第32話 追放された交渉人
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社のCEO室。
防音ガラスの向こうには、眠らない都市のネオンが毒々しい光を放っている。日付が変わっても稼働し続けるサーバー群の低い唸り音の中、ぽふっ、という乾いた破裂音が響いた。
「あっ」
久保真琴が思わず声を漏らす。
彼女の視線の先、毛足の長いペルシャ絨毯の上で、灰白色の毛玉が猛スピードで転がっていた。シベリアンハスキーの仔犬、アッシュだ。
彼は、マヤが気まぐれに作って与えた反発力の高すぎる特製ポリマーボールを追いかけ、短い四肢を全力で回転させていた。ボールが絨毯の端を越え、磨き上げられた黒大理石の床へと弾む。
アッシュもそのままの勢いで大理石の床へ飛び出した。だが、まだ柔らかい肉球のブレーキは、ワックスで鏡のように磨き上げられた床面には全く機能しない。
「アッシュー、止まって!」
真琴の制止も虚しく、アッシュは完全に制御を失ってツーッと滑っていく。シャカシャカと虚しい爪の音を立てて必死に前足をバタつかせ、方向転換を試みるが、その遠心力で身体が横に回転し、背中から滑る体勢になった。
そのままの速度で、分厚いマホガニー製の応接テーブルの太い脚へ一直線。
ゴォンッ。
乾いた、しかし重みのある音が室内に響いた。
後頭部からテーブルの脚に激突したアッシュは、一瞬何が起きたのか理解できない様子で、目を白黒させて完全にフリーズした。数秒の硬直の後、事態と痛みを脳が処理し終えたのか、「キャインッ!」と短い悲鳴を上げて真琴の方へよろよろと駆け寄ってくる。
「もう、だから滑るって言ったのに……」
真琴は慌てて膝をつき、涙目のアッシュを抱き上げた。後頭部を優しく撫でてやると、アッシュは真琴の胸に顔を埋め、クゥンクゥンと情けない声を上げて抗議するように擦り寄る。
連日の激務でささくれ立っていた真琴の心に、致死量のオキシトシンが流れ込んだ。
「大丈夫ですよ、たんこぶにはなってません。よしよし」
仔犬をあやす真琴の背後で、千葉秀俊は画面上の数値を追いながら、淡々とキーボードを叩き続けていた。仔犬の悲鳴にも、真琴の慌てた声にも、彼のタイピングのリズムは1ミリ秒たりとも狂わない。
「久保CFO。癒やしの時間はあと2分で終了です。韓国市場のダミー法人の口座開設、進捗は」
「……完了しています。送金ルートの暗号化も設定済みです」
真琴はため息をつきながらアッシュをそっと床に下ろし、自席へ戻った。
ターゲットは、韓国の巨大財閥『大玄グループ』。国家インフラそのものを独占し、政治すら意のままに操る彼らを内部から崩壊させるための「バックドア」となる人物の特定を、千葉は急がせていた。
その時、CEO室の重厚なドアが音もなく開いた。
黒のタイトなレザージャケットを着込んだ市川ひろみが、片手にタブレットを持ったまま入室してくる。微かに、夜風と潮の匂いを纏っていた。
「見つけたわよ、ボス。ヨーロッパのシンジケートが流したフェイク情報のおかげで、大玄の猟犬たちの目を逸らすのに成功した。ターゲットはすでに密入国ルートで日本に入ってる」
ひろみはタブレットを千葉のデスクに滑らせた。
表示されたのは、横浜港のはずれにある、廃棄された巨大な物流倉庫の図面と、赤外線センサーの反応だった。
「ユン・ソア。大玄グループの裏工作をすべて握るS級の『交渉人』。上層部に背任の濡れ衣を着せられ、粛清リストのトップに載っている女よ。現在、横浜の第9倉庫に潜伏中。ただ、大玄の私兵部隊の別動隊が、すでに網を張って包囲を始めているわ」
「タイムリミットですね」
千葉はキーボードを叩く手を止め、立ち上がった。完璧に仕立てられたネイビーのスリーピースのジャケットを羽織る。
「車を出してください。大玄の回収部隊より先に、彼女の身柄を『買収』する」
★★★★★★★★★★★
深夜の横浜港。
潮の香りと重油の匂いが混ざり合う淀んだ海風が、サビだらけのトタン屋根を不気味に軋ませている。月明かりすら届かない、街の死角。
廃棄された第9倉庫の内部は、異様な光景に包まれていた。
暗闇の中、重武装した大玄グループの私兵部隊の男たちが5人、互いに銃口を向け合い、狂ったように叫び声を上げている。
「お前が裏切り者か! 殺してやる!」
「違う、俺じゃない! 後ろだ、後ろに怪物がいる!」
ダダダダッ! とアサルトライフルの乾いた銃声が響き、閃光が倉庫を照らす。
1人の男が味方の凶弾に倒れ、血だまりを作った。残りの男たちも極度のパニック状態に陥り、見えない『何か』に向かってナイフを振り回し、あるいは壁に頭を打ち付けている。
完全な同士討ち。彼らの脳は、すでに現実を認識していなかった。
その惨状から少し離れたコンテナの陰で、ユン・ソアは荒い息を吐いていた。
透き通るような白い肌には煤と血の汚れがこびりつき、コンサバティブなタイトスカートは無残に裂け、ハイヒールは片方失われている。華奢な身体が小刻みに震えていた。
S級覚醒者とはいえ、彼女の能力は「精神操作」と「幻術」に特化している。直接的な物理戦闘力は皆無に等しい。対象の脳のシナプスに微細な介入を行い、トラウマや恐怖の記憶を強制的に引きずり出して増幅させ、自滅に追い込むことはできても、同時に操れる人数には限界があり、魔力の消耗も激しい。
(……限界ね。次の増援が来たら、もう防げない)
自身の能力の恐ろしさを誰よりも知る大玄の上層部は、彼女を「生け捕り」にする気など最初からない。トカゲの尻尾として、確実にここで殺処分するつもりだ。
「……ッ」
倉庫の入り口付近で、新たな気配がした。複数の足音。
ソアは残された最後の魔力を振り絞り、侵入者の脳波にアクセスしようと意識を集中した。
入り口から姿を現したのは、3人の男女だった。
先頭を歩く、巨大な体躯に完璧なスーツを着た男。その背後に、鋭い眼光を持つ黒服の女と、タブレットを抱えた非覚醒者の女。
ソアの瞳の奥に、妖しい紫色の光が宿る。
まず、後方の2人に干渉した。
「……っ」
真琴が突然、頭を押さえてよろめいた。彼女の視界がぐにゃりと歪み、足元のコンクリートが底なしの泥沼のように沈み込んでいく錯覚に襲われる。胃の腑から、説明のつかない不快感がせり上がってきた。
ひろみも舌打ちをし、自身のこめかみに指を強く押し当てた。彼女の脳裏には、過去に国家から使い捨てにされかけた際の、あの冷たい雨と、仲間たちの血の匂いが鮮烈にフラッシュバックしていた。理屈では幻覚だと分かっていても、身体が勝手に硬直しようとする。
「強烈ね……。網膜じゃなく、脳の扁桃体に直接ノイズを叩き込んでくる」
ひろみは短刀を抜き放ち、痛覚で幻覚を相殺しようと自身の腕を浅く切り裂いた。
だが。
先頭を歩くスーツの男――千葉秀俊だけは、一切の歩調を乱さなかった。
彼には、ソアの放つ精神操作のノイズが全く届いていないかのようだった。銃を乱射して倒れ伏す私兵たちを一瞥すらせず、暗闇の中にうずくまるソアの真正面まで、一定のリズムで革靴の音を響かせて歩み寄る。
ソアは目を見開いた。
魔力を最大まで引き上げ、男の深層心理に「恐怖」を植え付けようとする。過去のトラウマ、死の恐怖、絶望。人間であれば必ず持っているはずの感情のトリガーを引こうとした。
しかし、弾き返されたのではない。
何も無かったのだ。
この男の脳内には、彼女の能力が付け入るべき「感情的な脆弱性」や「非合理な恐怖」という概念そのものが、構造的に欠落していたのだ。あるのは、ただ冷徹な数字と、目的を達成するための極限まで研ぎ澄まされた論理の回路のみ。精神操作というアナログな干渉は、彼の絶対的な合理主義というシステムの前に、エラーとして処理され、完全に無効化されていた。
「……なぜ、効かないの? あなた、魔力もないのに……」
ソアは震える声で呟き、後ずさった。大玄のトップすら恐れさせた自分の力が、ただのスーツの男に全く通じない。
千葉はソアから3メートルほどの距離で立ち止まった。
「非合理な幻想を見る機能が、私には備わっていないだけです」
平坦な声だった。同情も、敵意もない。
千葉は懐のシガーケースに挟んでいた1枚の名刺を抜き取ると、ソアの足元に投げ落とした。
「アビス・マイニングCEO、千葉秀俊。あなたを買い付けに来ました、ユン・ソアさん」
「……私を、買う? 日本のギルドが?」
ソアは警戒を解かず、片方のハイヒールを脱ぎ捨てて素足で立ち上がった。
「大玄グループは、あなたの口を完全に塞ぐために、すでに日本の裏社会に10億円規模の懸賞金をばら撒いています。ここを凌いでも、あなたが安全に眠れる場所は世界中のどこにもない」
千葉は手元のタブレットを操作し、その画面をソアに見せた。
そこには、大玄グループの複雑な資本関係図と、特定のアカウントに紐付けられた莫大な資金洗浄の痕跡が表示されていた。
「私は大玄グループを解体し、彼らが独占するアジアのインフラ市場を我が社の傘下に収めます。そのための『鍵』が、あなたの脳内にある」
「……本気で言っているの?」
ソアは鼻で笑おうとしたが、男の目が全くの冗談を含んでいないことに気づき、表情を引き締めた。
「大玄を敵に回すということは、韓国という国家そのものを敵に回すということよ。私1人を匿ったところで、あなたたちの会社ごと消されるわ。何のメリットがあるの」
「リスクとリターンは計算済みです」
千葉はタブレットをしまった。
「あなたの脳内にある大玄の全機密データ、政財界への裏金のルート、隠し資産の所在。それを差し出すなら、私はあなたに大玄の追手からの絶対的な物理的保護と、法的防壁を約束します。大玄を崩壊させるという、あなたにとっての最大の『復讐』を、我が社の事業として遂行していただく」
ソアは言葉を失った。
彼女はこれまで、恐怖と洗脳で他人を支配し、同時に自分自身も組織からの恐怖によって支配されてきた。
しかし、目の前の男は違う。彼は命の危険が迫るこの暗闇の中で、極めて冷静に『取引』を持ちかけている。感情や情けではなく、互いの利益と数字だけで結ばれる、冷たくも絶対的な契約。
「……私の能力で、あなたの会社の社員を操り、裏切るかもしれないわよ」
最後の強がり。
「構いません」
千葉は即答した。
「それが会社にとって利益をもたらす合理的な判断であるならば、ですが。ただし、契約に反する非合理な裏切りを行えば、私は大玄よりも残酷に、法的かつ経済的にあなたを完全にすり潰す。……選択しなさい。ここでトカゲの尻尾として死ぬか、私の保護下に入り、大玄を崩壊させるための駒になるか」
倉庫の外から、無数の車両が急ブレーキをかける音が聞こえた。大玄の増援部隊が到着したのだ。
ソアは数秒、千葉の氷のような瞳を見つめ返した。
彼女の口元に、初めて微かな笑みが浮かぶ。恐怖で縛る組織よりも、この男の異常なまでの合理性の方が、よほど信用できる。
「……悪くない条件ね。私の価値、高くつくわよ」
ソアが千葉の差し出した手を取った瞬間、倉庫の重い鉄扉が爆薬で吹き飛ばされた。
数十人の武装兵が雪崩れ込んでくる。
「交渉成立です。……ひろみ、久保CFO。ゴミを掃除しなさい」
「了解。溜まった鬱憤、晴らさせてもらうわ」
ひろみが両手の短刀を逆手に構え、暗闇の中へと滑るように消えていった。




