第34話 合法的なマインドコントロール
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社の最上階。
防音ガラスの向こうで東京の空が白み始め、都市が重苦しい活動を再開しようとする午前6時。CEO専用のプライベートキッチンには、冷徹な金融市場の動向とは無縁の、豊かで暴力的なまでの香気が充満していた。
千葉秀俊はタイバーを外し、袖口を几帳面に折り返したシャツ姿のまま、特注の土鍋の前に立っていた。
静かに蓋を持ち上げると、閉じ込められていた真っ白な蒸気が一気に立ち上る。正確に計量された水と火加減によって炊き上がった米は、一粒一粒が完璧に立ち、真珠のような光沢を放っていた。千葉は濡らした木杓子で鍋肌に沿って手早く十字を切り、米粒を一切潰さないよう、空気を抱き込ませるように底からふわりと天地を返す。
傍らのまな板には、2種類の具材が準備されていた。
1つは、極上の本枯節と羅臼昆布を、少量の醤油と本味醂で焦げる寸前まで煮詰めた自家製の「おかか昆布」。醤油の香ばしさと昆布の深い旨味が凝縮された黒光りするそれは、米の甘みを極限まで引き出すための完璧な調味料として完成している。
もう1つは、備長炭の強火で表面の皮だけを香ばしく焼き上げ、中はねっとりとしたレアの状態に留めた大ぶりの「焼きタラコ」だ。弾けそうなほどの粒のハリと、炭の香りが食欲を直接刺激する。
千葉は両手に少量の冷たい手水をつけ、天然の粗塩を掌に薄く馴染ませた。
適量の米を手に取り、中央に具材を落とす。掌の中で米を転がすのは、わずか三手。外側は崩れないギリギリの強度を保ちつつ、内側には空気が含まれ、口に含んだ瞬間にほどける絶妙な圧力を指先だけで測り切る。無駄な動きは一切なく、工業製品を組み立てるかのような正確さで、形と重さの揃ったお握りが次々と漆塗りの盆に並べられていく。
IHヒーターの上では、小ぶりな雪平鍋が出汁の香りを立てていた。利尻昆布と血合い抜きの鰹節で引いた一番出汁。そこに、ひげ根を丁寧に一本ずつ処理した豆もやしを投じる。シャキシャキとした食感を残すため、火入れは秒単位で管理されている。15秒後、沸騰する直前の絶好のタイミングで、信州味噌と八丁味噌の合わせを溶き入れた。火を止め、大豆の芳醇な香りを鍋の中に封じ込める。
添えられるのは、絶妙な浸かり具合の胡瓜と茄子の糠漬け、そして大粒で肉厚な紀州南高梅だ。
「……何かの儀式?」
キッチンの入り口で、ユン・ソアが呆れたような声を漏らした。
彼女は昨夜、大玄グループの私兵部隊から逃れ、アビス・マイニングに保護されたばかりだった。支給されたシンプルなスウェット姿に着替えてはいるが、その顔には疲労と、この異常な空間に対する警戒の色が濃く残っている。
「エネルギーの補給です」
千葉は振り返ることもなく、完成した和食のセットを盆に乗せていく。
「脳を極限まで駆動させるには、質の高い炭水化物と塩分、そして適切なアミノ酸が必要です。劣悪な食事で胃を荒らせば、午後の判断力に3パーセントのエラーが生じる」
「……冗談みたいな理屈ね」
ソアは小さく息を吐き、キッチンの奥にあるラウンジスペースへと歩を進めた。
そこには、巨大なモニター群の光を顔に浴びながら、画面を睨みつけてキーボードを叩き続けている久保真琴と、傍らでタブレットを操作するマヤ・ワシントンの姿があった。
「おはよう、新入り」
マヤがガムを膨らませながら、画面から目を離さずに言った。
「あんたの頭ん中、マジでエグいわね。大玄の内部ネットワークの構造から、役員連中の裏口座のパスワードまで、よくもまあそこまで記憶の底に沈めてたもんよ」
「……引き出したのはあなたでしょう、CTO」
ソアはソファに浅く腰掛けた。
昨夜、千葉に「最高人事責任者」という役職を与えられた後、ソアはマヤのラボに連行された。そこで彼女が行ったのは、自分の脳内に蓄積されていた大玄グループの急所――幹部たちの弱み、横領の証拠、そして何より、彼女自身が彼らの潜在意識に植え付けていた「暗示のトリガー」――を、マヤの解析システムとリンクさせることだった。人間の脳波を特定のデジタル信号に変換し、ネットワークのノイズに重畳させるという、常軌を逸した技術の結晶である。
「準備は整っていますか」
千葉が3人分の盆をテーブルに置きながら尋ねた。
真琴が乾いた目を強く瞬きさせながら、モニターを見上げる。
「ええ。大玄グループのダミー会社3社に対する空売りは、市場が開くのと同時に発動します。並行して、韓国検察と主要メディアの告発窓口へ、彼らの資金洗浄の証拠データを匿名で一斉送信する手はずです。……ですが社長、これだけであの巨大な財閥が崩れるとは思えません。彼らはこれまでも、トカゲの尻尾切りで何度も危機を乗り越えてきました。数人が逮捕されても、組織の根幹は揺るがないのでは」
「だからこそ、彼女の能力を使うのです」
千葉はソアを見下ろした。
「組織のトップダウン構造は、強固に見えて実は脆い。互いへの絶対的な信頼が存在しないからです。彼らを縛っているのは恐怖と利益だけだ。そこに、わずかな疑念の種を蒔いてやる」
ソアは自身の能力の恐ろしさを誰よりも理解していた。
大玄の幹部たちは、かつて彼女を利用して政敵や身内を陥れてきた。その過程で、ソアは彼らの精神にも微細な干渉を行っている。
「いつか自分も裏切られるのではないか」
「自分の弱みを握られているのではないか」
という原初的な恐怖を、潜在意識の奥底に静かに植え付けていたのだ。
「マヤCTO。彼らの社内ネットワークと、役員専用のスマートフォンに、私が指定した周波数のノイズと視覚パターンを忍ばせてあるわね?」
ソアが確認すると、マヤはニヤリと笑ってエンターキーを叩いた。
「当然。役員会議室の大型モニターから各個人の端末まで、すべてに仕込んだわ。ウイルス検知システムには絶対に引っかからない。ただの『画面のチラつき』と『軽微な音声ノイズ』として処理される」
「それで十分よ」
ソアの大きな瞳に、妖しい光が宿る。
「私の暗示は、その微細な刺激をトリガーにして起動する。彼らの脳内で、過去の罪悪感ではなく、『今まさに自分が他者に売られようとしている』という強迫観念が、急速に肥大化していくように設定してあるわ」
午前9時。
東京とソウルの市場が同時に開いた。
真琴のモニター上で、大玄グループの株価を示す赤いラインが、崖から転がり落ちるように垂直に下落し始めた。
空売りの爆撃と、メディアによる資金洗浄の速報。
韓国・ソウル。大玄グループ本社ビルの最上階、重役会議室。
巨大なマホガニーのテーブルを囲む12人の幹部たちは、スマートフォンに次々と入る緊急の通知に顔を青ざめさせていた。
『検察が動きました! ダミー会社の口座が凍結されています!』
『誰だ! 誰がメディアに帳簿をリークした! あれは極秘扱いだったはずだ!』
怒号が飛び交う中、壁面の大型モニターが、ほんの一瞬だけ不自然に明滅した。
ジッ、という微かなノイズが会議室のスピーカーから鳴る。
その瞬間、幹部たちの脳内で、ソアが植え付けていた『暗示』が弾けた。
副会長の目に、向かいに座る専務の顔が、自分を嘲笑い、検察と裏取引をしている悪魔のように歪んで見えた。
専務の耳には、隣の常務が「すべて副会長の責任にして、我々は逃げる」と囁いているように聞こえた。常務の唇は動いていないにもかかわらず、その声はひどくリアルに脳へ直接響いた。
論理的な思考が、急速に被害妄想に飲み込まれていく。
彼らは長年、汚い手段で身内を蹴落とし、現在の地位を築いてきた。他人の弱みを握り、裏切るのが日常だった。その経験が、疑念を確信へと変える最強の燃料となった。
「お前だな……! お前が私を検察に売ったのか!」
副会長が立ち上がり、専務の胸ぐらを掴んだ。
「ふざけるな! リークされた口座は、兄さんが管理していたものじゃないか! 自分の罪を私になすりつける気か!」
取っ組み合いが始まる。テーブルの上の高級なティーカップが床に落ちて粉々に砕けた。
別の役員は、自分が助かるためにと、震える手で自身のスマートフォンを操作し始めた。他の役員の不正の証拠――賄賂の受領記録や愛人への不正な送金記録――を、自ら検察の窓口へ直接送りつけようとしているのだ。
「やめろ! 何をしている!」
「離せ! 私だけが沈むわけにはいかないんだ! お前たちが裏切る前に、私が先手を打つ!」
「ふざけるな、あの時の裏金はお前が一人で着服したんだろうが!」
スマートフォンを取り出して互いを録画し合い、相手の暴言を証拠として残そうとする者まで現れる。重厚な会議室は、数分と経たないうちに、怒号と暴力、そして見苦しい保身のための内部告発が飛び交う地獄へと変貌した。誰一人として他者を信じず、組織としての連携を完全に放棄した。血は流れない。だが、組織を組織たらしめていた理性は完全に崩壊していた。
新宿のCEO室。
真琴は、信じられないものを見る目でモニターを見つめていた。
「……大玄グループの主要幹部3名が、互いを背任と横領で刑事告発しました。それも、自社の法務部を通さず、個人的に検察へ証拠を持ち込んでいます。社内ネットワークは完全にパニック状態。統制は失われ、関連企業の株価も軒並みストップ安に張り付いています……」
「見事な仕事です、ユン・ソアCHRO」
千葉は手元のタブレットを置き、平然とした声で言った。
「彼らが同士討ちで自滅し、企業価値が紙切れ同然になったところで、我々がインフラ部門と魔石の物流網だけを底値で買い叩く。無駄な法的闘争も、物理的な衝突も発生しない。極めて合理的なM&Aです」
ソアは、画面の向こうで起きている自国の巨大財閥の崩壊を見つめていた。
「……えげつないわね」
ソアは呟き、目の前に置かれた漆塗りの盆に視線を落とした。
まだ温かい湯気を立てる豆もやしの味噌汁と、完璧な形を保ったお握り。
「冷める前に食べなさい。午後からは、買収したインフラ部門の新たな人事評価基準の策定に入ってもらいます。彼らの忠誠心を、我が社のシステムに完全に最適化するためにね」
千葉は自分の盆を引き寄せ、箸を取った。
ソアは小さくため息をつき、両手でお握りを持ち上げた。
指先に伝わる温かさと、一口かじった瞬間に口の中でふわりとほどける米の甘み、そして炭火で焼かれたタラコの暴力的なまでの旨味が、徹夜で疲労した脳髄に直接染み渡っていく。大玄で味わってきた高級フレンチや料亭の味とは違う、細胞が直接歓喜の声を上げるような、根本的な滋味。
彼女の目から、自然と涙が溢れそうになった。
それが、あまりにも完璧な食事の味によるものなのか、それとも、底知れぬ合理主義の怪物に飼われることになった自身の運命に対するものなのか、彼女自身にも分からなかった。
ただ、この冷酷で完璧なシステムの中には、奇妙なほど絶対的な安心感があることだけは、確かだった。




