第23話 化かし合いのワルツ
ガリッ……ガリッ……。
静まり返ったアビス・マイニング新宿本社の最上階に、硬質なものが削り取られる不快な音が規則的に響き渡っていた。
久保真琴が手元の稟議書から顔を上げると、デスクから少し離れた床の上で、灰白色の毛玉が無心になって何かを齧っていた。
シベリアンハスキーの仔犬、アッシュだ。彼は両前足で器用にY字型の鹿の角を抱え込み、奥歯を立ててガリガリと硬い表面を削り取っている。まだ乳歯が抜け替わる時期の彼にとって、その適度な硬さと微かに残る野生の匂いは、絶好の噛みごたえなのだろう。時折「キュウゥ」と熱中したような喉を鳴らし、角の向きを変えようと勢いよく首を振る。
そのたびに、鹿の角の尖った先端が、真新しい高級フローリングに深く、無慈悲な弧を描いて白い傷を刻み込んでいく。
「ちょっと! アッシュ、ダメですよ!」
真琴はオフィスチェアを蹴り、駆け寄った。
名前を呼ばれたアッシュは短い尻尾をパタパタと振り、口に咥えた鹿の角を真琴に向けて自慢げに見上げてくる。足元には、無惨に削り取られた細かい木屑と、幾重にも刻まれた傷跡がくっきりと残されていた。
「あーあ。また床の張り替えね。ボスの機嫌、悪くなるんじゃない?」
ラウンジのソファに深く腰掛け、ブラックコーヒーを飲んでいた市川ひろみが、呆れたようにため息をつく。ベルギーへの出張から帰国したばかりの彼女は、リラックスしたスウェット姿だった。
「おう、いい音させてんな! 昨日、第7ゲートの奥で拾ってきた甲斐があったぜ。犬は硬いもん噛むのが好きだって、ネットに書いてあったからよ!」
シャワールームから出てきた菅原留美子が、濡れた髪をタオルで乱暴に拭きながら屈託なく笑う。彼女は昨日、低ランクダンジョンの制圧ついでに、生態系の崩れで迷い込んでいた巨大な角鹿を物理的に粉砕してきたばかりだ。
「拾ってきたって……ここ、先月内装工事を終えたばかりの最上階ですよ!? このフローリング、イタリア製の特注品なんです。修繕費、また私が経費として処理しなきゃいけないんですからね!」
真琴が頭を抱えてしゃがみ込んでいると、奥のラボに通じるセキュリティドアが重い電子音とともに開いた。
ピンク色のオーバーサイズパーカを着たマヤ・ワシントンが、首の後ろを揉みながら出てくる。目の下には薄っすらとクマができ、パーカの袖口は謎のオイルで汚れているが、その表情には徹夜明け特有の異様な熱が浮かんでいた。
「はいはい、弁護士さん。床の傷くらい、ボスの稼ぎからすれば誤差の範囲でしょ。それより、オーダーの中間報告よ」
マヤは手に持っていたタブレットを、真琴のデスクに無造作に放り投げた。
「アメリカの軍需産業が特許申請に使った魔力炉のブラックボックス。あいつら、複雑な論理式でカモフラージュしてるけど、ベースになってるアーティファクトの構造と照らし合わせたら、外部パラメーターの入力値に明らかな矛盾が出たわ。完全にひっくり返す反証アルゴリズムを組むにはもう数日かかるけど、とりあえず連中が『技術をパクって偽装している』っていう証拠の欠片は揃えた。ベルギーのお嬢様を脅りつけるためのカードとしては、これで十分でしょ」
真琴は床の惨状をひとまず忘れ、デスクに戻ってタブレットの画面に目を通した。
表示された複雑な数式と、不自然なデータポイントの偏りを示すグラフ。真琴の法務的視点から見ても、アメリカ側の技術報告書が何らかのデータを意図的に隠蔽していることは明白だった。
「……なるほど。完全な証明には至っていなくても、これを規制委員会にリークすれば、アメリカの安全保障規格に対する『重大な疑義』を生じさせることは可能です」
「でしょ。私のマスターピースを甘く見ないで。さっさとボスの端末に送ってあげて」
真琴はタブレットのデータを暗号化サーバーにアップロードし、ベルギーに滞在している千葉の端末へと転送プロトコルを走らせた。
「彼女がこのデータをどう使うか、すべて社長の計算の範囲内でしょう」
★★★★★★★★★★★
ベルギー、アントワープ。
雨上がりの石畳が、鈍い鉛色の空を反射している。
16世紀から続くヴァン・デル・ベルグ家の歴史ある館。その奥深く、外の光がほとんど入らない分厚いカーテンに閉ざされた私室で、クロエ・ヴァン・デル・ベルグは濃いブラックコーヒーを無言で喉に流し込んでいた。
彼女の目の前には複数台のハイエンドモニターが並べられ、雇い入れた専属の暗号解読者と技術顧問が、極東から送られてきたデータを血走った目で解析し続けている。
「……信じられません」
初老の技術顧問が、震える手で眼鏡を押し上げた。
「お嬢様。このアビス・マイニングから送られてきたデータ……アメリカの技術規格に対する反証の『断片』に過ぎませんが、極めて致命的です。彼らはアメリカの魔力炉のブラックボックス部分に、数理的な矛盾があることを正確に突いています。もし彼らが、この矛盾を法的に立証する完全な論理を構築し終えれば……」
クロエはカップを置き、静かに問う。
「EUは、アメリカのインフラから脱却を図るかしら」
「図るどころではありません。彼らが同時に提示してきた代替規格の仕様書を見てください。稼働効率が3倍、ランニングコストは7割削減。この規格が実働し、かつアメリカの特許が虚偽だと証明されれば、ヨーロッパのエネルギー市場は根底からひっくり返ります」
クロエの指先が、微かに冷たくなっていくのを感じた。
昨日、高級レストランの個室で対峙した、千葉秀俊という男の姿が脳裏に蘇る。
窮地に陥った敗残兵の足掻きなどではなかった。彼は最初から、アメリカという巨大な国家の足元に仕掛けられた爆弾の起爆スイッチを握った上で、ヨーロッパの市場を自らのルールで塗り替えるためにここへ来たのだ。
恐怖。それは間違いない。アメリカの巨大軍需産業と国家情報局を敵に回せば、自分のような没落貴族の令嬢など、痕跡も残さず消し去られる。
だが、それ以上に彼女の胸の奥底で、熱く煮え滾るような野心が鎌首をもたげていた。
この極東の怪物の導線に乗れば、ヴァン・デル・ベルグ家は、かつてのダイヤモンド取引で得ていた栄華を遥かに凌ぐ権力を、ヨーロッパの裏社会で確固たるものにできる。
「……解析ご苦労様。データはすべて物理ドライブに暗号化して移し、ネットワークから切り離して。誰にも気づかれないように」
クロエは立ち上がり、姿見の前で自身のドレスを直した。
化かし合いの時間は終わりだ。ここからは、命と家の存亡を懸けた取引のテーブルにつくことになる。
★★★★★★★★★★★
アントワープ市内の高級ホテル、最上階のペントハウス。
分厚い絨毯の上を歩くクロエの足音は、周囲の静寂に吸い込まれて消えた。彼女の背後には、護衛の男は1人もいない。このレベルの取引において、半端な武力など何の意味も持たないことを彼女は熟知していた。
入り口で待機していた市川ひろみが、クロエの体を無言でチェックする。ひろみの冷たく鋭い視線がクロエの全身を舐めるように走り、隠し持った録音機器や通信機がないことを確認すると、無言で奥のドアを開けた。
広大なリビングルーム。
千葉秀俊は、部屋の中央に置かれた革張りのソファに深く腰掛け、手元のタブレットで無機質な数字の羅列を追っていた。クロエが入室しても視線を上げることはなく、ただ規則的なタップ音が響くのみだ。
「データは確認しましたね」
千葉は画面から目を離さず、淡々と事実だけを口にした。
「……ええ。驚異的だったわ。あんな断片的なデータだけで、アメリカの特許網の矛盾を的確に突いてくるなんて」
クロエはソファに座ることを勧められないまま、千葉の向かいに立って言葉を紡いだ。彼女は意図的に声のトーンを下げ、余裕のある令嬢の仮面を被り直した。
「でも、ミスター・チバ。技術が優れているという事実だけで、EUの重鎮たちが動くほど政治は単純じゃないわ。アメリカからの報復という巨大なリスクを負ってでも彼らを動かすには、私という『信用』と、緻密なロビー活動が必要不可欠よ」
クロエは1歩だけ前に出た。
「だから、条件を再提示させてもらうわ。私への報酬は、EU法人の株式10パーセント。そして、欧州内でのアビス製品の独占販売権。これで手を打つわ」
交渉の主導権を握るための、強気の要求。
しかし、千葉はゆっくりとタブレットをテーブルに置き、いっさいの感情を含まない目でクロエを見据えた。
「却下します。条件は昨日提示した通り、5パーセントと情報の独占権のみだ」
間髪入れない、平坦な拒絶。クロエは息を呑んだ。少しの逡巡や、妥協点を探る素振りすら見せない。
「……本気で言っているの? 私がこのデータをアメリカ側に売り渡せば、あなたの計画はすべて水泡に帰すのよ?」
「売ればいい」
千葉はクロエの脅しを、風のそよぎのように切り捨てた。
「だが、あなたは売らない。アメリカに情報を売って得られる目先の端金よりも、私の規格がヨーロッパを支配した際の5パーセントの価値の方が、天文学的に高いとすでに計算を終えているからだ」
千葉はソファから立ち上がり、その長身から彼女を見下ろした。
「私の提示した5パーセントは、現在の価値ではない。1年後、EUのダンジョンインフラを完全に掌握した際のアビス・マイニングの時価総額における5パーセントです。あなたは自分の価値を高く見積もりすぎている。私のシステムにおいて、あなたは優秀なスピーカーに過ぎない」
クロエは言葉に詰まった。
彼女の切り札である政治的コネクションも情報網も、この男の前では、彼が構築した巨大なシステムを回すための単なる歯車としてしか評価されていない。
「あなたがここに来た時点で、交渉は終わっています。あなたは恐怖よりも、利益を選んだ。違うか」
絶対的な支配力。
クロエは乾いた唇を微かに震わせた。血筋や伝統など意に介さず、ただ圧倒的な合理性と数字だけで、国家すらも自らの盤上の駒として扱う怪物。この男の隣にいれば、世界が書き換わる瞬間を最も特等席で見ることができる。
クロエは小さく深呼吸をし、美しい笑みを浮かべた。
「……本当に、悪魔のような男ね。でも、乗ってあげるわ。その5パーセント、絶対に紙屑にはさせないでよ」
千葉は表情を変えず、テーブルの上に用意されていた契約書と万年筆をクロエの方へ滑らせた。
「当然です。私の計算に誤差はありませんから」
クロエが迷いなく契約書にサインを書き入れる音が、静かなペントハウスに響いた。
千葉はその署名を無言で確認し、手元のタブレットで次なる指示の送信プロトコルを起動させる。窓の外で、アントワープの空を覆っていた厚い雲の切れ間から、冷たい光が微かに差し込んでいた。




