第21話 グローバルな言いがかり
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社のCEO室。
磨き上げられた黒大理石の床の上を、灰白色の小さな毛玉がシャカシャカと短い爪の音を立てて転がっていた。
シベリアンハスキーの仔犬、アッシュである。
彼は今、真新しいゴム製の赤いボールを相手に、一人で死闘を繰り広げていた。
前足で器用にボールを弾き、コロコロと転がっていくそれを猛然と追いかける。しかし、勢い余ってボールを通り越し、ペルシャ絨毯の端でツルッと滑って見事に横転した。「キュゥ」と情けない声を上げたものの、すぐに立ち上がり、何事もなかったかのように再びボールに向かって短い尻尾を振りながら突撃していく。
その平和で無軌道な軌跡を、久保真琴はソファに浅く腰掛けながら見つめていた。
「……本当に、あなただけがこの会社の癒やしです」
真琴がポツリと呟き、足元に転がってきたボールを拾い上げて軽く転がしてやると、アッシュは「ワフッ」と嬉しそうに鳴き、ボールを咥えて真琴のパンプスのつま先に前足を乗せた。そのまま、彼女のストッキング越しに足首にすりすりと頭を擦り付けてくる。
連日の徹夜続きで張り詰めた真琴の神経が、その無防備な温もりによってわずかに解れていく。
だが、そのささやかなオアシスの時間は、タブレットから鳴り響いた無機質な電子音によって切り裂かれた。
最高レベルの緊急受信を知らせる特有のアラート。
真琴は瞬時に姿勢を正し、画面をタップした。
表示されたPDF文書のヘッダーと差出人を確認した瞬間、真琴の表情から一切の柔らかな感情が消え失せた。画面をスクロールする指がピタリと止まり、唇が硬く結ばれる。
「……社長。米国の現地法人から最重要の転送書類です」
真琴は意図的に声のトーンを落とし、感情を排した事務的な響きで呼びかけた。
デスクの向こう側で、決裁書類の束に万年筆を走らせていた千葉秀俊は、その静かな声色から事態の重さを推し量り、静かにペンを置いて視線を向けた。
「報告を」
「アメリカの連邦地方裁判所、および米国特許商標庁から、電子送達がありました」
真琴は立ち上がり、千葉のデスクへと歩み寄りながらタブレットの画面を共有モニターに転送した。
「申立人は、アメリカの巨大軍需ギルド3社が構成する『グローバル・ディフェンス・シンジケート』。先日マヤCTOが申請を行った魔力炉の根幹理論、およびアビス・エリクサーの精製フィルター技術について、彼らが保有する既存の包括的特許を侵害しているとの訴えです」
真琴は共有された資料の末尾、赤字でハイライトされた数字を指し示した。
「損害賠償請求額、100億ドル。日本円にして約1兆5000億円。さらに、特許侵害を理由とした、北米市場および同盟国における我が社の製品の即時販売差し止め、ならびに資産凍結の仮処分申請が含まれています」
1兆5000億円。一企業に対する賠償請求としては常軌を逸した数字だ。
「請求項の解釈を不自然なまでに拡張し、マヤさんの技術の表面的な類似点だけを切り取って、彼らの古い特許網に無理やり当てはめています。典型的なパテント・トロールの手口です。通常の法廷であれば、十分な準備期間さえあれば確実に反証できます。しかし……」
真琴は言葉を切り、苦々しい表情で次のページを表示した。
「訴状には、アメリカ国防総省の意見書が添付されています。『アビス・マイニングの技術独占は、米国の国家安全保障に対する重大な懸念事項である』と。司法と行政が完全に結託しています。裁判所はこの仮処分申請を高い確率で受理するでしょう。そうなれば、我々が法廷で正当性を証明して勝訴するまでの数年間、アメリカ市場での活動は完全に凍結されます」
相手の狙いは賠償金ではない。
圧倒的な技術力で市場を破壊しにきた異物を、国家権力という最強のバリアで囲い込み、裁判という終わりの見えない泥沼に引き摺り込んで兵糧攻めにすることだ。
「ふざけないでよッ!!」
突如、CEO室の分厚いマホガニーの扉が乱暴に開かれた。
飛び込んできたのは、ピンク色のパーカを羽織ったマヤ・ワシントンだった。手には、真琴と同じ訴状のデータが表示されたタブレットが握られ、その画面にはヒビが入っていた。怒りのあまりどこかに叩きつけたのだろう。
「私のマスターピースが、あいつらの時代遅れのガラクタのパクリだって!? 冗談じゃないわ! 私の組んだ魔力炉の熱変換効率は、あいつらのシステムの3倍よ! 構造の根幹からして別物だってこと、ソースコードを全部逆アセンブルして法廷に叩きつけてやる!」
マヤは千葉のデスクに両手をつき、怒りで目を血走らせながら身を乗り出した。彼女にとって、自分の技術を貶められることは何よりも許しがたい侮辱だった。
千葉は姿勢を崩さず、静かにマヤを見返した。
「落ち着きなさい、マヤCTO。彼らは真実などどうでもいいのだ。あなたが法廷でどれほど完璧な技術的証明を行おうと、彼らは新たな難癖をつけて審理を引き延ばす。我々を彼らの土俵に縛り付け、時間を浪費させることが目的なのだから」
「じゃあ、泣き寝入りしろって言うの!? このままじゃ、私が構築した新しいラインも、世界に出せないままゴミになるわよ!」
「ボスの言う通りよ、マヤ」
部屋の隅から、市川ひろみが音もなく姿を現した。タイトな黒のスーツ姿の彼女は、手にした薄い通信端末を指先で弾きながら、険しい表情を見せた。
「アメリカの動きは、法廷だけじゃないわ。うちのアメリカ支社の設立予定地に、昨日から現地のマフィア崩れが居座り始めてる。物流のコンテナも、税関で『ランダムなテロ対策検査』と称して不自然に止められ始めた。……見事なまでの総力戦ね。現場の警察も税関も、完全に相手の息がかかってる」
ひろみの報告に、真琴は重いため息を吐き出した。
「法律、政治、そして物理的な妨害。完全に包囲されました。アメリカ市場への進出は、現状では不可能です。社長、まずは国内市場の地盤を完全に固めることに注力し、アメリカとの法廷闘争は長期戦を覚悟するしか……」
「それは悪手です、久保CFO」
千葉は手元で組んでいた指を静かにほどいた。
「彼らの兵糧攻めに付き合えば、我々の成長速度は著しく鈍化する。それは企業としての死を意味します。アメリカが巨大な壁となって立ち塞がるなら、その壁の背後にある火薬庫に火を放てばいい」
「背後に火……?」
真琴が怪訝な顔をする。
「アメリカの軍需産業がグローバル市場を独占している現状を、快く思っていない勢力が存在します」
千葉はメインモニターの表示を、EUのダンジョン資源輸入比率のグラフに切り替えた。
「ヨーロッパです。EUのダンジョン規制委員会は、長年アメリカの兵器規格とポーションの価格統制に悩まされてきた。もし、我々が彼らに『アメリカの呪縛から逃れるための新たなインフラ』を提示できれば、彼らは必ず食いつく」
「ヨーロッパを味方につける、ですか。ですが、彼らもしたたかです。アメリカと正面切って対立するようなリスクを、易々と負うとは思えません」
真琴の懸念に、千葉は口角をわずかに上げた。
「だからこそ、彼らが自ら動きたくなるような『毒』が必要なのです。表の交渉ではなく、裏の情報を操り、彼らを疑心暗鬼に陥れ、我々の側に付く方が利益になると錯覚させるための毒が」
「……なるほどね。ロビー活動と情報操作のプロが必要ってわけだ」
ひろみが納得したように頷く。
「心当たりがあるのですか、社長」
「私がウォール街にいた頃、ヨーロッパのシンジケートとの取引で何度か利用した情報ブローカーがいます。ヨーロッパの旧貴族のネットワークに深く入り込み、EU規制委員会の動向を影で操っている人物だ」
「……タダで動いてくれるような相手には見えないけど」
マヤが忌々しげに言う。
「当然です。相手は他者を己の駒としてしか見ていない。だが、相手が何を欲し、どこに資金を流しているかさえ正確に割り出せれば、交渉のテーブルに引きずり出すことは可能だ」
千葉は各員へ視線を向けた。
「久保CFO。その情報ブローカーとの接触に向け、EU規制委員会周辺の不自然な資金フローと、関連するペーパーカンパニーをすべて洗い出しなさい。市川CCOは、ヨーロッパへの非公式な接触ルートの構築を」
「了解しました。すぐに取り掛かります」
真琴はタブレットを強く握り直し、自席へと向かう。
「任せて。プライベートジェットの手配と、向こうでの『掃除』の準備をしておくわ」
ひろみもまた、不敵な笑みを残して部屋を出て行った。
「マヤCTO。あなたは特許の反証データの精度をさらに上げろ。彼らの技術的優位性を完全に粉砕するアルゴリズムを、ヨーロッパの規格に合わせて最適化しておくんだ」
「言われなくてもやってるわよ! あいつらの顔を札束とデータで往復ビンタできるなら、寝ないでコード組んでやるわ!」
マヤは乱暴に髪を掻きむしりながら、ラボへと戻っていった。
残されたCEO室に、再び静寂が戻った。
足元で、「クゥン」という小さな鳴き声がした。
視線を落とすと、アッシュが赤いボールを咥えたまま、千葉の革靴に寄りかかって上目遣いでこちらを見ていた。遊んでくれ、というサインだ。
千葉は表情一つ変えず、ボールを咥えたアッシュを一瞥した。
「今は構っている時間はない」
冷たく、だが静かな声で告げると、千葉は手元の契約書の束を揃え、再び万年筆を手にした。
アッシュは少しだけ首を傾げた後、ぽとりとボールを落とし、千葉の足元で邪魔にならないように小さく丸くなって目を閉じた。
部屋には、真琴が叩くキーボードの硬質な音と、千葉の万年筆が紙の上を滑る音だけが、淡々と響き続けていた。




