第35話 国際大暴露祭
新宿の巨大なオフィスビル群から数ブロック離れた裏路地。再開発の波から取り残されたような、色褪せたレンガ調の外壁を持つ昔ながらの洋食屋「グリル・スズキ」。店先に置かれた食品サンプルは長年の日差しで色褪せているが、店内は磨き上げられた黒光りする床と、糊の効いた白いテーブルクロスが清潔感を保っている。
時刻は午後1時を少し回ったところ。ピークタイムを過ぎた店内は、換気扇の低い唸り音と、壁掛けテレビから流れる昼のニュース番組の音声だけが響いている。
奥の四人掛けテーブル席を占拠しているのは、アビス・マイニングの主力メンバーたちだった。
千葉秀俊の前に置かれたのは、銀色の楕円形のステンレス皿に盛られた「ポークカレーの小」と、ガラスの器でよく冷やされた「ミニシーザースサラダ」だった。
千葉は完璧にアイロンがけされたネイビーのスリーピーススーツの袖口をわずかに引き上げ、まずはサラダのフォークを取った。
冷水でシャキッと締められたロメインレタスに、濃厚なチーズとニンニクの風味が効いたドレッシングが絡んでいる。大きめに砕かれたクルトンの小気味良い歯触りと、粗挽きの黒胡椒のピリッとした刺激。千葉はそれらを一定のペースで、無表情のまま、しかし完璧なテーブルマナーで咀嚼していく。
「……社長。数兆円規模の企業買収を仕掛けようとしている当日のランチが、850円のカレーセットですか」
向かいの席で、普通盛りのハンバーグランチを器用に切り分けていた久保真琴が、呆れたように言った。彼女の目の下には連日の徹夜作業による薄いクマがあるが、その瞳は澄んでいる。
「提供から消費までの時間的コストが極めて低く、マクロ栄養素の計算が容易だからです」
千葉はサラダを平らげ、ペリエを一口飲んでからスプーンを手に取った。
「これから午後にかけて、大玄グループの解体に向けた膨大な情報のトラフィックを処理しなければなりません。胃腸への血流集中を最小限に抑えつつ、脳が必要とするブドウ糖を持続的に供給するには、この『小盛り』という炭水化物の量が最適解です。加えて、豚肉に含まれるビタミンB1は、神経系の疲労回復に直結する。合理的な選択でしょう」
言いながら、千葉はスプーンをカレーの海へ沈めた。
小麦粉をバターでじっくりと炒めた、もったりとした粘度の高い日本のカレー。大量の玉ねぎが原型を留めなくなるまで煮込まれ、スパイスの刺激の奥に深い甘みとコクが凝縮されている。スプーンの縁で軽く押すだけで崩れるほど柔らかく煮込まれた豚バラ肉からは、質の良い脂がルーに溶け出し、重層的な旨味を形成していた。彼はそれを、まるで精密機械が燃料を取り込むような正確さで口に運ぶ。
その光景を、隣の席でアイスティーのストローを弄りながら観察していたユン・ソアは、微かに眉をひそめた。
数時間前、ソアが仕掛けた暗示によって、大玄グループの役員たちは会議室で互いの不正を暴露し合い、見苦しい潰し合いを演じた。店内のテレビでは、まさに今、韓国のメディアがその異常事態を一斉に報じている。役員の一人が自らの保身のために検察に出頭し、裏金工作の決定的な証拠を提出したという速報テロップが流れていた。大玄の内部は今頃、疑心暗鬼と保身の連鎖で完全にパニックに陥っているはずだ。
だが、それはあくまで大玄という強固な城の「外堀」を埋める前座に過ぎないことを、ソアは知っている。
「ソアさん。あなたが大玄の役員の記憶から直接サルベージした暗号キーは、マヤCTOの解析システムによって完璧に機能しました」
真琴が、声を落として切り出した。その声には、法を司る者としての深い嫌悪と怒りが滲んでいた。
「……ハンターの非人道的な人体実験。借金で首の回らなくなった下級ハンターをダミー会社経由で買い叩き、魔力炉の限界稼働テストの『生体パーツ』として使い捨てていた記録。被験者のリスト、投与された未認可ポーションのデータ、そして彼らの最終的な『処理』のプロセス。すべて、裏付けが取れました。言い逃れのできない、完全な一次資料です」
ソアは黙って頷いた。
「韓国の国内法や、彼らが飼い殺している政治家を通せば、この証拠も揉み消される可能性があります。彼らのロビー力は、自国の司法を完全にコントロールできるレベルですから。ですが……」
真琴はタブレットを操作し、その画面を千葉に向けた。
「これを国際社会、特に欧米の機関投資家や人権団体に直接叩きつければ、話は別です。現代のグローバル市場において、ESGへの重大な違反は、企業にとって致命的な毒になります。巨額の資金を運用するファンドは、コンプライアンス違反の企業に投資を続けること自体がリスクとみなされ、自動的に資金を引き揚げるルールになっているからです」
「ええ。市場のルールは、時にどんな兵器よりも残酷に企業を焼き尽くす」
千葉はカレーの最後の一口を飲み込み、紙ナプキンで口元を拭った。彼の声には一切の感情が乗っていないが、だからこそその言葉には絶対的な実効性が伴っていた。
「松尾部長。準備は」
「完璧です、ボス」
ハンバーグの付け合わせのフライドポテトを齧っていた松尾伸子が、不敵な笑みを浮かべてスマートフォンを掲げた。
「マヤちゃんに作ってもらった特殊なルーティングシステムで、世界の主要動画プラットフォームのアルゴリズムに強制的に割り込ませます。大玄側が国家権力を使って通信制限や削除申請を出す前に、世界中の数百のミラーサーバーで同時に増殖する仕組みです。英語、フランス語、スペイン語のリアルタイム翻訳字幕付き。……ターゲットの感情を一番効率よく爆発させる編集、仕上げてありますよ」
伸子の瞳の奥には、すでに数千万のトラフィックを支配する高揚感が渦巻いていた。彼女にとって、巨大な権力がひた隠しにしてきた不正は「最高のエンターテインメントの素材」でしかない。
「午後2時。ニューヨーク、ロンドン、そして東京の市場が連動して反応するタイミングで、投下しなさい」
千葉は立ち上がり、伝票を手に取った。
「我々が提供するのは、真実という名の適正な情報です。市場にそれを評価してもらいましょう」
★★★★★★★★★★★
午後2時00分。
アビス・マイニング本社の広報用スタジオ。防音壁に囲まれた空間で、伸子はカメラのレンズに向かって、これ以上ないほど悲痛で、切実な表情を作っていた。計算し尽くされた照明が、彼女の顔にわずかな影を落とし、訴えかけるような真剣さを際立たせている。
『世界中の皆様。どうか、この真実から目を背けないでください』
彼女の震える声は、マヤの技術によって瞬時に多言語へと翻訳され、世界中の画面にテロップとして表示される。
『私たちは、一部の巨大な権力によって、人知れず消費されている命の記録を入手しました。彼らは、私たちと同じように夢を持ち、家族のためにダンジョンに潜ったハンターたちです。……これは、大玄グループの地下施設で、昨日まで行われていた現実です』
伸子が画面からフェードアウトし、代わりに荒い画質の映像が再生された。
それは、ソアが大玄のセキュリティ網の深淵から引きずり出した、実験施設の監視カメラの映像だった。
無機質なカプセルに繋がれた、生気のないハンターたち。
致死量の魔力を強制的に引き出され、皮膚が焼け焦げ、絶叫すら上げられずに痙攣する姿。
研究員たちが、まるで壊れた機械の部品を交換するかのように、冷酷な手つきで彼らをカプセルから引きずり出し、次の「検体」を放り込む様子。
映像の生々しさは、言葉によるいかなる説明をも凌駕していた。
さらに、画面の端には真琴が整理した「証拠書類」の画像が次々とフラッシュ表示される。役員のサインが入った稟議書、隠し口座への資金移動の記録、被験者たちの本名と年齢。一つ一つのデータが、大玄グループが組織ぐるみで命を弄んでいたことを裏付けている。
『彼らは、ダンジョンの恩恵を独占するためだけに、人間を部品として使い捨ててきました。これが、大玄グループが誇るクリーンなエネルギーの正体です』
伸子の声が、再び重く響く。
『私たちは、この事実を隠蔽しようとする力と戦います。どうか、この真実を世界に広めてください』
配信開始からわずか数分。
マヤの組んだアルゴリズムは完璧に機能し、動画は世界中のSNSのトレンドを物理的に制圧した。コメント欄は、あらゆる言語による怒りと憎悪の言葉で滝のように埋め尽くされていく。
CEO室の巨大なモニター群の前に立つ千葉は、その「炎上」のスピードを、まるで天気予報でも見るかのような平坦な目で観察していた。
「……大玄グループの株価、急落を開始しました」
デスクに張り付く真琴が、乾いた声で報告する。彼女の手元では、複数の取引所のデータがリアルタイムで統合されていた。
「外国人機関投資家によるパニック売りです。ESGファンドの自動売買アルゴリズムが、暴露された映像とSNSのネガティブセンチメントを『投資不適格のレッドゾーン』と即座に判定し、一斉に保有株の投げ売りを始めました。人間のトレーダーが状況を把握するよりも早く、システムが企業価値をゼロと見なして機械的に損切りを行っています。……下落率、前日比マイナス15パーセント。まだ止まりません」
ソアは、モニターに映し出される垂直に落下していく赤いチャートに釘付けになり、声を発することすら忘れていた。
彼女が長年、恐怖と畏敬を抱いていた巨大な財閥。法も警察も手出しできないと信じられていた絶対的な権力。それが、たった一本の動画と、市場のメカニズムによって、砂上の楼閣のように崩れ去っていく。
ソアは、一切の表情を変えずに数字の羅列を見つめる千葉の横顔を見た。
精神操作も、洗脳も必要ない。人間の「正義感」や「恐怖」といった感情を、市場というシステムに放り込み、利益と損失のルールに従って増幅させる。それこそが、最も確実で、最も残酷な支配なのだと。
「……株価、制限値幅の下限に到達しました。買い注文、ゼロ。事実上の市場からの退場宣告です」
真琴の報告に、千葉はモニターから視線を外し、通信用のインカムのスイッチに指を触れた。
「これで彼らの社会的、経済的な防御壁は完全に消滅しました。残るは、追い詰められた獣による無軌道な物理的抵抗のみ」
千葉の冷徹な声が、CEO室に響く。
「ひろみ。留美子。猟犬の鎖を解きます。韓国本社への物理的な『差し押さえ』の準備に入りなさい」




