第26話 見えない刺客
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社の最上階。
分厚い防弾・防音ガラスで外部から完全に隔絶されたCEO室には、ぽふっ、ぽふっ、という間抜けな音が響き続けていた。
最高級のペルシャ絨毯の上に、マヤ・ワシントンが息抜きに3Dプリンターで出力したという、色とりどりの高反発ポリマー製のボールが、およそ50個ほどばら撒かれている。
そのボールの海の中で、冬毛へと生え変わり暴力的なまでのモフモフ感を手に入れたシベリアンハスキーの仔犬、アッシュが狂喜乱舞していた。
短い前足を懸命に伸ばして青いボールをペシッと弾き、それを追いかけて猛然とダッシュする。しかし、高級絨毯の上に散らばった別の赤いボールに自ら足を滑らせ、短い四肢を空中でばたつかせながらゴロゴロと無様に横転した。一瞬何が起きたのか分からないといった様子で目を白黒させていたが、すぐに立ち上がって「ワフッ!」と短く気合を入れると、今度は部屋の隅に積まれた黄色いボールの山に向かって果敢にダイブを敢行し、見事にその身を埋もれさせる。
ボールの隙間からピンと立ち切っていない三角の耳だけを覗かせ、鼻先に当たったボールを「キュルル」と心地よさそうに喉を鳴らしながらガシガシと噛み続けている。
「……あの、社長。いくら防音ガラスが完璧で、この部屋が平穏そのものだとしても、今まさに下の階で致死量の弾丸が飛び交っているはずなんですが」
デスクの横でメインモニターの監視カメラ映像を凝視していた久保真琴が、胃のあたりを押さえながら振り返った。
千葉秀俊は、足元に転がってきた緑色のボールを拾い上げ、アッシュの鼻先に向かって正確に軽く投げ返してやりながら、平坦な声で答えた。
「問題ありません。エレベーターシャフトと非常階段の物理的封鎖は完了しています。彼らがこの階に到達する確率は、計算上0パーセントです」
「そういう問題じゃなくてですね……」
真琴の視線の先、モニターに映し出されたBブロックの暗視カメラ映像には、完全武装した10数名の男たちが音もなく廊下を進行する様子が映っていた。
真っ黒なタクティカルスーツに身を包み、最新鋭の魔力コーティング仕様のアサルトライフルを構えた一団。民間軍事会社を隠れ蓑にした、アメリカの非公式な特殊部隊だ。
彼らはアビスのセキュリティシステムを物理的・電子的に突破し、無駄のない完璧なフォーメーションで侵入を果たしていた。標的は、この企業の心臓部である千葉秀俊の確保、あるいは抹殺と、マヤ・ワシントンのラボの破壊である。
「光学迷彩の反応、消えました。第3サーバー室周辺の熱源センサーも沈黙。彼ら、うちの内部構造を完全に把握しています」
真琴の報告に、千葉は手元のタブレットへ視線を落とした。
「迎撃の許可はすでに出しています。久保CFOは、事後の清掃業者の手配と、法的な『遺失物返還』の書類作成の準備を」
「……了解しました」
真琴がキーボードに指を置いた直後。
モニターの片隅、第3サーバー室前の廊下を映していた映像で、男たちのフォーメーションの最後尾にいた1人が、不自然に画面から「消えた」。
★★★★★★★★★★★
暗闇に沈んだサーバー室の廊下。
アルファチームの最後尾を警戒していた男は、声を発する間すら与えられなかった。
男が自身の背後にわずかな空気の揺らぎを感じた瞬間、真上の配管スペースの死角から音もなく降下してきた黒い人影が、男の口を厚いタクティカルグローブ越しに完全に塞ぎ込んだ。それと同時に、首筋のわずかな隙間に冷たい刃が滑り込み、頸動脈を正確に切り裂く。
男の悲鳴はひろみの手のひらの奥でくぐもった摩擦音に変わり、動脈から噴出した大量の血液は彼女が纏う黒いスーツに吸い込まれていく。ひろみは痙攣する男の巨体を支えながら静かに床へ横たえ、一切の音を立てずに次の獲物へと視線を向けた。
「……ブラボー6、応答しろ」
前方を歩いていた分隊長が、インカムに微かな異変を感じて短く囁く。
応答はない。
「後方確認」
分隊長がハンドサインを出し、残る3人が一斉に背後を振り返り、サプレッサー付きの銃口を向けた。暗視ゴーグルの視界には、緑色に染まった無人の廊下があるだけだ。
部下が1人、完全に煙のように消え失せている。
「熱源反応なし。迷彩か?」
「右の壁面だ!」
1人が配電盤の影に銃口を向けた瞬間、そこに潜んでいた市川ひろみが実体化した。
タイトな黒のパンツスーツに、両手には鈍く光るカランビットナイフ。
「撃て!」
くぐもった発砲音が連続して廊下に響く。
しかし、ひろみの体は銃弾が到達するより早く、極限まで姿勢を低くして床を滑るように前進した。弾丸は空しく彼女の頭上の空間を切り裂くだけだ。
壁際の死角を利用して一番近い男の懐に飛び込んだひろみは、男の膝裏をナイフの峰で強打し、体勢を崩したところを腕の動脈へ刃を滑らせた。血飛沫が上がる前に、男の体を盾にして残りの2人へ肉薄する。
盾にされた男ごと撃ち抜こうとした分隊長の指がトリガーを引く直前、ひろみは男の肩を蹴って跳躍した。
空中で反転しながら、手首のスナップだけで左手のナイフを投擲する。
銀色の弧を描いた刃は、分隊長の暗視ゴーグルのレンズを貫通し、眼球から脳髄へと深く突き刺さった。
残った最後の1人が悲鳴に近い唸り声を上げてフルオートで銃を乱射するが、ひろみは着地の勢いを殺さず床を滑り、男の股下を抜けながらアキレス腱を正確に切断した。
前のめりに倒れ込んだ男の首筋へ、拾い上げたもう1本のナイフを突き立てる。
わずか10数秒の出来事だった。
ひろみは靴底についた血を男のタクティカルスーツで拭い、インカムのスイッチを入れた。
「アルファチーム、処理完了。残る別働隊はそっちに行ったわよ、留美子」
『りょーかい。こっちも客が来たところだ』
インカム越しに聞こえてきたのは、首の骨をゴキリ、ゴキリと鈍く鳴らす音だった。
★★★★★★★★★★★
本社ビルの広大な吹き抜け構造を持つロビーラウンジ。
重武装したブラボーチームの8名が、扇形に展開しながら中央のエレベーターホールへとにじり寄っていた。彼らはアルファチームの通信途絶をすでに把握しており、警戒度は最高潮に達している。
彼らの視線の先、大理石のカウンターに腰掛け、スマートフォンで動画を見ながら欠伸をしている少女がいた。
菅原留美子だ。
「止まれ! 手を上げろ!」
ブラボーチームのリーダーが、魔力コーティングされた徹甲弾を装填した銃口を突きつけて怒鳴る。相手が小柄な少女であろうと、この階層にいる時点で異常だ。
留美子はスマートフォンをポケットに突っ込み、面倒くさそうに首の骨をもう一度鳴らした。
「遅えよ。アタシの夜食の時間、過ぎてんだけど」
「撃て!」
リーダーの判断は早かった。容赦のない一斉射撃が留美子を襲う。厚さ数10センチのコンクリートすら貫通する弾幕。
だが、留美子はカウンターの裏に立てかけてあった自身の背丈ほどもある大剣『ニーズヘッグ』を無造作に蹴り上げた。
ガガガガガッ!!
大剣の分厚い刀身が盾となり、徹甲弾をすべて弾き返す。火花が飛び散り、鼓膜を破るような金属音がロビーに反響した。
「……はっ?」
撃ち込んだ男たちが硬直する。衝撃を殺すでもなく、少女は片手で大剣を支えたまま、1歩も後退していなかったのだ。
物理法則を無視した筋力と質量。
「お返しだ、オラァ!」
留美子は獰猛な笑みを浮かべ、大剣を両手で握り直すと、床の大理石を粉砕しながら男たちの懐へ一直線に突進した。
魔力シールドを展開して防御姿勢を取った前衛の2人。
留美子は大剣を横薙ぎに振り抜いた。
ドォォォン!!
斬撃ではない。圧倒的な質量による「粉砕」だった。
最新鋭の魔力シールドがガラスのように砕け散り、防弾スーツごと2人の男たちの体は無残に弾け飛び、凄まじい衝撃波と共に10メートル先のロビーの太い大理石の柱に叩きつけられて完全に沈黙した。血肉の染みと化した彼らが元の形を保っている部位は、ほとんど残っていなかった。
「化け物か……ッ! グレネード!」
後方の隊員がグレネードランチャーを構える。
だが、留美子の踏み込みの方が速い。彼女は大剣を振り下ろした勢いを利用して空中に跳ね上がり、天井のシャンデリアを蹴って軌道を変えた。
弾き出されたグレネード弾が空を切って後方の壁を爆破する中、留美子は男たちの頭上から隕石のように落下した。
「潰れな」
大剣が床に叩きつけられる。
爆発的な衝撃波がロビーを吹き荒れ、残っていた6人の男たちは衝撃で内臓を破裂させられ、四肢をへし折られて吹き飛んだ。
硝煙と血の匂いが立ち込める中、留美子は大剣を肩に担ぎ、インカムのボタンを押した。
「ボス、こっちの掃除終わったぜ。腹減ったからピザ頼んでいいか?」
★★★★★★★★★★★
「……マヤCTOが特注したピザなら、冷凍庫にストックがあります。温めて食べなさい」
CEO室。
千葉はインカムに向かって淡々と返し、通信を切った。
モニターの中では、無残な肉塊と化した襲撃者たちの姿が映し出されている。アメリカの誇る非公式部隊が、わずか数分で全滅した。
「これで、アメリカ側も理解したでしょう」
千葉は足元で黄色いボールに噛みついて離さないアッシュの首筋を、指先でゆっくりと撫でた。アッシュは喉をゴロゴロと鳴らし、完全に腹を見せて服従のポーズをとっている。
「彼らが武力を過信して送り込んでくる刺客など、我々にとってはただの『データ収集用の検体』に過ぎない。マヤCTOに、残骸となった彼らの装備の解析を回しなさい。魔力コーティングの波長パターンが分かれば、特許侵害の追加資料として使えます」
真琴は、血生臭い報告を受けた直後にもかかわらず、仔犬の腹を撫でながら数1000億単位の制裁を計算する上司の横顔を見て、深く息を吐いた。
「清掃の手配と遺体の送還手続き、および国務省への『警告文書』の作成に入ります。……広報の松尾さんには、この襲撃の映像は渡さなくていいのですか?」
「今回は保留です。アメリカ政府が公式にこれを認めない以上、世間に流しても単なるテロ未遂で処理される。カードは、相手が最も嫌がるタイミングで切るべきだ」
千葉は立ち上がり、スリーピースの皺を軽く払った。
彼の目には、アメリカという巨大な国家すらも、すでに解体可能な1企業のバランスシートのように映っているようだった。
「さて、彼らの物理的な手札は尽きました。いよいよ、EUを巻き込んだ世界規模の法廷劇の始まりです」




