第24話 特許の怪物
ベルギー・アントワープでのクロエ・ヴァン・デル・ベルグとの交渉を終え、日本に帰国したその日の深夜。
東京・銀座の裏路地にひっそりと佇む、会員制のシガーバー。
厚いオーク材の扉に遮音された店内は、紫煙と熟成されたアルコールの香りが淀みなく混ざり合っていた。客はまばらで、静かに流れるジャズのベースラインだけが空間を埋めている。
カウンターの奥まった席。
千葉秀俊は、完璧にアイロンがけされたネイビーのスリーピーススーツのまま、灰皿に置かれた太い葉巻から立ち上る煙を無言で見つめていた。手元には、氷を入れないペリエのグラス。
その隣で、市川ひろみがバーボンのロックグラスを傾けた。
タイトな黒のレザージャケットのフロントを開け、インナーのシルクのキャミソールを覗かせている。首筋に刻まれたダンジョンの呪詛を模したタトゥーが、間接照明を浴びて妖しく浮かび上がっていた。
「……帰国して数時間で、オフィスではなくバーに直行なんてね」
ひろみはグラスの氷を指で回し、カランと硬い音を鳴らした。
「ベルギーのお嬢様とのお茶会で、よほど神経をすり減らしたのかしら。それとも、これが私への『デート』の誘い?」
「優秀な猟犬には、適切な休息と給油が必要です」
千葉は葉巻を手に取り、ゆっくりと紫煙を吸い込んだ。
「ヨーロッパのインフラ市場を切り崩すための導線は引いた。だが、アメリカの巨大軍需ギルド群が黙って見ているわけがない。彼らは遠からず、特許訴訟という表の圧力と並行して、裏の物理的な排除を企ててくるでしょう。我々が巨大になればなるほど、法では縛り切れない暴力が我々を襲う。あなたの業務負担は、ここからさらに跳ね上がることになる」
「残業代の事前支払いってことね。色気のない男」
ひろみは呆れたように息を吐き、バーボンを喉に流し込んだ。
だが、その瞳には不満の色は微塵もない。むしろ、目の前の男が自分という「資産」の価値を極めて正確に計り、誰よりも重用しているという事実が、彼女の奥底にある暗い歓喜を満たしていた。
これまで裏社会で彼女を使ってきた権力者たちは、誰もが大義名分や虚飾の忠誠心で彼女を縛ろうとし、最後には保身のためにあっさりと切り捨てた。だが、千葉秀俊は違う。彼は冷徹な数字と合理性のみでひろみを評価し、彼女が機能する限り、絶対的な安全と対価を保証する。
それが、血生臭い世界を生き抜いてきたひろみにとって、何よりも信用できる心地よい「鎖」だった。
ひろみはスツールから滑り降りるように立ち上がり、千葉のすぐ隣に立った。
彼女の手が、千葉のスーツの襟元に伸びる。
「ボス」
ひろみの顔が千葉の耳元に近づく。バーボンと、火薬の匂いを消すための微かな香水の香りが混ざり合った。
「私の背中を預けられるのは、この世界であなただけよ。相手がアメリカの国家情報局だろうと、多国籍シンジケートの暗殺部隊だろうと関係ない」
ひろみの指先が、千葉のネクタイの結び目をわずかに締め直す。
「あなたが引いた盤面は、私が物理的に守り抜く。誰にも指一本触れさせないし、誰にも渡す気はないわ」
千葉は表情一つ変えず、ただ静かにひろみの鋭い目を見返した。
「期待していますよ、市川CCO。私の計算に、あなたの敗北は組み込まれていない」
「……ええ。わかってるわ」
ひろみは満足げに微笑み、千葉から離れた。
「店を出ましょう。少し空気が悪くなってきたわ」
千葉が立ち上がり、バーテンダーにブラックカードを提示して会計を済ませる。
厚いオーク材の扉を開け、湿気を帯びた銀座の裏路地に出る。
深夜の街は静まり返っていた。
歩き出して10メートルほど進んだところで、ひろみの足がピタリと止まる。彼女の視線が、路地の奥にあるビルの隙間の暗がりを射抜いた。
明確な殺意はない。だが、ひろみの鋭敏な感覚は、そこに「探るような視線」が存在していることを確実に捉えていた。国内の敵対ギルドの残党か、あるいは単なる情報屋か。
「……ボス、少し待ってて」
ひろみが低く囁き、ジャケットの内に手を伸ばしかけた瞬間。
千葉は歩調を一切変えることなく、ひろみの横を通り過ぎた。
「放っておきなさい。小物に構う時間はない」
千葉は振り返ることなく、路地の出口で待機しているハイヤーへと向かっていく。
ひろみは暗がりに向かって、チッと舌打ちをした。それだけで、潜んでいた気配が怯えたように後ずさりし、蜘蛛の子を散らすように消え去っていくのがわかった。
「……人使いの荒い飼い主」
ひろみは薄く笑い、足早に千葉の背中を追った。
★★★★★★★★★★★
翌朝。アビス・マイニング新宿本社、最上階の専用ラボ。
分厚い防音ガラスの向こう側は、すえたコーヒーの匂いと、電子機器の焦げるような匂いが充満していた。
「あははははっ! 完璧! 私のマスターピースの前に、隠し事なんて無意味よ!」
部屋の中央で、マヤ・ワシントンがバランスチェアの上に立ち上がり、両手を高く掲げていた。
ピンク色のオーバーサイズパーカは機械油とエナジードリンクの染みで汚れ、パープルのショートヘアは鳥の巣のように爆発している。ここ数日、まともな睡眠をとっていないことは明白だが、その瞳孔は異様なほどの歓喜で限界まで開いていた。
デスクの反対側では、久保真琴が目を真っ赤に充血させながら、積み上がった特許関連の分厚い書類の束と睨み合っていた。彼女の足元では、シベリアンハスキーの仔犬であるアッシュが、丸まった電源ケーブルを無心に噛んでいる。
生体認証システムが解除され、ガラス扉が開く。千葉とひろみが入室した。
「報告を、マヤCTO」
千葉の静かな声に、マヤは勢いよく振り返った。
「ボス! お帰りなさい! もう、最高の土産を用意して待ってたわよ!」
マヤはチェアから飛び降り、ラボの壁面を覆う巨大なモニターに、手元のタブレットからデータを転送した。
画面の左半分には、複雑な幾何学模様と魔力回路が入り組んだ立体図が表示された。
「これが、第1ゲートの深層から発掘された古代アーティファクトの内部構造の完全なスキャンデータ」
続いて、画面の右半分に、無数の英語の数式と特許明細書が表示される。
「こっちが、アメリカの『グローバル・ディフェンス・シンジケート』が主張している、最新魔力炉の根幹技術の特許書類。彼らはこれを『独自開発』だと言い張って、私たちに1兆5000億円の賠償を吹っかけてきたわけだけど」
マヤはスタイラスペンを指先で器用に回転させると、画面上の特許図面を勢いよく叩いた。
「このアメリカの特許データ、一見すると高度な現代物理学と魔力工学の結晶に見えるでしょ? でもね、私が組んだ反証アルゴリズムで中身を徹底的に引っ掻き回してみたら、面白いことがわかったの。彼らの特許には、実際のエネルギー効率や稼働には全く必要のない、無駄な数式とダミーの論理回路が何十重にもコーティングされていたわ」
マヤの指先がコンソールの上を滑る。
画面右半分の複雑な図面から、無数の数式や回路がパラパラと剥がれ落ちていく。
「技術を複雑に見せかけるための、ただのカモフラージュよ。これを全部削ぎ落として、純粋な『エネルギーを伝導させるための骨組み』だけにすると……こうなるわ」
右半分の図がシンプルな線画の立体モデルへと変換され、左半分の古代アーティファクトの構造図へとゆっくりと重なり合っていく。
2つの図形は、寸分の狂いもなく完全にピタリと合致した。
『一致率:99.98%』
赤い警告文字が、モニターの中央に表示された。
「……完全に一致しています」
真琴が、震える声で書類から顔を上げた。
「マヤさんの言う通りです。アメリカの軍需産業が保有している魔力炉の基本特許は、彼らのオリジナルではない。この古代アーティファクトの魔力伝導回路をリバースエンジニアリングし、表面だけを現代の数式で覆い隠しただけの、完全な『盗作品』です」
「でしょ? あいつら、自分たちでゼロから生み出したふりをして、実はダンジョンの遺物をパクって独占してたのよ。これで、彼らの特許は『先行技術の秘匿』と『虚偽の申告』で、根底から無効化できるわ!」
マヤが得意げに胸を張る。
真琴は立ち上がり、手元のファイルを千葉に差し出した。
「社長がベルギーへ発つ前、私がダミー会社を通じて世界各国の特許庁に出願していた書類です。……対象はこの古代アーティファクトの構造そのものの『解析・応用技術』。昨日、PCTルートでの国際出願の優先権主張が確定しました」
真琴は乾いた唇を舐め、自身の法務的見解を口にした。
「PCTルートを利用したことで、我々の出願は世界150ヶ国以上で同時に効力を持ちます。もし、アメリカの特許が虚偽であることが立証され、我々がこの構造の真の権利者として認められた場合。……アメリカの巨大軍需産業はもちろんのこと、彼らの技術規格を採用して魔力炉を稼働させている世界中の国家インフラ、多国籍企業、そのすべてが、我々アビス・マイニングの特許を『侵害している』ことになります」
ラボの空気が、一瞬で重くなった。
1兆5000億円の賠償請求に対する、単なる防衛ではない。相手が振りかざしてきた「特許」という武器そのものを根底から奪い取り、世界規模でカウンターを叩き込むための巨大な爆弾が完成した瞬間だった。
「見事な仕事です。これで、我々が盤面を支配するための論理は整いました」
千葉は真琴からファイルを受け取り、一瞥してデスクに置いた。
「久保CFO。直ちに、アメリカのシンジケート3社、および彼らの技術を採用している主要国のインフラ企業に対する『特許使用料の請求書』と、支払いに応じない場合の『稼働停止の仮処分通告』の作成に入りなさい」
「し、請求書の作成ですか?」
真琴の足が微かに震えた。
「金額は、彼らが我々に要求した額の10倍で算出しておきなさい。……ただし、まだ発送はしません。今はあくまで、法的根拠と書類の準備を完了させる段階です」
「準備、ですか。ですが……もしこれを本当に実行に移せば、世界中が激怒しますよ」
真琴は千葉の底知れぬ意図を図りかね、必死に言葉を継いだ。
「法廷闘争どころではありません。世界のエネルギーインフラの根幹を極東の一企業が法的に握り潰そうとしていると知れば、彼らはなりふり構わず、この本社そのものを物理的に制圧しに来ます。……本当に、撃つおつもりですか?」
「相手の喉元に刃を突きつける準備を怠ることは、企業としての死を意味します。撃つか撃たないかは、相手の出方次第です」
千葉は表情を変えることなく、マヤに向き直った。
「マヤCTO。この解析データのサマリーを、ベルギーのヴァン・デル・ベルグ嬢に暗号化通信で送りなさい。彼女がEUの規制委員会を内側から揺さぶるための、最強の武器になります。……彼らが我々にひれ伏すか、それとも武力行使という愚行に出るか。この弾丸で、ヨーロッパの反応を見極めます」
「了解、ボス。世界中のスーツ野郎の顔が青ざめるのが楽しみだわ」
マヤがキーボードに飛びつき、真琴も覚悟を決めたように自身のデスクの端末へ向かった。
これほどの巨大なリスクを前にしても、目の前の男には一切の躊躇がない。真琴は、自分が取り返しのつかない世界規模のゲームの引き金を引こうとしていることを自覚し、小さく息を呑んだ。
アッシュが「キュゥ」と鳴きながら真琴の足元で丸くなる中、千葉は冷え切った目でモニターに映る世界地図を見つめ、静かに葉巻のケースに手を伸ばした。




