第37話 物理的蹂躙の極致
韓国・ソウル。アビス・マイニングが臨時支社としてフロアごと貸し切っていた高級ホテルの最上階。
分厚いオーク材の扉の向こうからは、複数の重いブーツが絨毯を踏み荒らすくぐもった音と、空間そのものを歪ませるような暴力的な魔力の波動が、秒単位で接近してきていた。
「……社長! 彼ら、もうエレベーターホールを抜けました! このフロアの警備は全滅です!」
久保真琴が椅子から身を乗り出し、手元の端末を握りしめながら血相を変える。画面には、ホテルの警備員たちが次々と昏倒させられ、重装備の部隊が非常階段とエレベーターから一気にこのフロアへ向かって制圧前進してくる様子が映し出されていた。彼らの動きに迷いはなく、完全に統制された殺人機械のそれだ。
隣に座るユン・ソアの顔面は、すでに血の気を失い蒼白になっていた。彼女は韓国の巨大財閥、大玄グループの暗部を誰よりも知っている。あの重苦しい魔力圧の正体が、薬物で精神と肉体のリミッターを強制的に解除された、死を恐れない完全な殺人機械たちの部隊であることを理解していた。
「……嘘でしょ。社長、自分が今どういう状況にいるか分かっているんですか……?」
ソアが震える声で呟く。幻術や精神操作など入り込む余地のない、純粋で圧倒的な殺意がすぐそこまで迫っているのだ。交渉も命乞いも通じない。
だが、千葉秀俊は手元のタブレットから視線を外すことすらなく、マグカップに残っていた冷めたコーヒーを一口飲んだ。その表情には、一切の動揺もない。
ドンッッ!!!
爆発音にも似た轟音とともに、スイートルームの分厚い扉が蝶番ごと吹き飛び、宙を舞って床の大理石に激突した。
土煙と木片が舞い散る中、黒の防弾スーツとフルフェイスのタクティカルヘルメットに身を包んだ十数名の部隊が、音もなくなだれ込んでくる。彼らは一切の警告も発せず、部屋に踏み込んだ瞬間に散開し、無言のまま手にしたアサルトライフルを千葉たちのデスクへ向けた。
タタタタタタタタタタッ!!
鼓膜を破るような発砲音が連続して鳴り響き、数百発の徹甲弾が雨霰と降り注ぐ。真琴が悲鳴を上げて頭を抱え、ソアが絶望に目を閉じた。
しかし、銃弾は千葉たちの身体を貫くことはなかった。
デスクの中央に置かれた、マヤ製の掌サイズの黒い金属キューブ。そこから展開された不可視の物理・魔力複合シールドが、飛来するすべての銃弾を空中で停止させ、パラパラと無害な金属片として床に落としていく。
シールドの内側で、千葉はタブレットをスクロールさせた。
別のソファで寝転がっていた菅原留美子が、自身の背丈ほどもある無骨な大剣『ニーズヘッグ』を無造作に肩に担ぎ上げた。彼女が着ているラフな黒のパーカーの下で、極薄の衝撃吸収・筋力増幅スーツが微かな駆動音を立てる。
「ボス、こいつら片付けていいんだよな?」
「予定通りですね。留美子、迎撃を」
千葉が静かに答えた次の瞬間、床の絨毯が爆発するように捲れ上がり、留美子の姿が掻き消えた。
部隊の前衛でライフルを構えていた大柄な男の視界に、突如として少女の顔が下から割り込んでくる。
「邪魔だ」
横薙ぎに振り抜かれた大剣の腹が、男の胴体を正確に捉えた。
斬撃ではない。純粋な質量の暴力。
凄まじい衝撃音と共に、男の身体が後方の壁まで一直線に弾き飛ばされた。最新鋭の魔力シールドがひしゃげ、男の巨体が壁面に激突して分厚いコンクリートに巨大な蜘蛛の巣状の亀裂を走らせる。衝撃で天井からパラパラと漆喰がこぼれ落ちた。
「……ッ!」
部隊の動きが一瞬だけ遅れる。いかなる薬物で恐怖を麻痺させていようと、生物としての根源的な生存本能が、目の前の規格外の暴力に対して警鐘を鳴らしたのだ。
留美子はその隙を逃さない。大剣を振り抜いた遠心力を利用して身体を独楽のように回転させ、次の一撃を真横の男の頭上へ叩き落とす。
男が咄嗟に魔力で強化した両腕を交差させて防御姿勢を取るが、金属が拉げるような嫌な音とともに、男の両腕は複雑な方向に折れ曲がり、その勢いのままヘルメットごと頭部が床の大理石にめり込んだ。周囲の石板がクレーターのように粉砕され、破片が弾丸のように飛び散る。
「陣形を崩すな! ターゲットを優先しろ!」
最後尾から、部隊のリーダーと思われる男の野太い声が響いた。
その男の全身からは、空間が陽炎のように歪むほどの異常な魔力が噴出している。大玄グループが誇るS級覚醒者。薬物で限界まで魔力を暴走させ、全身の筋肉が異様に膨張していた。
彼は留美子を部下に抑えさせ、自身は最短距離でソアの首を獲るべく、床を蹴って跳躍した。手には、高密度の魔力を圧縮して形成された、青白く発光する刃が握られている。マヤのシールドであっても、S級の魔力暴走による一点集中の物理攻撃は数秒しか持たない。
ソアは迫り来る死神の姿に、声すら出せずに硬直した。
だが、空中に飛び上がった男の横腹に、下からカチ上げられた巨大な鉄塊が叩き込まれた。
「どこ行くんだよ」
部下たちを数秒でスクラップに変えた留美子が、男の跳躍軌道に割り込んでいた。
「この、小娘がァッ!!」
男は空中で無理やり身体を捻り、魔力の刃を留美子の首筋へ向けて振り下ろす。S級の魔力と殺意が凝縮された、必殺の一撃。
しかし留美子は避ける素振りすら見せず、ニーズヘッグを正面から叩きつけた。
ガギィィィン!!
魔力の刃と大剣が衝突し、空中で凄まじい衝撃波が発生する。
ホテルの窓ガラスがすべてヒビ割れ、室内の調度品が嵐に巻き込まれたように吹き飛んだ。
拮抗したのは、ほんの一瞬だった。
パリィン、と。男の持つ青白い魔力の刃が、物理的な質量に耐えきれずに砕け散る。
驚愕に見開かれた男の顔面に、留美子の大剣の腹が容赦なく直撃した。
男の巨体が床に叩きつけられ、フロアの床面が大きく波打って崩落する。下の階の配管が破裂したのか、天井から水しぶきが上がり、非常用のスプリンクラーが作動し始めた。
静寂が戻った。
降り注ぐ水滴と、火災報知器の無機質なアラート音だけが鳴り響く中、数十名いた大玄の精鋭部隊は、誰一人として元の形を保って立ってはいなかった。そこにあるのは、完全に破壊されたホテルの内装と、物言わぬ残骸だけだ。
「……あーあ、せっかくの服が濡れちまった」
留美子は肩を回しながら、ニーズヘッグの刀身についた埃を払い落とし、千葉のデスクへと歩み寄ってきた。千葉の周囲だけは、マヤのシールドによってスプリンクラーの水滴すら弾き返し、完璧な静寂と乾燥を保っていた。
ソアは、へたり込んだままその光景を呆然と見つめていた。彼女がかつて所属し、その絶対的な力に恐怖していた大玄グループの「暴力」。それが、たった一人の少女によって、わずか数分で物理的にすり潰された。
千葉はタブレットを操作してシールドを解除すると、立ち上がってスーツの埃を軽く払った。
「予定通りですね。久保CFO、契約書の準備を」
「はい。いつでも大玄本社の役員会に乗り込めます」
「……行きましょうか」
★★★★★★★★★★★
それから数日後。東京・虎ノ門。
外資系高級ホテルの最上階に位置するフレンチ・レストラン。
アビス・マイニングがフロアごと貸し切ったメインダイニングは、眼下に広がるビル群と昼下がりの柔らかな陽光に包まれ、完璧な優雅さと静寂に支配されていた。
大玄グループ本社の役員会を物理的かつ法的に蹂躙し、莫大な賠償金と引き換えにアジアの物流インフラを完全に掌握するという巨大なミッションを終えた彼らは、すでに東京へと凱旋を果たしていた。
テーブルの中央には、完璧な火入れでロゼ色に仕上げられた仔羊のロティが置かれている。芳醇なトリュフの香りを纏うソース・ペリグーが、肉の断面で艶やかに光を反射し、付け合わせにはバターの香りが濃厚なインカのめざめのピュレと、色鮮やかな季節の温野菜が添えられている。
千葉秀俊は、完璧にアイロンがけされたネイビーのスリーピーススーツの袖口をわずかに引き上げ、銀のナイフとフォークを滑らかに動かした。切り分けた仔羊の肉を口に運び、ゆっくりと咀嚼する。その所作には、一切の乱れがない。ワイングラスを手に取り、ブルゴーニュの赤ワインの豊かな香りを静かに堪能している。
テーブルを挟んで向かい側に座るユン・ソアは、手元のナイフを握ったまま、目の前の男から目が離せずにいた。
彼女の脳裏には、数日前のソウルでの血みどろの光景が未だに焼き付いている。S級覚醒者を含む軍隊を数分でスクラップに変え、大玄グループの役員たちを絶望の底に突き落とした男。その男が今、全く同じ無表情のまま、完璧なテーブルマナーで優雅にフレンチを味わっている。
ソアはこれまで、大玄の裏の交渉人として数々の権力者の精神を操作し、恐怖で支配してきた。裏社会の人間たちの欲望も、怯えも、すべて彼女の手のひらの上にあった。
だが、目の前の千葉秀俊には彼女の幻術も精神操作も一切通用しなかった。彼は他人の感情などという不確かなものには一切興味を持たず、ただ物理的な暴力と、法と数字という絶対的なシステムのみで世界を蹂躙していく。
その事実が、ソアの背筋に氷をねじ込まれたような底知れぬ悪寒を走らせていた。
別のテーブルでは、菅原留美子が凄まじい速度で皿の上の肉を胃袋に収めていた。彼女はゴクンと大きな音を立ててグラスの水を飲み干し、口元をナプキンで雑に拭う。
「ボス、アタシの追加の肉、頼んどいて。一番デカいやつな」
留美子の声が、静寂に包まれたダイニングに響く。
千葉はワイングラスをテーブルに置き、控えていた初老の支配人に静かに視線を向けた。
「メインの皿を下げてくれ。それと、彼女に追加の肉を。一番大きいサイズで」
千葉の声は、街角でコーヒーを注文する時と何ら変わらない、極めて平坦なものだった。
大玄グループという一国の経済を支える巨大財閥を解体した直後であろうと、日常のランチであろうと、彼の中にある合理性の秤がブレることはない。
「りょ、了解いたしました。すぐに焼き上げます……!」
支配人が深々と一礼し、厨房へと急ぎ足で向かっていく。
ソアの隣では、真琴が手元のタブレットで次の買収案件のデータを弾き出しながら、仔羊のロティを器用に口に運んでいた。彼女もまた、千葉の横で数々の修羅場をくぐり抜けるうちに、この異常な空間に適応しつつある。
ソアは小さく息を吐き出し、ようやく震える手で自身のフォークを持ち上げた。窓の外では、東京の摩天楼がどこまでも冷ややかにそびえ立っていた。




