第29話 死神の帰還
ニューヨーク時間の午前9時30分。東京は夜の10時30分を迎えていた。
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社、最上階のCEO室。
部屋の照明は落とされ、壁面を埋め尽くす巨大なモニター群が放つ青白い光だけが、磨き上げられた黒大理石の床を冷たく照らしていた。
久保真琴は、自身のデスクに設置された3枚のモニターに張り付くようにして、息を殺していた。彼女の瞳孔は極限まで開き、画面上を滝のように流れ落ちていく数字の羅列を追っている。
右の画面には、ウォール街の市場開場を告げるニュース専門チャンネル。左の画面には、アメリカの巨大軍需ギルド『トライデント・アームズ』のリアルタイム株価チャートが表示されていた。
クロエ・ヴァン・デル・ベルグがヨーロッパの暗部で蒔いた毒は、完璧なタイミングで世界の金融市場に致死量のショックを与えた。
『――現在、ニューヨーク証券取引所はパニック状態に陥っています。トライデント・アームズの株価は開場と同時に歴史的な規模の売り注文が殺到し、すでに2度のサーキットブレーカーが発動しました。売りが売りを呼ぶ連鎖が止まりません!』
アナウンサーのうわずった声が室内に響き渡る。画面越しに見える取引所のフロアでは、トレーダーたちが受話器を握りしめたまま絶望的な顔で頭を抱え、あるいは怒号を上げて走り回っていた。
左の画面に映るチャートの赤い線は、まるで重力に従うように垂直に落下していく。途中でわずかな反発を見せるものの、それすらもアルゴリズムによる自動売買の格好の餌食となり、さらに巨大な売り圧力を呼んで底なし沼へと沈んでいく。
「……前日比マイナス78パーセント。時価総額の約400億ドルが、わずか数十分で市場から蒸発しました」
真琴は、カラカラに乾いた唇を舌で舐め、震える声で報告した。
国防総省という最大の盾を失い、EU市場からも事実上締め出された巨大軍需企業。それに加えて、彼らが自社の特許の根幹を偽り、マヤの技術を不当に流用していた事実が白日下に晒された今、世界中の企業や国家から莫大な損害賠償訴訟を起こされることは確定している。
もはや、トライデント・アームズという企業の箱に価値は1セントたりとも残っていなかった。機関投資家も、個人投資家も、我先にと泥舟から飛び降りていく。
デスクの向こう側。
千葉秀俊は、手元のタブレットから視線を外すことなく、淡々とキーボードを叩いていた。何万もの投資家が悲鳴を上げ、一つの巨大企業が死に絶えようとしているこの瞬間にも、彼の表情には一切の感情がない。
ただ、氷のように冷酷な観察者の目があるだけだった。
「決済完了。事前に仕込んでいたすべてのプットオプションの行使、および空売りの買い戻しを実行しました」
千葉の指がエンターキーを叩き、真琴のモニターの1つに新しいウィンドウがポップアップした。
そこに表示された確定利益の数字を見て、真琴は息を呑み、言葉を失った。
「……34億、ドル。日本円にして、約5000億円のキャッシュ……」
「彼らの資産価値は今、極めて正確に適正化されました。これまで過大評価されていたバグが修正されただけのことです」
千葉はタブレットを置き、ペリエの入ったグラスを手にした。氷がカランと涼しげな音を立てる。
「次の一手を打ちます。トライデントの本体は膨大な訴訟と負債の重みで間もなく破産しますが、彼らがテキサスに保有している第1級魔力炉の製造プラントと、それに関連する物理的インフラは無傷だ。それらを、ダミーファンドを経由して破産管財人から二束三文で買い叩きなさい。予算は先ほど確保した34億ドルの中から、最大で8億ドルまで許容します」
「……っ、了解しました。直ちにスキームを構築し、現地のローファームに指示を出します」
真琴はキーボードに噛み付くように指を走らせた。
恐ろしい男だ。相手の息の根を止めるだけでなく、死骸の中から最も美味い部位だけを、ナイフとフォークを使って完璧なマナーで切り取っていく。
ウォール街の金融資本家たちは今頃、モニターの向こう側で絶望と恐怖に顔を引き攣らせているはずだ。かつて自分たちが罠に嵌め、追放した『氷の死神』が、ダンジョン産業という新たな実体経済を完全に掌握して帰還したことを痛感して。
連邦破産法11条の適用申請が出される前に、債権者集会での優位性を確保するための裏工作を完了させなければならない。真琴の脳は疲労を忘れ、極度の集中状態に入っていた。
「久保CFO。その処理が終わったら、今日の業務は終了とします」
数十分後。不意に、千葉の平坦な声が頭上から降ってきた。
真琴が顔を上げると、千葉はすでにスーツのジャケットを羽織り、カフスボタンの位置を直しているところだった。
「明日の19時に、ハイヤーを回します。時間を空けておきなさい」
「え、19時……? 明日は、EU規制委員会とのライセンス契約の草案作成があるはずですが」
「それは明後日に回します。ドレスコードはスマートエレガンス。では」
千葉はそれだけ言い残し、足音もなくCEO室を後にした。
残された真琴は、モニターの光に照らされながらポカンと口を開けていた。足元で、いつの間にか入り込んでいたハスキーの仔犬、アッシュが「クゥン」と鳴きながら真琴のストッキングの足首にすりすりと頭を擦り付けた。
「……また、徹夜で海外のデューデリジェンスに連れ回されるんでしょうか。それとも、極秘の会食の議事録係?」
真琴がアッシュの頭を撫でながら呟くと、ソファの暗がりから、市川ひろみが呆れたようなため息をついて立ち上がった。
「あんた、本当にバカね。それとも極度のワーカーホリックで脳が麻痺してるの? あのボスの言い回しで気づかないなんて」
ひろみは手元のバーボンのグラスを揺らし、残った氷を溶かすように回した。
「デートの誘いよ。優秀な猟犬への、給油ってやつ。少しは着飾って行きなさいな」
★★★★★★★★★★★
翌日、19時30分。
丸の内の高層ビル、その最上階に位置する完全会員制のフレンチレストラン。
一般の予約は数年待ち、政財界のトップクラスのみが利用を許されるその空間の、最も奥まった個室に2人はいた。
分厚い防音扉に守られた室内には、行き交うギャルソンの微かな足音と、食器が触れ合う静かな音だけが落ちている。
真琴は、普段の少し着崩れたパンツスーツではなく、深いネイビーのシルクワンピースに身を包んでいた。マヤが「私のクローゼットから貸してあげる!」とネオンカラーのストリートウェアを持ち出してきた時は全力で拒否したが、結局、休日にひろみに引きずり回されて買わされたものだ。
慣れないヒールの高さと、静まり返った個室の重厚な空気に、真琴は少しだけ肩を縮こまらせていた。
対面の席に座る千葉は、いつもと寸分違わぬ完璧なスリーピーススーツ姿だった。彼の存在感は、この豪奢な空間にすら一切呑まれていない。
「……あの、社長。本当に、私で良かったんですか?」
真琴は、目の前に運ばれてきた前菜――オマール海老とキャビアをあしらったコンソメのジュレ――を前に、たまらず口を開いた。
「どういう意味ですか」
千葉は前菜に手をつけようとせず、静かに真琴の言葉を待った。
「ヨーロッパでのロビー活動を成功させたのはクロエさんですし、トライデントの特許の矛盾を暴いたのはマヤCTOです。現場で物理的な脅威を排除しているのは、ひろみさんや留美子ちゃん……。私はただ、社長の指示を書類にしているだけで」
「書類にしているだけ、ですか」
千葉はナイフを置き、冷徹な目で真琴を見据えた。
「トライデントの資産買収スキーム。あなたは昨夜、私の指示からわずか45分で完璧な法的枠組みを構築し、アメリカのダミー法人経由で買収のファーストコンタクトを完了させました」
千葉の言葉に、真琴は目を丸くした。
「国際法、アメリカ連邦破産法、そしてダンジョン関連の特殊な条項。それらすべてをリアルタイムで統合し、相手の弁護士が介入する隙を1ミリも与えない速度で契約をロックする。あれは、ただの書類仕事ではありません。私の描く戦略を、現実の物理的な力に変換するための最も重要な基盤です」
千葉は、再びナイフを手に取り、ジュレの層を崩さないように正確に切り分けて口に運んだ。
「クロエの政治力も、マヤの技術も、ひろみたちの武力も、あなたが構築する法的かつ財務的な防壁がなければ、ただの無法な暴力として社会から排除されます。君の処理速度と正確性が、アビス・マイニングの心臓だ」
平坦で、一切の装飾もない事実の提示。
甘い言葉など一つもない。だが、真琴の胸の奥底に、これまでに味わったことのない熱いものがじんわりと広がっていった。
大手法律事務所で「理想ばかり高い使えない新人」と干されかけていた自分を、この男は最初から正確に値踏みし、最も過酷で、最も価値のある場所に立たせ続けている。
「……社長にそう言っていただけると、連日の徹夜も少しは報われます」
真琴は小さく息を吐き、自然な笑みを浮かべてコンソメのジュレを口に運んだ。
海老の濃厚な旨みとキャビアの塩気が、疲労した脳の細胞一つ一つに染み渡っていく。
「美味しい……。さすがに、社長の自作の料理に負けないくらい美味しいですね」
「当然です。この店のシェフの技術と食材の調達ルートは、私の要求する基準を満たしていますからね。投資する価値のある時間だ」
千葉はグラスの赤ワインを静かに味わい、少しだけ視線を落とした。
「アメリカの軍需産業を解体し、EUのインフラ規格を握った。国内の基盤もすでに盤石です。しかし、グローバルな覇権を握る上で、まだ一つ、不快なノイズが残っています」
真琴はフォークを置き、居住まいを正した。
デートの席であろうと、この男の頭の中にあるのは常に次なる盤面の支配だ。
「……アジア市場、ですね」
「ええ。韓国の巨大財閥系ギルド。彼らはダンジョン資源を独占し、血族主義と暴力で市場を歪めている。私の最も嫌う、非合理なバグです」
千葉の瞳に、冷たい刃のような光が宿る。
「彼らは血縁とコネクションだけで巨額の富を囲い込み、外部からの適正な競争を物理的に排除している。自由市場の原則に反するその構造は、我々にとって明確な障壁となります。彼らの資産をすべて適正な形に再分配する。……忙しくなりますよ、久保CFO」
「望むところです、社長」
真琴は、残りの赤ワインを喉に流し込んだ。
目の前の男は、悪魔のように冷酷で、一切の情を持たない怪物だ。だが、彼が法と数字で切り開くその道は、誰よりも合理的で、圧倒的な説得力を持っていた。
「私の残業代、高くつきますからね」
「適正価格で買い取りましょう」
静寂の個室で、2人の間に密やかな共犯関係のグラスが交わされた。




