第25話 世界への請求書
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社、最上階のCEO室。
分厚い防音ガラスの向こうで東京の街が徐々に白み始める中、久保真琴は高級なペルシャ絨毯の上に両膝をつき、抗いがたい引力に完全に屈服していた。
「……ああっ、もう。ダメです。どうしてそんなに可愛いんですか……」
真琴の膝の間で、灰白色の毛玉が仰向けに転がり、短い四肢を空に向けてバタバタと動かしている。シベリアンハスキーの仔犬、アッシュだ。
成長期に入り、以前よりも一回り大きくなった彼は、同時に冬毛へと生え変わりつつあり、その体は暴力的なまでの「モッフモフ」と化していた。
真琴が指先で顎の下を撫でると、アッシュは目を細め、喉の奥で「キュルルル」と心地よさそうな音を鳴らす。柔らかく、どこまでも滑らかな毛並みが指の間をすり抜けていく感触。香ばしいポップコーンのような肉球の匂い。そして、小さな体から伝わってくる無防備な温もりが、冷え切ったオフィスの中で確かな熱源となっていた。
真琴が少し手を止めると、アッシュは不満げに「クゥン」と鳴き、ピンク色の肉球を備えた前足で真琴のストッキングの膝あたりをペシペシと叩いて催促してくる。
「はいはい、わかってますよ。よしよし……」
徹夜明けで限界を迎えていた真琴の脳内に、致死量のオキシトシンが分泌されていく。荒みきった神経が、この毛深い天使によって急速に修復されていくのを感じた。このまま一生、ここで腹を撫で続けていたい。そんな現実逃避の衝動に駆られる。
だが、その至福の時間は、デスクの向こうから響いた平坦な声によって断ち切られた。
「久保CFO。バッテリーの充電は完了しましたか」
千葉秀俊だった。
広大なデスクの向こう側で、彼は分厚い紙のファイルの束に目を通していた。完璧にアイロンがけされたネイビーのシャツの袖口から覗くパテック・フィリップの秒針が、無音で時を刻んでいる。彼は万年筆で最後の書類に流麗な署名を走らせると、静かにキャップを閉めた。その声には微塵の感情も混じっていない。
真琴は深く息を吸い込み、絨毯から立ち上がった。タイトスカートのシワを伸ばし、一瞬で「CFOの顔」へと切り替わる。足元でアッシュが寂しそうに見上げていたが、心を鬼にしてデスクへと歩み寄った。
「ええ。いつでもいけます」
真琴は自身のラップトップを開き、画面に表示されたシステムコンソールを睨んだ。
画面には、世界地図と、そこにマッピングされた無数の赤いドットが表示されている。
「各国のダミー法人を通じた、提携法律事務所へのスクリプト送信準備、すべて完了しています」
真琴は乾いた唇を舌で湿らせ、事実だけを口にした。
「対象は、アメリカの軍需企業トップ10社、EUの魔力炉インフラを担う主要エネルギー企業15社、およびそれらの規格を採用している世界中の国家機関と多国籍企業。合計で4,200件」
昨日、マヤ・ワシントンの技術的裏付けをもとに極秘裏に進めていた特許の優先権主張が、国際的に確定した。
世界中で稼働している最新の魔力炉や軍事設備のほぼすべてが、アビス・マイニングの特許を『無断で侵害している』という法的事実。その事実を突きつけるための、逃げ場のない爆弾だ。
「請求内容は、過去5年間に遡る特許の無断使用に対する損害賠償、および今後の継続使用におけるライセンス料の支払い要求。……請求総額は、控えめに見積もっても年間で約800億ドルに上ります」
真琴の声が、自分でもわかるほど微かに震えていた。
これは単なるビジネスの要求ではない。既存のグローバル経済のルールそのものに、日本の一企業が真正面から喧嘩を売る行為だ。一つの国家の国家予算にも匹敵する途方もない金額を、世界中の権力者たちに突きつけるのである。
千葉は書類から顔を上げ、初めて真琴の方を見た。その冷徹な瞳には、これから引き起こす未曾有の混乱に対する高揚も、恐れも一切ない。ただ、決定された計算式を処理するだけの静けさがあった。
「送達を」
短く、重みのある指示。
真琴は小さく息を吐き、エンターキーを強く叩き込んだ。
画面上の4,200の赤いドットが、一斉に緑色に点滅する。
世界中の法律事務所のサーバーを通じて、法的に一切の逃げ道がない「請求書」という名の爆弾が、一斉にばら撒かれた瞬間だった。
★★★★★★★★★★★
嵐は、数時間の時差を経て、まずヨーロッパから到達した。
『――緊急速報です。現在、パリとベルリンの株式市場で、エネルギー関連銘柄が軒並み暴落しています! 日本の新興企業が、EUのインフラの根幹に関わる特許を主張し、巨額の賠償を……!』
壁掛けの大型モニターで、CNNのアナウンサーが血相を変えてまくしたてている。画面の右下には、垂直に落ちていく株価チャートと、パニックに陥る取引所の映像が断続的に映し出されていた。
『もしこの特許侵害が法的に認められた場合、欧州の主要な魔力炉は即刻稼働停止の危機に直面します。これは単なる経済問題ではなく、国家の安全保障を揺るがす重大な事態であり――』
「社長! 外務省と経済産業省の事務次官から、同時に直接の電話です! 『今すぐ請求を取り下げろ、日本が国際社会から完全に孤立する気か』と、尋常ではない剣幕で……!」
オペレーター室から駆け込んできた秘書が、悲鳴のような声を上げた。
真琴のデスクの直通電話も、狂ったように鳴り続けている。メールサーバーのトラフィックは異常な数値を叩き出し、世界中の政府機関、企業、法律事務所からの抗議、脅迫、そして法的措置の通告でパンク寸前だった。
「無視してください。公的なルートからの接触は、すべて『現在、法務部門で事実関係を確認中』という定型文で突っぱねるように。いかなる例外も認めません」
真琴は受話器を取ることなく、秘書に指示を飛ばした。
手元のタブレットには、国内のメインバンク数行からの通知が連続で届いている。
「当座預金の凍結を検討している」「新規の融資枠は白紙撤回する」という警告だ。国内の財界も、アメリカやEUからの凄まじい圧力に屈し、早々にアビス・マイニングを切り捨てようと動いていた。
国際的な完全孤立。
四面楚歌どころの騒ぎではない。地球上のほぼすべての権力が、彼らをすり潰そうと牙を剥いている。
「ボス。下のフロアが騒がしいわ」
音もなくCEO室に姿を現したのは、市川ひろみだった。黒のパンツスーツを着崩した彼女の表情は、いつになく鋭い。
「新宿署の警察官が数十人規模で押し掛けてきてる。名目は『テロ対策の警備』だけど、実質的には私たちの軟禁と監視ね。ビルの出入り口はすべて封鎖されたわ。それに、周辺の道路には明らかに公的機関じゃない、きな臭い連中がうろつき始めてる。……CIAの非公認部隊か、MI6か、あるいは軍需企業の私兵か。いずれにせよ、プロの殺し屋の匂いがする」
ひろみは腰のホルスターの位置を微調整しながら、低く笑った。
「これで、一歩でも外に出れば合法的にハチの巣ってわけね。どうする?」
物理的な暴力と、国家権力による包囲網。
しかし、千葉は手元のコンソールを操作し、サブモニターにビル周辺のセキュリティカメラの映像を一斉に展開した。
複数のアングルから捉えられた暗視映像には、すでに周辺道路に停められた数台の不審な黒いバンや、タクシーに偽装した車両の姿がくっきりと映し出されている。要所に配置につく男たちの動きは、明らかに軍隊かそれに準ずる訓練を受けた者のそれだ。
彼はその包囲網の映像を、まるでチェス盤のコマを眺めるような冷徹な瞳で見つめていた。
「想定内のコストです」
千葉は映像から目を離すことなく、氷のように冷たい声で言った。
「アメリカが軍事力や政治力で圧力をかけてくればくるほど、彼らがこれまで技術を独占し、世界を欺いてきたという『事実』が裏付けられる。EUの連中は、アメリカの強硬な姿勢の裏にある焦りを必ず嗅ぎ取ります」
真琴は別のモニターに表示された、ベルギーのアントワープから届いた短い暗号化通信のログに目を向けた。
クロエ・ヴァン・デル・ベルグからの定期報告。添付されたデータは、EUのダンジョン規制委員会における水面下の議事録だった。
そこには、突如として送られてきたアビス・マイニングからの請求書に対し、アメリカの技術規格に依存し続けることへの強烈な不信感と、安全保障上の懸念が噴出している様子が生々しく記録されていた。
「……彼らは、自国のインフラが砂上の楼閣であったことに気づき、疑心暗鬼に陥っています。アメリカの報復を恐れつつも、アメリカの支配から抜け出すチャンスを探り始めている……」
真琴が議事録の要約を口に出すと、千葉はわずかに頷いた。
「ええ。世界中が我々を非難しているうちは、まだ交渉のテーブルには着けません。彼らが『アビス・マイニングの特許に乗り換えた方が、中長期的に利益になる』と計算を終えるまで、この嵐の中で耐え凌ぐ必要があります」
千葉はサブモニターの映像を消去し、再び真琴とひろみに向き直った。
「久保CFO。国内の銀行が口座を完全に凍結する前に、手持ちの流動資金の8割を、シンガポールのダミー法人の口座へ移動させなさい。送金ルートの分散と秘匿化は、事前のプランBを適用します。ひろみは、物理的な防衛ラインを一つ引き上げてください。エレベーターの制御を切り離し、非常階段には罠を張る。ここから数日が正念場です」
「承知しました」
真琴が背筋を伸ばして応える。
「……了解」
ひろみが肩をすくめながら返した。
2人がそれぞれの端末に向かって走り出そうとした直後。
「キュゥーン……」
重苦しい殺伐とした空気を切り裂くように、間の抜けた鳴き声が足元から響いた。
アッシュだった。
彼は張り詰めたオフィスの空気などお構いなしに、真琴が構ってくれなくなったことに腹を立てたのか、千葉の磨き上げられた革靴のつま先に短い前足を乗せ、自慢のモフモフの尻尾をパタパタと振って見上げている。
「遊べ」と言わんばかりの、純粋で無軌道な丸いアイスブルーの瞳。
千葉は無言のまま視線を落とし、革靴に乗ったアッシュをしばらく見つめた。
そして、ゆっくりとしゃがみ込むと、大きな手でアッシュの首筋から背中にかけての、一番柔らかくモフモフした部分を、一定のリズムで3度だけ撫でた。
「今は、業務時間中です」
千葉が平坦な声でそう告げると、アッシュは「ワフッ」と嬉しそうに一度だけ吠え、満足したようにトコトコとラウンジのソファの方へ歩いていき、丸くなって眠る体勢に入った。
そのあまりにもシュールな光景に、張り詰めていた真琴の肩の力が、ほんの少しだけ抜ける。
「……社長。あの広報部長にも、特別ボーナスを出してあげてくださいね」
真琴が小さく息を吐きながらキーボードに指を置くと、千葉は表情を変えないまま答えた。
「検討しましょう。……さあ、世界からの請求の処理を続けますよ」




