第36話 財閥の直接武力
ソウルの空は、鉛色の重い雲に低く覆われていた。時折、遠くで鳴るくぐもった雷鳴が、これから訪れる嵐の予兆のように都市の喧騒を重く押さえつけている。
大玄グループ本社ビル最上階。数百平米にも及ぶ広大な会長室の空気は、今にも暴発しそうなほどの高い圧力に満ちていた。
壁面に埋め込まれた複数の巨大モニターには、グループの命運を示す絶望的な映像が、音を消された状態で絶え間なく映し出されている。
メインスクリーンに表示されているのは、底なし沼のように暴落していく大玄の株価チャートだ。サーキットブレーカーが何度も発動し、市場のパニック売りはとどまることを知らない。サブスクリーンでは、世界中のニュースキャスターたちが大玄の非人道的な人体実験を厳しい表情で非難し、本社ビルを取り囲んだ数万人の市民が抗議のプラカードを掲げて警察のバリケードと衝突している映像が流れていた。
巨大なマホガニーのデスクの奥に座る男――大玄グループ会長は、血走った目でその画面を睨みつけていた。
長年、韓国の経済と政治を裏から操り、この国の王として君臨してきた彼の顔には、かつての絶対的な権力者の余裕は微塵も残っていない。深く刻まれた皺の奥には、濃い疲労と、己の築き上げた帝国を土足で踏み荒らす者へのどす黒い怒りが渦巻いていた。
ダンジョンの利権を独占し、刃向かう者は闇に葬り、政治家や官僚を金で飼い慣らしてきた。その絶対的な支配体制が、わずか数日のうちに、海を渡ってきた見知らぬ新興ギルドによって完膚なきまでに破壊されたのだ。
「……検察は、動いているのか」
しゃがれた、しかし重い声が、静まり返った室内に響く。
デスクの前に直立する黒スーツの男――彼の直属の影の部隊を統括する男が、深く頭を下げたまま答えた。
「はい。世論の圧力が強すぎます。長年我々の息がかかっていたはずの政権中枢や法務省の上層部でさえ、もはや大玄を庇いきれないと判断したようです。早ければ明朝にも、特捜部がこのビルを含めた関連施設数百箇所に一斉捜索に入ります。証拠隠滅の時間は、残されていません」
「……役員どもは、どうしている」
「使い物になりません。ユン・ソアの精神操作の影響が完全に末端まで波及しています。互いを検察の犬、裏切り者と罵り合い、自らの保身のために会社の機密データを持ち出して特捜部との司法取引を目論む者が続出しています。もはや、組織としての統制は完全に失われました。誰の言葉も届きません」
会長は、手元のクリスタルグラスを鷲掴みにし、床に向かって力任せに叩きつけた。
甲高い破砕音が響き、最高級のブランデーが毛足の長いペルシャ絨毯にどす黒い染みを作る。
「あの薄汚い裏切り者の雌犬が……! 我が家門の恩恵をしゃぶり尽くしておきながら、日本のハゲタカ風情に尻尾を振ったか!」
彼は荒い息を吐き、デスクの上に散乱した分厚い報告書を睨んだ。
法廷闘争、メディアを通じた世論操作、政治家への裏金のバラマキ。彼らがこれまで絶対の武器としてきたすべての手段は、アビス・マイニングの緻密で圧倒的な物量と情報戦の前に、悉く無力化されていた。
既存のルールの枠組みの中で戦っていては、もはや勝機はない。ルールそのものを破壊し、盤面を物理的にひっくり返すしかない。
「……『黒獣』部隊を出せ」
会長の低い言葉に、報告を行っていた男の肩がビクリと跳ねた。
「会長。それは……彼らはまだ調整段階の兵器です。市街地で展開すれば、魔力汚染を含めて被害の規模が予測できません。それに、S級の隊長格は精神制御が不安定で……」
「黙れ! 被害などどうでもいい。日本企業の韓国支社ごと、ユン・ソアを跡形もなく消し去れ! 生き証人が物理的に消滅し、あの忌々しい日本のCEOが死ねば、買収もクソもなくなる。あとはいくらでも金の力で揉み消してやる。やれ!!」
男はそれ以上反論せず、深く一礼して部屋を退室した。
会長は椅子の背もたれに体を預け、怒りに震える瞳でソウルの街を見下ろした。
法と金で完膚なきまでに追い詰められた彼に残されたのは、ただ純粋で暴力的な破壊だけだった。
★★★★★★★★★★★
ソウル市内の中心部にそびえ立つ、外資系高級ホテルの最上階。
アビス・マイニングはそのワンフロアを丸ごと借り切り、強固なセキュリティ網を敷いて韓国攻略のための臨時支社として機能させていた。
「……大玄グループの関連企業30社から、およそ5000億ウォン規模の不自然な資金流出を確認。ケイマン諸島とシンガポールのペーパーカンパニーを経由して、資産の隠蔽を図っている形跡があります。ただちに追跡アルゴリズムを回して、全口座の凍結要請を現地の金融庁へ……ああもう、目が痛い」
久保真琴は、臨時で組まれた巨大なデスクの上に展開された複数のモニターを前に、乾ききった目をこすった。
新宿のオフィスからソウルへの急な移動、そして大玄崩壊に伴う膨大な法務・財務処理。ただでさえ複雑な他国の企業法務に加えて、リアルタイムで崩壊していく巨大財閥の資産を差し押さえる作業は、彼女の脳を限界まで酷使していた。数万ページに及ぶ韓国語の契約書と財務諸表をAI翻訳と自身の知識で並行処理し、ダミー会社のネットワークを暴いていく。タイピングする指先は無意識に震え、思考の明瞭さが徐々に失われかけている。
「久保CFO。エネルギーの枯渇は、重大な判断ミスを誘発します」
真琴の背後から、平坦な声が響いた。
振り返ると、千葉秀俊がいつもと変わらぬ隙のないスーツ姿で立っていた。彼の片手には、小ぶりな白磁の皿が乗せられている。
その皿の上には、不揃いな形をした焦げ茶色の石のような塊が、いくつか無造作に置かれていた。
「……なんですか、これ」
「沖縄県産の黒糖です。これを。疲労した脳に直接ブドウ糖を届ける、最も効率的な燃料です」
千葉は皿の中から一つ、親指の先ほどの大きさの塊を指でつまみ、口に放り込んだ。
彼特有の、一切の感情を排した無機質な咀嚼。
ガリッ、という硬質な音が響く。
千葉は皿を真琴のデスクの空いたスペースに置いた。
「食べなさい。あなたの脳の処理速度が落ちれば、我が社の利益に直結する」
「……はあ」
真琴は半信半疑で、その黒糖の欠片を一つ口に入れた。
瞬間、強烈だが決してくどくない、深く複雑な甘みが口いっぱいに広がった。焦がしたキャラメルのような香ばしさと、微かな塩気、そして大地そのものを濃縮したような豊かな風味が、疲労困憊の脳細胞に染み渡っていく。枯渇していた思考回路に、急激にクリアな血液が巡り始めるのがわかった。
「あ……美味しい」
「当然です」
千葉が自身のデスクに戻ろうとしたとき、部屋の重厚なドアが開き、ユン・ソアが足早に入ってきた。
彼女の顔には、いつもの余裕のある妖艶な微笑みはなく、明確な緊張が走っていた。
「社長。大玄の内部ネットワークに潜ませていた私の監視プログラムが、今さっき完全に遮断されました。ただの物理的な回線の切断じゃない。軍用レベルの暗号化ジャミングによる強制排除です」
ソアの言葉に、真琴のキーボードを叩く手がピタリと止まった。
「ジャミング? どういうことですか、ソアさん」
「会長が、完全に理性を飛ばしたってことよ」
ソアは自身の腕を抱きかかえるようにして、窓の外に広がるソウル市街を見下ろした。彼女の肩が微かに震えている。
「彼は追いつめられると、自分が作り上げたルールすら平気で壊す。彼の手元には、まだ表に出ていない非合法の私兵部隊があるわ。ダンジョンの違法な人体実験で生み出された、強化人間たち。……間違いなく、ここに向かってくる」
その言葉とほぼ同時に、真琴のデスクに置かれていたタブレットから、鋭い警告音が鳴り響いた。
ホテルのセキュリティシステムからの、物理的な侵入アラートだ。
「……下の階の防犯カメラの映像、来ます!」
真琴が血相を変えて手元のモニターを切り替える。
そこに映し出されたのは、重装備に身を包んだ数十名の部隊が、ホテルの警備員たちを次々と昏倒させ、非常階段とエレベーターから一気にこのフロアへ向かって制圧前進してくる様子だった。彼らの動きに迷いはなく、完全に統制された殺人機械のそれだ。
さらに、先頭を歩く大柄な男の周囲には、空間が歪むほどの異常な魔力圧が視覚化されている。カメラの映像越しでも、その暴力的なまでのエネルギーがはっきりと伝わってくる。
「S級……。それも、ただの覚醒者じゃない。薬物で魔力を強制的に暴走させているわ。ここをビルごと吹き飛ばす気よ」
ソアの声が、明確な恐怖で震えた。
大玄のトップすら恐れさせ、数々の要人を裏から操ってきた精神操作の使い手である彼女も、物理的な質量による純粋な暴力の前では無力だ。圧倒的な殺意を持って迫り来る軍隊を前に、幻術など何の役にも立たない。思考を放棄した暴力こそが、彼女にとって最大の天敵だった。
「どうしますか、社長! 現地の警察に連絡を……いや、間に合いません!」
真琴が椅子から立ち上がり、パニックになりかけたその時。
「騒ぐな。想定内のコストです」
千葉はタブレットに視線を戻し、極めて平坦な声で告げた。
その表情には、一切の動揺もない。相手が法を捨てて暴力に訴えてくることなど、最初から彼の描いたスプレッドシートの片隅に組み込まれていたかのように。
「予定通りですね。ひろみ、留美子、迎撃を」
「了解」
千葉のデスクの横に控えていた市川ひろみが、壁際から音もなく離れた。彼女は手の中でカランビットナイフを弄りながら、薄く冷酷な笑みを浮かべている。タイトな黒のパンツスーツの首筋に刻まれたタトゥーが、彼女の闘争心に呼応するように微かに赤く明滅していた。
「ロビーと非常階段のクリアランスは、私が請け負うわ。ネズミの数は多いけど、ただの的よ」
そして、部屋の奥のソファ。
自身の背丈ほどもある巨大大剣『ニーズヘッグ』に専用のオイルを塗り込みながら、退屈そうに欠伸をしていた菅原留美子が、のそりと立ち上がった。
彼女の周囲の空気が、パチパチと静電気を帯びたように弾ける。
まだ戦ってもいないというのに、彼女の体から無意識に漏れ出す膨大な魔力だけで、室内の照明が明滅を繰り返し、窓ガラスが微かに共鳴音を立てた。魔力回路が定着した大剣の刀身が、持ち主の殺気に呼応して青白い光を帯び始めている。
「やっとアタシの出番かよ。パソコンの画面見てるだけなんて、マジで退屈で死にそうだったんだ」
留美子は、大剣を片手で軽々と持ち上げ、肩に担いだ。
そのエキゾチックな美貌には、これから始まる凄惨な殺戮への恐怖など微塵もなく、ただ純粋な闘争への歓喜だけが張り付いていた。相手が強化人間だろうが暴走したS級だろうが、彼女にとってはどうでもいい。ただ、叩き潰すための「障害物」がそこにあるだけだ。
ホテルの廊下の奥から、爆発音と重い足音が近づいてくる。
財閥の最後の悪あがきである私兵部隊が、すぐそこまで迫っていた。
ソアが青ざめた顔でドアを見つめ、真琴が息を呑む中、千葉はモニターの複雑な資本関係図から目を離さず、淡々とキーボードを叩き続けた。
「久保CFO。彼らの処理は現場に任せます。我々は買収の最終契約書の締結を進めましょう」
冷え切ったオフィスに響くのは、空調の微かな稼働音と、千葉が正確にキーボードを叩く乾いた音だけだった。




