第30話 世界のインフラへ
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社、最上階のCEO室。
防音ガラスの向こう側では、眠らない都市のネオンが冷たい光を放っている。日付はとうに変わり、フロアを支配するべきは静寂と電子機器の稼働音だけのはずだった。
しかし、その静寂は松尾伸子の甲高い笑い声によってあっさりと破られていた。
「見てくださいよ真琴さん! これ、絶対バズりますって!」
伸子がスマートフォンを片手に大はしゃぎしている視線の先。室内の中心に敷かれた最高級のペルシャ絨毯の上で、灰白色の毛玉が不満げに喉を鳴らしていた。
アビス・マイニングの広報部長に就任したシベリアンハスキーの仔犬、アッシュである。しかし、今日の彼はいつもの無邪気な様子とは少し違った。その首回りには、黄金色のフサフサとした人工毛がぐるりと巻き付けられていた。ネット通販でよく見かける、犬用のライオンのたてがみコスプレグッズだ。
アッシュは自身の首周りを覆う異物に戸惑い、短い前足でたてがみをペシペシと叩いている。だが、当然ながら自力で外れる気配はない。「クゥン」と情けない声を上げ、助けを求めるように周囲をウロウロと歩き回った。
「……っ!」
少し離れたデスクで、三台のモニターを前にキーボードを叩き続けていた久保真琴は、その姿を目にした瞬間、ぴたりと呼吸を止めた。
ここ数日間、彼女はアメリカの巨大軍需ギルド『トライデント・アームズ』の買収に伴う天文学的な量の契約書類と格闘していた。極限の緊張と徹夜の連続で、彼女の脳は完全に限界を迎えている。そこに投下された、百獣の王には程遠い致死量の愛らしさは、真琴が必死に維持していた理性の防壁を容易く決壊させた。
真琴はオフィスチェアから転げ落ちるように立ち上がり、絨毯の上に膝をついた。
「アッシュ……なんてことですか。百獣の王……いえ、破壊神です……」
「でしょでしょ! わざわざ海外のサイトからポチった甲斐がありましたよー」
真琴はたてがみに包まれたアッシュの小さな頭を両手で包み込み、そのまま自分の顔を押し付けた。アッシュは抵抗することを諦めたのか、短い尻尾を振りながら真琴の鼻先をペロペロと舐め返す。張り詰めていた空気が、完全に弛緩していく。
「松尾部長」
その平和な狂乱を、氷のように平坦な声が切り裂いた。
千葉秀俊は、手元のタブレットから一切視線を上げることなく言い放った。彼の着ているネイビーのスリーピースには、深夜であっても一切の乱れがない。
「前回のダンジョン配信から、我が社のアカウントのエンゲージメント率が3パーセント低下しています。その衣装がインプレッションの回復に寄与すると判断するなら、直ちに撮影し、最適なアルゴリズムのタイミングで投下しなさい」
「了解です、社長! ほらアッシュ、こっち向いてー!」
伸子が手慣れた動作でジンバル付きのカメラを構えると、アッシュは真琴の腕の中から抜け出し、人工のたてがみを揺らしながら「ワフッ」と短く吠えた。
千葉は仔犬の鳴き声にも一切の関心を示さず、右側のメインモニターに視線を移した。
画面には、世界地図が表示されている。これまで北米大陸とヨーロッパの大半を赤く染めていたトライデント・アームズの魔力炉インフラ網の点灯が、一つ、また一つと、アビス・マイニングのコーポレートカラーである深い青へと塗り替わっていく最中だった。
「マヤCTO。旧規格からの切り替え状況は」
千葉がインカム越しに問いかけると、数フロア下のラボからマヤ・ワシントンの弾んだ声が返ってきた。
『順調そのものよ、ボス。トライデントの旧型コアへのアクセス権限は、完全にうちが掌握したわ。現在、私が組んだ遠隔パッチを世界中の魔力プラントに一斉送信中。彼らのポンコツなハードウェアを、うちのマスターピース規格で強制的に上書きしてやってる』
『……システムの物理的なハレーションは?』
『誤差の範囲ね。出力が安定するまで数時間のタイムラグはあるけど、インフラが完全に停止して都市がブラックアウトすることはないわ。まあ、古い規格にべったり依存してた連中は、うちのシステムに最適化された新しい設備投資を迫られるだろうけど。ざまあみろって感じね』
千葉はわずかに顎を引き、真琴の方を見た。アッシュの毛並みで極上のオキシトシンを補給した真琴は、すでにアビス・マイニングCFOの冷徹な顔に戻り、自身のデスクのモニターに向かっていた。
「久保CFO。法的なロックは」
「完了しています」
真琴はキーボードを叩き、いくつかの電子署名入りドキュメントを千葉のモニターへ転送した。
「EUのダンジョン規制委員会、および北米の主要15都市との間で、インフラ移行に関する包括協定の締結を確認しました。特許の包括的ライセンス供与と引き換えに、今後20年間、他社規格への移行を実質的に禁じる違約金条項を組み込んでいます。違約金の額は、各国の国家予算の数パーセントに相当します」
真琴は小さく息を呑み、画面に表示された天文学的な数字の羅列を見つめた。自らが構築したスキームでありながら、その実効性の恐ろしさに背筋が粟立つ。
「事実上、彼らは我々のシステムから逃れることは不可能です。逆らえば、国のエネルギーインフラが即座に停止するか、違約金で国家が破産するかの二択になります。……世界の魔力インフラの6割が、たった今、アビス・マイニングの完全な支配下に置かれました」
「残りの4割は?」
「ロシア、中国、および中東の一部が採用している独自規格です。しかし、マヤCTOのマスターピースと比較すると、エネルギー変換効率は30パーセント未満。コスト競争で彼らが自滅し、こちらに擦り寄ってくるのは時間の問題かと」
千葉は表情を変えることなく、淡々と次の一手を口にした。
「彼らが頭を下げてきた時のために、特別ライセンス料の算定に入りなさい。通常価格の3倍から交渉をスタートする」
「……足元を見る気満々ですね。交渉が難航しませんか」
「彼らには選択肢がない。資本主義における適正なコストです」
一切の感情を挟まない、ただの数字としての判断。
世界を根底から作り変えるほどの権力を手にしたというのに、千葉の態度は、歌舞伎町の裏路地で不良債権を回収していた時と何一つ変わっていなかった。
★★★★★★★★★★★
ベルギー、アントワープ。
歴史ある旧市街を見下ろす豪奢なペントハウスで、クロエ・ヴァン・デル・ベルグは、暗号化された通信端末のモニターを見つめていた。
『――ご苦労様でした。あなたの蒔いた毒は、期待通りに機能した』
スピーカーから流れる千葉秀俊の平坦な声。
クロエは、手元のボーンチャイナのティーカップをソーサーに静かに戻した。硬質な磁器の音が、不自然なほど部屋に響く。
「……EU委員会の連中、ようやく自分たちが何にサインしたか理解し始めて、青ざめているわ」
クロエは微かな震えを隠し、強気に微笑んでみせた。
「アメリカの支配から逃れたつもりが、もっと恐ろしい化け物に首輪をつけられたってわけね」
『我々は適正なサービスを提供しているだけです。彼らは安全と効率を手に入れた。対価を払うのは当然のことでしょう』
微塵の悪びれもない千葉の返答に、クロエは短く息を吐いた。
アメリカの軍需産業を特許というルールで無効化し、市場をパニックに陥れ、二束三文で資産を買い叩く。その死骸を再利用し、世界中のインフラを自らの規格で縛り上げる。
暴力や軍隊を一切使わず、ただ法律と資本の論理だけで、この男は世界の覇権を握ってしまったのだ。
『報酬のEU法人株式の5パーセント、および指定口座への特別ボーナスの送金は完了しています。今後も、情報ブローカーとしてのあなたの手腕に期待します。通信終了』
無機質な電子音とともに、回線が切断された。
薄暗い部屋に取り残されたクロエは、ゆっくりと自分の肩を抱いた。
室温は低くないはずなのに、体の芯から震えが止まらない。
ヴァン・デル・ベルグ家という歴史ある血筋を持ちながら、魔石という新時代のエネルギーの前に没落を余儀なくされた。泥水をすするようにして裏社会を這い上がり、政治の暗部で立ち回ってきた彼女にとって、千葉秀俊という存在はあまりにも異次元だった。
国家の威信、巨大な軍事力、歴史ある連帯。
そうした旧態依然とした権力を、彼は契約書というただの紙切れと、電子的な数字の羅列だけで完全に屈服させてみせた。何百万人もの生活を支えるインフラを握りながら、そこに一切の情や大義名分を持ち込まない。ただ「適正なコスト」という冷酷な計算式だけですべてを処理していく。
「……あんな男が、この世界にいるなんて」
恐怖だった。底知れぬ悪魔的な合理性に対する、生物としての本能的な恐怖。
だが、それと同時に。
彼女の透き通るような碧眼の奥に、狂気にも似た熱い炎が灯り始めていた。
自分を、そして世界を、一切の情も挟まずにチェス盤の駒として扱い、完璧に支配する存在。その圧倒的な力の前にひれ伏すことは、彼女にとって奇妙なほどの安堵と、背筋が凍るような快感をもたらしていた。
「地獄の特等席……」
クロエは窓ガラスに映る自分自身の顔を見つめた。その頬は熱を帯び、わずかに紅潮している。
「あなたの用意した特等席で、最後まで見届けさせてもらうわ、ミスター・チバ。あなたがこの世界を、どこまで無慈悲に蹂躙し尽くすのかを」
歪んだ愛情と執着が、彼女の胸の奥で黒く、静かに渦巻いていた。




