第22話 深窓の情報ブローカー
北海から吹き込む湿った風が、アントワープの歴史ある街並みを冷たく撫でていく。
かつて世界のダイヤモンド取引の中心として栄華を極めたこの街も、ダンジョンから産出される「魔石」という新たなエネルギーと富の象徴の前に、その輝きを少しずつ失いつつある。
千葉秀俊は、完璧に仕立てられたチャコールグレーのスリーピースに身を包み、16世紀のギルドハウスが立ち並ぶ市街地を一定の歩調で歩いていた。石畳を踏む革靴の音に乱れはない。長時間の国際フライトを終えた直後であるにもかかわらず、その顔に疲労の色は一切浮かんでいなかった。
耳に仕込んだ極小のインカムから、市川ひろみの声が響く。
『ボス。レストラン周辺の物理的なクリアランスは完了したわ。佐伯の残党か、あるいはアメリカの息がかかったネズミが数匹嗅ぎ回ってたけど、すべて運河の底で眠ってもらった。あとはゆっくり、令嬢とのディナーを楽しんできて』
「ご苦労様です。引き続き、周辺の警戒を」
千葉は短く返し、通信を切った。
彼が足を止めたのは、看板すら出していない完全予約制の最高級レストランだった。重厚なオーク材の扉を開けると、支配人が千葉の顔を見るなり深く一礼し、奥のVIP専用個室へと案内した。
扉が開かれた先。
薄暗い間接照明に照らされたアンティークのテーブルの向こう側に、その女は座っていた。
クロエ・ヴァン・デル・ベルグ。23歳。
透き通るような白磁の肌に、深い知性を湛えた碧眼。纏っているのは、身体のラインを美しく見せるクラシカルな黒のドレス。首元には、ヴァン・デル・ベルグ家がかつて誇ったであろう、アンティークカットのダイヤモンドネックレスが冷たい光を放っている。
一見すれば、庇護欲をそそる儚げな貴族の令嬢だ。
だが、千葉の目は、彼女の瞳の奥で絶え間なく回る冷酷な計算の歯車を見逃さなかった。
千葉が部屋に入り、ドアが静かに閉まる。その瞬間、クロエの碧眼がわずかに見開かれた。
事前に資料で顔は知っていた。しかし、実際に相対した千葉秀俊という男が放つ威圧感は、数字や写真から予測できるレベルを遥かに超えていた。190センチを超える巨躯。そして何より、一切の感情の揺らぎを感じさせない底知れぬ瞳。ただそこに立っているだけで、部屋の空気が彼を中心に再構築されていくような錯覚を覚える。
「お待たせしました、ヴァン・デル・ベルグ嬢」
千葉はクロークにコートを預け終えた身軽な姿で、対面の席へ流れるような動作で腰を下ろした。
「……ええ。遠路はるばるようこそ、ミスター・チバ」
クロエは一瞬の動揺を完璧な令嬢の微笑みで塗り隠し、手元のワイングラスを軽く傾けた。
「極東で泥水を売り捌いて小銭を稼いでいる野蛮な成り上がりが、わざわざアントワープまで私に何の用かしら? アメリカの連邦裁判所から逃げ出すための、亡命ルートの相談?」
初手からの強烈な毒舌。
アメリカの巨大軍需ギルドから突きつけられた、天文学的な額の特許侵害訴訟。アメリカの国家意思そのものを敵に回して、極東のギルドがいつまで持ち堪えられるか。ヨーロッパの裏社会では、アビス・マイニングの余命を数える賭けすら始まっている。彼女は千葉を、窮地に陥ってすがりつきに来た敗残兵だと値踏みしていた。
「逃げる必要などありません」
千葉は表情一つ変えず、給仕が静かに注いだペリエのグラスに手を伸ばし、一口だけ喉を潤した。
「私は、彼らが張り巡らせた見え透いた罠を、盤面ごと燃やし尽くすための『風向き』を買いに来ただけです。そして、ヨーロッパの風を操るには、あなたの口添えが最も効率的だと判断した」
静寂に包まれた個室に、給仕が前菜を運んでくる。
ベルギー産のオセトラキャビアを添えた、ホワイトアスパラガスの冷製。
千葉はナイフとフォークを手に取り、寸分の無駄もない完璧なテーブルマナーでそれを口に運んだ。クロエはその洗練された所作に、再び内心で舌を巻いた。成金にありがちな粗野な振る舞いは一切ない。彼は古いルールを熟知した上で、それを静かに踏み躙りに来ている。
「私を買い被っているようね」
クロエは優雅にアスパラガスを切り分けた。
「私はただの没落貴族の娘よ。EUのダンジョン規制委員会に多少の顔が利くとはいえ、アメリカの軍需産業を敵に回すような真似、リスクが高すぎるわ。……それに、連邦裁判所に資産を差し押さえられかけているあなたに、私へ払う対価が残っているのかしら?」
「久保CFOの調査は、常に完璧です」
千葉は唐突に、自らのCFOの名を出した。
そして内ポケットから、薄い革製のフォルダを取り出すと、テーブルの中央、クロエのグラスを避けた位置に静かに置いた。
「ヴァン・デル・ベルグ家が保有していた複数のダミー法人の口座履歴。過去3年間にわたり、スイスのプライベートバンクを経由して、EU規制委員会の有力議員3名の政治資金団体へ定期的な送金が行われている」
クロエのナイフの動きが、ピタリと止まった。
「さらに、あなたが提供した情報を元に、彼らがアメリカ産ポーションの関税引き上げを水面下で画策している事実。……あなたはただのブローカーではない。情報を餌に政治家を操り、EUのダンジョン規制の枠組み自体をデザインしている『ロビイスト』だ」
千葉の氷のような声が、個室の空気を凍らせていく。
「……それがどうしたの?」
クロエは冷や汗を隠し、強気に微笑んでみせた。
「それを公表して私を脅すつもり? もし私が失脚すれば、あなたはヨーロッパでの数少ないパイプを失うだけよ。あなたには何の利益もないわ」
「公表はしません。非効率ですからね」
千葉はフォークを置き、クロエを真っ直ぐに見据えた。
「私は、あなたが構築したその素晴らしいシステムを、そのまま私のために使っていただきたいだけです」
「……何?」
「現在、アメリカの軍需産業が主張している特許網。あれは表向き、彼らの独自開発ということになっています。だが、我が社のマヤCTOの解析により、彼らの技術の根幹がダンジョン産の古代アーティファクトの構造を模倣したものであることが証明されました」
クロエの碧眼が、驚愕に見開かれた。
「彼らの特許は、虚偽の申告の上に成り立っています。そして、その不完全な技術規格を押し付けられているEUは、知らず知らずのうちにアメリカの軍事・エネルギーインフラの致命的な脆弱性に依存させられている」
それが事実であり、かつ法的に実証可能であれば、アメリカとEUのパワーバランスを根底から覆す爆弾になる。
「私の求める仕事はシンプルです」
千葉は淡々と続けた。
「あなたが操る議員たちを使い、EU規制委員会の中に『アメリカの技術規格に対する安全保障上の深刻な懸念』という毒を撒き散らしなさい。そして、それに代わる完璧なインフラとして、我が社のアビス・エリクサーと新たな魔力炉の規格を提示する。アメリカとEUの足並みを乱し、ヨーロッパを私の規格で引き込むための導線を引け」
「……本気で言っているの? 世界を相手に特許と規格の戦争を仕掛けるなんて」
クロエの声が微かに震えていた。
かつて魔石という時代の波が、彼女の家を容赦なく没落させた。血筋や伝統など、新しいエネルギーの前では無力だった。
だが、目の前の男は、その時代のうねりすらも自らの合理的な計算の下に屈服させ、支配しようとしている。国家の威信も既存の権力も意に介さず、ただ数字と法だけで世界を蹂躙していく怪物。
(なんて恐ろしくて、抗いがたい男……)
クロエは、テーブルの下で震える自分の手を強く握りしめた。
恐怖ではない。それは、絶対的な支配力に対する、ゾクゾクとするような屈折した興奮だった。
「……私の情報網を、安く見積もらないでほしいわね」
クロエは震えを抑え込み、努めてエレガントな微笑みを作り直した。
「EUの委員会を動かすには、ただの懸念だけじゃ足りない。彼らが飛びつくための、もっと生々しくて具体的な『裏付け』のデータが必要よ。それを用意できるの?」
「明日の朝、マヤCTOがEU規格に最適化した反証アルゴリズムがあなたの手元に届きます。久保CFOには、ダミー会社を通じたロビー活動の法的バックアップを準備させてある」
「もしそのデータが本物だとしても、私の口添えの対価は高くつくわよ。ミスター・チバ」
「報酬は、アビス・マイニングがヨーロッパ市場で展開するインフラ事業の、現地統括法人における5パーセントの株式。そして、当該地域における情報の独占権です」
提示された対価の重さに、クロエは息を呑んだ。
それは、数千万ユーロなどという端金ではない。将来的にヨーロッパのダンジョン資源を牛耳るであろう巨大権力の一翼を担うということだ。没落したヴァン・デル・ベルグ家が、かつてのダイヤモンド取引で得ていた栄華を、新たな形で完全に超えることができる。
「データを確認してから、判断してください」
千葉は立ち上がり、静かに一礼した。
「期待していますよ、ヴァン・デル・ベルグ嬢」
千葉が個室を後にし、重厚な扉が閉まる。
一人残されたクロエは、手元のワイングラスを見つめたまま、深い沈黙に落ちた。
明日の朝に届くという極東からのデータ。それが本物であった時、自分はこの抗いがたい怪物とどう渡り合うのか。
静寂の個室の中で、彼女は残っていた赤ワインをゆっくりと飲み干し、まだ見ぬ盤面に思いを馳せながら、冷たく美しい笑みを浮かべた。




