第31話 閉ざされた市場
アビス・マイニング本社、CEO室。
時刻は午前2時を回ろうとしていた。
防音ガラスの向こうに広がる新宿のネオンは、深夜になってもその毒々しい輝きを失っていない。だが、室内を支配しているのは、大型サーバーの微かな排気音と、乾いたタイピングの音だけだった。
久保真琴は、自身のデスクに設置された三枚の大型モニターを睨みつけながら、乾いた両手で頭を抱えていた。
画面には、韓国語から翻訳された膨大な法律文書、複雑怪奇な企業間の資本関係図、そして過去10年分の判例データがひしめき合っている。連日の徹夜作業により、真琴の目の下にはくっきりとクマが刻まれ、コンタクトレンズは限界を超えて乾ききっていた。
「……無理です。いくらシミュレーションを回しても、まともなM&Aの手法ではすべて弾き返されます」
真琴は血走った目で、デスクの向こう側に座る男を見た。
千葉秀俊は、手元のタブレットで別のデータを確認しながら、視線すら上げずに短い返事を返した。
「理由を端的に」
「ターゲットである韓国の『大玄グループ』は、単なる巨大ギルドではありません。建国以来、国家の成長と歩みを共にし、今や国内のエネルギー、通信、金融、そしてダンジョンから産出される魔石の物流インフラを完全に独占している、血族経営の巨大財閥です」
真琴は画面上の複雑に絡み合った資本関係図を指差した。
「関連企業は非上場も含めて200社以上。それらが独占禁止法の網の目を潜り抜けたダミー会社と、何重にも折り重なる循環出資で強固に結びついています。この株式の持ち合いによる防壁は、もはや韓国の国家予算規模の資金力がなければ解きほぐすことすら不可能です。外部からの買収は、物理的かつ法的に完全に塞がれています。しかし、本当に厄介なのはそこではありません」
真琴はキーボードを叩き、別の資料をモニターに表示させた。政界との繋がりを示す相関図だ。
「彼らの顧問リストには、元大統領の側近、元最高裁長官、そして現役の検察トップの親族がズラリと名を連ねています。国家のルールを作る側と裁く側が、完全に大玄の身内で固められているんです。仮に、アメリカのトライデントを沈めた時のように特許の矛盾を突き、国際法廷で我々が勝訴したとしても、無意味です。彼らは自国のシステムを動かし、『国家安全保障上の重大な危機』を大義名分にして、一夜にしてアビス・マイニングの参入を禁じる特例法案を通すでしょう。あるいは、国税庁を動かして我が社の韓国支社に不当な税務調査を連発させ、営業停止に追い込む。法を曲げることすら、彼らにとっては日常の業務フローの一部なんです」
自分が今まで武器にしてきた「法律」や「数字」が、この相手にはまるで通用しない。ルールを重んじる真琴にとって、ルールそのものを私物化している存在との戦いは、理不尽そのものだった。いかに完璧な論理を構築しようと、相手が盤面ごと燃やしてしまえる権力を持っているなら、ゲームは成立しない。
しかし、千葉の顔には微塵の落胆もなかった。
彼はタブレットを置き、氷の入っていないペリエのグラスを口に運んだ。
「法というルールの外側から盤面ごとひっくり返されるなら、我々の勝率はゼロに近い、ということですか」
「……不本意ですが、法務担当としての見解はそうなります」
「落胆する必要はありません、久保CFO。外部からの合理的な攻撃が通じない城壁は、内側から腐らせるのが最もコストの低い解体方法だというだけの話です」
「内側から、ですか?」
「彼らの強固な支配体制は、一族の血を絶対視する前近代的な結束と、逆らう者を精神的・社会的に抹殺する恐怖政治によって維持されている。裏を返せば、恐怖で縛られた組織は、一度求心力が揺らげば、内部から猛烈な猜疑心と粛清の嵐が吹き荒れるということです。壁の亀裂を探す必要はありません。亀裂を生み出す中心核を、我々の手元に引き入れればいい」
千葉はそう言い残すと、完璧に仕立てられたスリーピースのジャケットを羽織った。
「今日はこれで上がります。久保CFOも、適正な睡眠をとるように」
「えっ、社長? この時間にどちらへ……」
真琴の問いには答えず、千葉は足元で丸まって寝ていた灰白色の毛玉――アッシュの頭を一度だけ軽く撫で、静かにドアへ向かった。
★★★★★★★★★★★
東京湾の黒い水面を、一隻の船が滑るように進んでいた。
障子越しに漏れる微かな灯りが、波打つ水面を揺らしている。遠くに見えるレインボーブリッジの光芒も、この船が作り出す閉鎖空間の静寂を乱すことはない。
外観は伝統的な屋形船だが、内部は一般的なそれとは全く異なっていた。
障子や畳といった和の意匠を残しつつも、床は漆黒の琉球畳が敷き詰められ、照明は計算し尽くされた間接照明のみ。中央には樹齢数百年の木曽檜の一枚板で作られたカウンターが鎮座し、その奥では京都から極秘裏に呼び寄せられた老齢の板前が、一切の無駄のない所作で包丁を振るっていた。
船内を包むのは、微かな波の音と、極上の出汁の香りだけ。
外部の喧騒も、誰かの視線も、ここには届かない。
「……驚いたわ。てっきり、また無機質なオフィスのソファでブラックコーヒーを出されるかと思っていたけれど」
カウンター席に腰掛けたクロエ・ヴァン・デル・ベルグは、美しい江戸切子のグラスで冷酒を傾けながら、妖艶に微笑んだ。
彼女は今夜、背中が大きく開いたミッドナイトブルーのイブニングドレスを身に纏っていた。ヨーロッパの社交界でも一際目を引くであろうその透き通るような美貌は、仄暗い和の空間でより一層の輝きを放っている。
千葉は彼女の隣で、ネクタイをわずかに緩め、出された平目の薄造りに箸を伸ばしていた。
煎り酒とすだちが添えられたその一皿は、素材の味を極限まで引き出している。
「EUの規制委員会を内部から操り、アメリカの軍需産業をヨーロッパ市場から完全に締め出した。あなたの緻密なロビー活動が生み出した利益は、数兆円規模に上ります。その『報酬』としてのエスコートに、手抜きをするほど私は非合理的ではありません」
「フフッ。相変わらず、ロマンチックの欠片もない言い回しね」
クロエは悪態をつきながらも、次に出された金目鯛の煮付けを一口食べ、その繊細で奥深い味わいに目を丸くした。濃口醤油と本みりんで照り良く仕上げられ、添えられた針生姜が爽やかな香りを放っている。普段はミシュランの星付きレストランしか足を運ばない彼女だが、この船内で提供される引き算の美学には、純粋な感嘆を漏らしていた。
完璧な空間、完璧な食事、そして外部から完全に遮断された密室。情報ブローカーである彼女にとって、これ以上なく安心できる、そして胸が高鳴る舞台設定だった。
「アメリカ政府は、今頃ペンタゴンの地下で怒り狂っているでしょうね。自分たちが売りつけるはずだった高額で非効率な魔力炉の代わりに、ヨーロッパ全土がアビス・マイニングの規格に塗り替えられていくのだから。各国のエネルギー依存度も、徐々にあなたたちの手中に収まりつつある」
クロエはグラスの縁を指でなぞりながら、千葉の横顔を見つめた。
非覚醒者でありながら、世界を裏側から支配しつつある男。彼から放たれる冷たく暴力的なまでの知性が、クロエの胸の奥を焦がすような熱で満たしていく。
「で? 次はどこを食い荒らすつもり? EUのインフラを掌握した今、あなたの目はすでに次の獲物を捉えているはずよ」
千葉は箸を置き、静かにお茶を飲んだ。
「アジアです」
短く、一切の迷いがない回答。
「手始めに、韓国の大玄グループを解体し、彼らが独占している第1級ゲート群と物流網を我が社に吸収します」
クロエの碧眼が、微かに見開かれた。
ヨーロッパを主戦場とする情報ブローカーであっても、大玄グループの異質さは熟知している。
「本気? あそこはアメリカの企業以上に厄介よ。法律も市場も、すべてが彼らの一族のために最適化された完全な『鎖国』状態。外資が入り込む隙なんて、針の穴ほどもないわ。まともにぶつかれば、国家ぐるみの不買運動が組織され、御用メディアがネガティブキャンペーンを一斉に展開する。それでも持ちこたえれば、最後は『国家安全保障』を盾にした特例法案で弾き出されるのがオチよ。盤面をひっくり返すことすら厭わない連中よ」
「まともにぶつかる気などありません」
千葉の氷のような声に、クロエは背筋がゾクッとするのを感じた。
「法が彼らの味方なら、法そのものを機能不全に陥らせればいい。……ヴァン・デル・ベルグ嬢。あなたは最近、大玄グループの内部で起きた『人事異動』について、何か耳にしていませんか」
クロエは少しの間沈黙し、自身の脳内にある膨大な情報のデータベースを検索した。
やがて、彼女の表情が引き締まり、赤い唇が歪む。
「……なるほど。そういうこと」
クロエは声を落とし、身を乗り出した。
「ここ数週間、ヨーロッパの裏社会でも噂になっていたわ。大玄グループの裏の仕事を一手に引き受けていた、最高ランクの『交渉人』が姿を消したって」
「ええ」
「精神干渉系のS級覚醒者。対象の記憶や感情を操作し、どんな不利な契約でも結ばせる魔女。大玄のトップが最も信頼し、同時に最も恐れていた猟犬よ。……噂では、彼女の力が強大になりすぎたことを恐れた上層部が、彼女が『大玄のトップの思考すらも操作しようとした』という架空の背任行為をでっち上げて粛清しようとしたらしいわね。恐怖で縛る組織は、自分たちよりも強力な力を持つ手駒を最も恐れるものよ。皮肉な話ね」
「その通りです」
千葉は冷酒のグラスをテーブルに置き、静かな口調で告げた。
「彼女は大玄のあらゆる裏工作に関与し、政治家への裏金のルート、隠し資産の所在、さらには一族内の泥沼の愛憎劇やスキャンダルまで、大玄グループを内側から爆破するための起爆コードをすべて脳内に記憶している。いわば大玄グループそのものの『バックアップデータ』です。彼女は今、祖国から追われ、口座を凍結され、大玄が放った暗殺者に怯えながら極東のどこかを逃げ回っています」
「まさか……」
クロエは確信に満ちた目で千葉を見た。
「すでに、彼女の首輪を掴んでいるの?」
「現在、市川ひろみを現地に向かわせています」
千葉は感情のない目で、窓の外の黒い海面を見つめた。
「彼女は今、極度の絶望と恐怖の中にいる。底知れぬ権力に追われ、息を潜めて生きるしかない状況下。そこへ、大玄を跡形もなく粉砕できるだけの『圧倒的な暴力』と『法的な保護』を提示すれば、彼女は喜んで私の手駒となるでしょう」
血も涙もない、完璧な計算。
絶望の淵にある人間に手を差し伸べるのは、慈悲ではない。最も安いコストで、最も強力な忠誠心を買い叩くための投資行動だ。
「……本当に、恐ろしい男」
クロエはため息をつきながら、グラスの冷酒を一気に飲み干した。
恐怖と、それ以上の抗いがたい魅力。この男は、世界中のあらゆる権力者をチェスの駒としか見ていない。そして自分自身も、彼の盤上の強力な駒の一つなのだと、クロエは理解していた。だが、不思議と不快感はなかった。むしろ、彼が描く冷酷で美しい盤面の傍に立ち続けたいとすら思う。
「いいわ。大玄グループを内側から崩壊させるための情報操作、及びヨーロッパからの資本引き揚げの圧迫。私の方でも手回しをしておく。……もちろん、適正な『報酬』は後で請求させてもらうわよ」
「ええ。あなたが望むリターンは保証します」
千葉が静かに頷いたその時、彼の内ポケットのスマートフォンが短く震えた。
暗号化された通信アプリからの通知。差出人は市川ひろみ。
『対象の潜伏先を特定したわ。複数の偽造パスポートと現金を抱えて、仁川の場末のモーテルに隠れてる。大玄の放った暗殺部隊の動きも確認した。これより監視に移行する。指示を待つ』
短いテキストメッセージを読み、千葉はスマートフォンの画面を伏せた。
「チェックメイトの準備が整ったようですね。さて、残りの食事を楽しみましょう」
千葉は何事もなかったかのように、再び箸を手に取った。




