のソファに座っていたソアは、瞬きもせずに見つめていた。
(……この男は、頭がおかしい)
数兆円規模の財閥をたった今、物理的かつ精神的に完全に破壊し、一国のインフラを丸ごと飲み込んだ男。
その男が、血の跡がこびりついた絨毯のすぐそばで、たかだか数百円のコンビニの麺を平然と咀嚼している。
勝利の高揚も、権力を手にした驕りも、あるいは罪悪感すらも、彼の中には一切存在しない。ただ「目的を達成し、必要なカロリーを摂取する」という、恐ろしいほどに純粋な計算だけがそこにあった。
ソアの唇から、無意識のうちに微かな笑みがこぼれた。
彼女の胸の奥底で、かつて感じたことのない強烈な畏怖が、どす黒く、甘美な執着へと変質していくのを感じていた。
この絶対的な合理の化身の隣ならば、世界中を敵に回そうとも、決して敗れることはない。
「千葉社長。私の『評価』は、どうでしたか?」
ソアが蠱惑的な声色を作って尋ねると、千葉は空になったプラスチック容器をゴミ箱に捨て、冷徹な目で彼女を見据えた。
「期待通りのリターンです。あなたのボーナス査定に、今回の買収額の0.1パーセントを上乗せしておきましょう。……ただし、次からは私の食事中に、その不快な視線を向けることは控えていただきたい」
「ええ、肝に銘じておきますわ。私の『ご主人様』」
ソアの妖艶な微笑みに対し、千葉はもはや興味を失ったかのように視線をモニターに戻し、再び無機質なタイピングの音だけが、コンクリートの地下室に響き始めた。




