第33話 最高人事責任者
海風が錆びたシャッターを揺らし、軋む音が夜の闇に響く。横浜港に放置された第9倉庫。
外で断続的に響いていた鈍い衝撃音と短い悲鳴が、唐突に止んだ。
数秒の静寂の後、ひしめき合うコンテナの影から、タイトな黒のパンツスーツを着た市川ひろみが音もなく姿を現した。彼女の足元には、大玄グループが放った増援部隊――最新の魔力シールドと重火器で武装した私兵たち――が、文字通り「掃除」され、物言わぬオブジェのように転がっている。
ひろみのレザージャケットの袖口からは、べっとりと黒ずんだ血が滴り落ちていた。彼女が深く息を吐くたび、海潮の匂いに濃密な硝煙と鉄錆の臭気が混ざり合う。
「……外のネズミはすべて駆除したわ。ボス」
ひろみは懐からハンカチを取り出し、カランビットナイフの刃を丁寧に拭いながら告げた。
その報告を聞いたユン・ソアは、素足のままコンクリートの床にへたり込んでいた。彼女を追ってきた大玄の精鋭部隊が、たった一人の女によって数分のうちに壊滅させられたという現実が、うまく脳で処理できない。
千葉秀俊は、左手首の時計に静かに目を落とし、時刻を確認した。
「想定より3分遅れですね」
平坦な声には、血生臭い惨状に対する動揺も、勝利の昂揚も一切含まれていない。
「文句言わないでよ。連中、面倒な魔力シールドなんか着込んでたんだから。まあ、関節の隙間を突けば同じことだけど」
ひろみは肩をすくめると、ソアの足元に転がっていたハイヒールを拾い上げ、無造作に差し出した。
「ボスはお腹を空かせた猟犬を拾うのが趣味なのよ。立てるわね、お姫様」
ソアはひろみの手から靴をもぎ取ると、諦めたように息を吐き出した。自身の最大出力の精神操作を全く意に介さず、圧倒的な暴力で物理的な包囲網すらも紙切れのように破り捨てるシステム。もはや彼女に選択肢は残されていなかった。
★★★★★★★★★★★
深夜の新宿。防音ガラスの向こうで毒々しいネオンが瞬く中、アビス・マイニング本社の最上階に新設されたCEO専用プライベートキッチンには、油の爆ぜる甲高い音と、暴力的なまでの香ばしい匂いが充満していた。
ソアは併設されたシャワールームで数日ぶりの温水に打たれ、用意されていた肌触りの良い上質なルームウェアに着替えていた。大理石のカウンターテーブルの前に座らされた彼女は、目の前で進行している光景に言葉を失っていた。
スリーピースのジャケットとネクタイを外し、純白のシャツの袖を肘まで正確に折り曲げた千葉が、3口のIHヒーターの前に立っている。
彼の手元には、あらかじめ常温に戻され、表面の水分をペーパータオルで完璧に拭き取られた豚ロースの塊肉があった。重量にしておよそ500グラム。美しい真紅の赤身と、白く透き通った分厚い脂身が層をなしている。
千葉は、深めのフライパンで180度に熱せられた太白胡麻油の中へ、その肉の塊を静かに滑り込ませた。
パチパチという激しい音とともに、肉の表面から細かい泡が一斉に立ち上る。
「素揚げ、ですか……?」
ソアが思わず呟くと、千葉は視線を油の表面に固定したまま答えた。
「衣は不要です。表面のタンパク質を急速に凝固させ、旨味と水分を内部に閉じ込める。重要なのは、油の温度を一定に保つことと、引き上げるタイミングです」
約3分。表面が黄金色に変わり、菜箸の先からパリパリとした硬質な質感が伝わった瞬間に、千葉はトングで肉を引き上げた。
すぐさま、横に用意してあったステンレス製のボウルに肉を移す。ボウルの中には、濃口醤油、少量の酒、そして底が見えないほど大量の粗挽き黒胡椒が合わせられていた。
熱々の豚肉がタレに触れた瞬間、ジューッという爆発的な音が鳴り響き、醤油の焦げる甘辛い香りと、黒胡椒の強烈で刺激的な香気がキッチンを完全に支配した。
「……ッ」
ソアの喉が大きく鳴った。逃亡生活の中、まともな食事など摂っていなかった彼女の胃袋が、その圧倒的なカロリーの匂いに激しく反応し、悲鳴のような音を立てた。
千葉は肉にタレを絡ませながら、別の工程を秒単位の精度で同時に進行させていた。
氷水に晒して細胞を限界まで引き締めた千切りの生キャベツを、水気を完全に切って皿に高く盛る。
小鍋では、昨日の残りだというゴーヤーとスパムのチャンプルーが温め直されていた。豆腐とスパムから出た動物性の旨味がゴーヤーの苦味を包み込み、1日置いたことで味が完全に馴染みきっている。小鉢には、自家製のカブとキュウリの浅漬け。
そして椀には、黄金色の一番出汁に香ばしい麦味噌を溶き入れた、豆もやしの味噌汁が注がれた。
タレの中で粗熱が取れ、余熱で中心まで絶妙に火が通った豚ロースを、千葉は包丁で均等な厚さにスライスしていく。
サクッ、サクッという小気味良い音。断面はうっすらと桜色を残し、透明な肉汁が滲み出ている。それをキャベツの山に寄りかかるように円状に盛り付け、ボウルに残った黒胡椒まみれの醤油ダレを上からたっぷりと回しかけた。
「食べなさい。極度の飢餓状態では、正常な契約行為に支障をきたします」
千葉はソアの前にトレイを置き、黒文字の箸を添えた。
ソアは警戒心を抱きつつも、誘惑に抗いきれず箸を取り、黒胡椒がたっぷりと絡んだ豚肉のスライスを1枚口に運んだ。
「……!」
噛み締めた瞬間、表面のパリッとした食感の直後、豚ロースの暴力的なまでの脂の甘みが口の中に溢れ出した。それを、濃口醤油の鋭い塩気と、脳天を突き抜けるような黒胡椒の辛味が強烈に引き締める。
計算し尽くされた味のコントラスト。脂っこさを感じさせないのは、肉を揚げる際の温度管理が完璧であり、余分な油分が落ちているからだ。
ソアは無意識のうちに、その肉で冷たい生キャベツを巻き込んで頬張っていた。シャキシャキとした食感と、タレの染み込んだキャベツが肉の旨味と混ざり合い、永遠に食べ続けられそうな錯覚に陥る。
合間に食べるチャンプルーは深く優しい味がし、豆もやしの味噌汁が出汁の香りで冷え切った胃の腑の底から温めた。
気がつけば、ソアは無言で一心不乱に箸を動かしていた。大玄グループで「魔女」と恐れられ、他人の精神を弄んできた彼女が、ただの物理的な食欲の前に完全に屈服していた。
数分後、皿は完全に空になっていた。
「……ごちそうさまでした」
ソアは小さく息をつき、箸を置いた。極度の緊張と飢えから解放され、彼女の顔には僅かに血色が戻っていた。
千葉は急須から、琥珀色をした上質な棒茶を二つの湯呑みに注いだ。茎茶特有の、深く香ばしい香りが漂う。
「落ち着きましたね。では、本題に入りましょう」
千葉は自分の湯呑みには口をつけず、ソアを真っ直ぐに見据えた。
「あなたの我が社における役職は、最高人事責任者です。権限として、社内の全従業員の人事評価、配置、および労務管理の全権を委譲します」
ソアは怪訝な顔をした。
「私が、人事……? 冗談でしょ。私の能力を知っていてスカウトしたんじゃないの。私の力は、人の記憶を弄り、恐怖を植え付け、意のままに操ることよ。それを表向きの企業の人事に使えって言うの?」
「表向きではありません。実務として機能させます」
千葉は淡々と答えた。
「現在、我が社にはS級ハンターや規格外の天才が集まりつつあります。彼らの物理的、技術的なリソースは極めて優秀ですが、精神的には不安定であり、社会的なコンプライアンス意識も著しく欠如している。放置すれば、必ず内部から瓦解する」
千葉はタブレットを操作し、ソアの前に置いた。そこには、菅原留美子やマヤ・ワシントンといったアビスのキーパーソンたちの詳細なデータと、彼らが過去に引き起こしたトラブルの履歴が表示されていた。
「あなたの仕事は、彼らの深層心理をモニタリングし、我が社への『エンゲージメント』を適切な数値に維持することです」
「……エンゲージメント?」
「ええ。反逆の芽や不満を事前に察知し、必要であれば微細な記憶操作や感情の誘導を行い、会社に対する忠誠心を最大化させる。暴力や恐怖で支配するのではない。彼ら自身が『自らの意志でこの会社のために働いている』と錯覚するよう、環境を最適化するのです。それがあなたの能力の、最も合理的な運用方法です」
ソアは思わず息を詰めた。
大玄グループのトップは、彼女の力を恐れ、ただの暗殺や脅迫の道具として使い捨てようとした。自分たちに向けられる牙を恐れ、常に鎖で縛り付けていた。だが、目の前の男は違う。彼女の恐るべき能力を、企業の「人事システム」というインフラとして完全に組み込もうとしている。
「……それだけではないでしょう?」
ソアは棒茶の湯呑みを両手で包み込みながら、探るように聞いた。
「ええ。もう一つの業務は、大玄グループの解体です。あなたの脳内に保存されている大玄の裏工作ルート、資金洗浄のネットワーク、政治家への賄賂の記録。それらすべてを、明日中に久保CFOに共有しなさい」
千葉は無表情のまま、大玄の息の根を止めるための指示を下した。
「その上で聞きたい。彼らの内部に食い込む手段はありますか?」
ソアは少しの間沈黙し、自身の能力の射程と、かつて大玄内部に築いていた繋がりを計算した。
「……役員たちの何人かには、過去の交渉の過程で微細な精神操作を施した痕跡が残っているわ。それを利用すれば、彼らの潜在意識に干渉して、互いへの疑心暗鬼を増幅させることは可能よ。内部抗争を誘発させて、組織を内側から腐らせることはできる」
「素晴らしい。では、彼らが我々の提示する買収条件に、喜んでサインする心理状態まで追い込んでください」
ソアは千葉の目をじっと見つめ返した。その瞳には、自分の精神操作を完全に無効化する底知れない知性と、揺るぎない確信があった。
恐怖。そして同時に、生まれて初めて感じる奇妙な安堵感。
自分の力など意に介さないこの男の前でだけは、彼女は「化け物」ではなく、一つの明確な役割を与えられた「人間」でいられる気がした。
「……底知れない人ね」
ソアは微かに口角を上げ、棒茶を一口すすった。茎の香ばしさと微かな甘みが、口の中の脂を綺麗に洗い流していく。
「適正な評価です。期待していますよ、ユン・ソアCHRO」




