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非覚醒の天才金融屋は、法と金でダンジョン産業を蹂躙する  作者: 伊達ジン


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第28話 貴族のロビー活動

 ブリュッセル、サン・カトリーヌ広場を見下ろす歴史ある会員制クラブ。


 一般の人間が決して足を踏み入れることのない最上階のVIPルームは、極上のハバナ産シガーの煙と、胃の腑を直接締め付けるような重圧で満たされていた。

 外の広場では穏やかな週末の午後を楽しむ市民の喧騒が広がっているはずだが、分厚い防音ガラスとベルベットのカーテンに隔絶されたこの部屋には一切届かない。


「……信じられん。本当にアメリカの特許が無効化されただと……?」


 EUダンジョン規制委員会の委員長であるルブランは、テーブルに放り出された数枚の紙束から目を離せないまま、乾いた声で呟いた。彼の額には大粒の脂汗が浮いている。


 紙束は、数日前にスイスのジュネーヴで下された世界知的所有権機関の裁定書の写しだった。


 クロエ・ヴァン・デル・ベルグは、アンティークのベルベットチェアに深く腰掛けたまま、滑らかな手つきでボーンチャイナのティーカップを置いた。透き通るような碧眼には、目の前の権力者たちの狼狽を値踏みする冷徹な光が宿っている。


「ご覧の通りです。アメリカの特許は完全に無効化され、我が社——アビス・マイニングの正当な権利が国際法廷で全面的に認められました」


 クロエの静かな声が、重苦しい室内に響く。


 エネルギー政策担当のシュナイダー委員が、苛立ち紛れに葉巻を灰皿に叩きつけるように押し付けた。


「法的にはそうかもしれん。だが、アメリカの軍事インフラも、我々ヨーロッパの魔力炉も、すべてそのアメリカの規格で動いているんだぞ! 彼らが素直に敗北を認めるとは到底思えん。最悪の場合、軍事的・経済的な報復措置に出るはずだ!」

「報復、ですか」


 クロエはふっと口角を上げ、氷のように冷たい微笑を浮かべた。


「シュナイダー委員。アメリカのインフラがその規格で動いているということは、つまり『彼らが兵器や魔力炉を稼働させるたびに、我が社に対する特許侵害の賠償額が天文学的に積み上がっていく』ということを意味します。彼らは今、自分たちの首を絞める縄を毎日自ら編み続けている状態なのです。身動きが取れないのは、我々ではなくアメリカの方です」


 ルブランとシュナイダーが息を呑む。

 アメリカという巨大な後ろ盾が、一瞬にして底なしの負債を抱えた泥船に変わったという事実。


 クロエはゆっくりと身を乗り出し、静かな、しかし有無を言わせぬトーンで言葉を紡いだ。


「問題は、あなた方がどう動くかです。このままアメリカの沈みゆく泥船に残り、彼らと共にアビス・マイニングから巨額の賠償請求を受けるか。それとも……」


 クロエは手元から別のファイルを取り出し、テーブルの中央へ滑らせた。上質な紙に印字されているのは、複雑な移行スケジュールと契約書式。


「我が社が提供する新たな魔力炉規格『アビス・コア』の全面導入を即座に決定するか。今、この場で移行のサインをいただけるなら、初期導入ライセンス料の40パーセントを特別に免除すると、千葉CEOは約束しています」

「……我々に、アメリカを裏切れと言うのか。長年の安全保障の枠組みを根底から覆す決定だぞ。そんなことが……」


 ルブランの震える声に、クロエは冷酷な事実だけを突きつけた。


「裏切るのではありません。不法な技術に依存するリスクを排除し、ヨーロッパの自立を取り戻すのです。彼らがこれまで我々に押し付けてきた、不当に高額なポーション価格と、ブラックボックス化された技術ライセンスの理不尽な更新料を忘れたとは言わせませんよ。……それとも、あなた方は自国のインフラの生殺与奪の権を、すでに死に体となったアメリカの軍需産業に預け続けるおつもりですか?」


 沈黙が降りた。

 シガーの煙が揺らぐ中、二人の委員の顔に浮かんでいた恐怖が、やがて冷たい計算の光へと変わっていくのを、クロエは見逃さなかった。


 彼らもまた、政治という化かし合いの舞台で生き残ってきた怪物たちだ。沈む船から逃げ出す判断の速さは、誰よりも優れている。ましてや、長年アメリカに吸い上げられてきた莫大な国益を取り戻せる絶好の機会となれば、答えは一つしかなかった。


「……移行スケジュールの詳細なロードマップを見せてもらえるかな、ヴァン・デル・ベルグ嬢」


 ルブランがファイルを手に取った瞬間、クロエは心の中で勝利を確信した。


(完璧ね、ミスター・チバ。あなたがジュネーヴで放った爆弾の熱だけで、彼らは自ら我々の檻の中に入ってきたわ)


 旧貴族としての矜持と、アビス・マイニングのEU独占販売権。

 彼女が手にする莫大な富と権力は、今まさに確固たるものになろうとしていた。


★★★★★★★★★★★


 その数日後。東京・銀座の裏通り。


 休日の午後ということもあり、表通りの歩行者天国は多くの買い物客で溢れかえっていたが、一歩路地に入ったその場所は、異様なほどの静寂に包まれていた。


「おっそいぞボス! デートなのに遅刻なんて減点だかんな!」


 菅原留美子は、待ち合わせ場所に指定された古びた雑居ビルの前で、不満げにスニーカーのつま先で地面を蹴っていた。


 今日の彼女は、いつもの戦闘用のタクティカルウェアではない。久保真琴がわざわざ休日に付き合って見立ててくれたという、タイトな黒のレザージャケットに、足のラインを強調するスキニーパンツ。一見すれば洗練されたモデルのような装いだが、背中には相変わらず包帯で厳重にぐるぐる巻きにされた身の丈ほどもある大剣『ニーズヘッグ』が鎮座しており、真琴のコーディネートの努力を完全に無に帰すほど周囲の空気を著しく歪めていた。通りかかるごくわずかな人々も、本能的な恐怖を感じて目を逸らし、早足で去っていく。


 千葉秀俊は、一切の乱れもないネイビーのスリーピーススーツ姿で、手首のヴァシュロン・コンスタンタンに目を落とした。


「予定時刻の3分前です。それと、これはデートではありません。我が社の物理的資産に対する、重要な保守点検および機能拡張のプロセスです」

「はいはい、わかってるって! 照れ隠しだろ?」


 留美子は全く聞いていない様子で、ニカッと笑って千葉の背中をバンバンと叩いた。千葉はわずかに眉を動かしただけで、雑居ビルの重厚な鉄扉を開けた。


 薄暗い階段を地下深くへと降りていくと、そこには厳重な魔力ロックが施された重い鋼鉄の扉があった。

 千葉がスマートフォンの端末をかざすと、重低音と共にロックが解除され、扉が左右に開く。


 内部は、灼熱の熱気と金属を打つ甲高い音が支配する広大な工房だった。

 壁には無数の武器や防具が掛けられ、奥の巨大な魔力炉の前では、筋骨隆々の老人がハンマーを振るっていた。飛び散る火花が、老人の顔に刻まれた深いシワを照らし出している。


「マジか……! ここ、S級ハンターでも紹介がないと絶対に入れないって噂の『黒曜鉄工所』じゃん!」


 留美子の目が、子供のようにおもちゃ箱を見つけたように輝く。


 老人はハンマーを置き、鋭い眼光で千葉と留美子を睨みつけた。


「冷やかしなら帰れ。ここは本物の命のやり取りをする奴の武器しか打たん」

「アビス・マイニングの千葉です。先日お送りした仕様書の件で伺いました」


 千葉は懐からタブレットを取り出し、空中にホログラムの設計図を投影した。

 それは、留美子の『ニーズヘッグ』の構造に、マヤ・ワシントンが解析した古代アーティファクトの魔力伝導回路を組み込んだ、常軌を逸した設計図だった。


 老人の顔色が変わる。


「……なんだこの狂った回路設計は。刀身の金属疲労を完全に無視して、限界の3倍以上の魔力を強制的に刃に集中させる気か? こんなもん、下手なハンターが使えば一振りで自滅するぞ。俺の打った武器で使い手が死ぬのは御免だ」

「だからこそ、あなたに依頼したのです。この過剰な負荷に耐えうる冶金技術と、それを振り回す彼女の筋力があれば、理論上はA級ゲートのボスモンスターの装甲すら一撃で粉砕できます」


 千葉は淡々と事実だけを口にした。


 老人は留美子を見やり、その背中に背負われた大剣の異様な質量と、彼女の身体から無意識に漏れ出している暴力的な魔力圧を察知し、深く息を吐いた。


「……なるほどな。乗り手は本物の化け物ってわけだ」


 老人は腕を組み、千葉を睨み返した。


「だが、この特殊な合金の精製と魔力回路の定着には、最高ランクのダンジョンコアが3つ必要になる。手間賃も含めて、30億だ。それ以下では絶対にやらん」


 留美子が「さ、さんじゅうおく!?」と素っ頓狂な声を上げる。彼女が生涯稼いでも到底届かない、そして彼女がかつて背負っていた借金の10倍近い金額だ。


 しかし、千葉は顔色一つ変えなかった。


「構いません」


 千葉はタブレットの画面を数回タップした。


「たった今、指定の口座に30億円の着金処理を行いました。ただし、納期は10日。1日遅れるごとに、違約金として総額の5パーセントを請求します。契約成立ですね」

「……はっ。ウォール街の死神ってのは、随分と気前がいいらしいな。10日で最高の凶器に仕上げてやるよ」


 老人が不敵に笑い、タブレットに電子サインを書き込んだ。


★★★★★★★★★★★


 工房を出た後、留美子は興奮冷めやらぬ様子で千葉の周りをウロウロと歩き回っていた。


「おいおいボス! マジで30億も出してくれたのかよ! あたし、一生アンタの盾になるぜ!」

「勘違いしないでください。あなたは盾ではなく、私が必要な時に相手の物理的な障害を排除するための矛です。刃こぼれした矛では、私のビジネススケジュールに致命的な遅れが生じる。これは単なる必要経費に過ぎません」


 千葉は歩調を緩めることなく、あらかじめ予約してあった銀座の超高級焼肉店へと向かった。


 完全個室の静かな空間で、最高級の松阪牛の特選部位が次々と網の上に乗せられていく。

 極厚のシャトーブリアン、美しいサシの入った特上カルビ。


 留美子は、もはや箸を使うことすらもどかしいという様子で、焼き上がった端から凄まじい速度で肉を胃袋へと流し込んでいた。


「うめえ! やっぱボスの金で食う肉は世界一だな! これで次の仕事もバッチリだぜ!」


 千葉は自分の分の肉を的確な焼き加減で仕上げ、岩塩をわずかに振って口に運んだ。脂の甘みと赤身の旨味が完璧なバランスで溶け合う。彼もまた、良質なタンパク質とカロリーの摂取をビジネスに必要なタスクとして正確にこなしている。


「ええ、その意気で頼みます」


 千葉は静かに留美子を見据えた。


「来月、我々はEU市場へ本格参入します。特許の網で合法的に彼らのインフラを縛り上げますが、利権を奪われる現地の反対派ギルドやシンジケートが、確実に実力行使に出てくるでしょう。確率にして87パーセント」


 千葉は静かに告げた。


「新しい剣の試し斬りには、ちょうどいいはずです。ヨーロッパの裏社会を、物理的に整地してください」

「おう! 任せとけ!」


 留美子は口の周りにタレをつけたまま獰猛に笑うと、網の上で完璧な焼き色に仕上がった巨大なサーロインへ無造作にトングを伸ばした。


 ジュッと脂が弾ける音と、凄まじい速度で肉が胃の腑に収まっていく咀嚼音が個室に響く。千葉はその光景を静かに見つめながら、手元のタブレットに表示されたヨーロッパ大陸のインフラ・マップへと、氷のように冷たい視線を落とした。

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