第20話 日本市場制覇
新宿本社、最上階。CEO専用のプライベートキッチンには、数時間前の市街地での血生臭い戦闘など存在しなかったかのような、スパイスと和風出汁の芳醇な香りが充満していた。
千葉秀俊の姿は、執務室で数兆円規模の契約書にサインをする時と何ら変わらなかった。深いネイビーのスリーピーススーツ。ただし、タイバーで固定されたネクタイだけがわずかに緩められている。彼の冷徹な視線は、3口のIHヒーターで同時に進行している別々の工程を、秒単位の精度で把握していた。
右手前の鍋では、香川県の製麺所から取り寄せた特注の半生讃岐うどんが、たっぷりの熱湯の中で激しく踊っている。吹きこぼれる寸前の火力を維持し、麺の表面のアルファ化を極限まで促す。
左手の深めの雪平鍋には、本枯節、鯖節、宗田鰹、そして利尻昆布から引いた黄金色の一番出汁が静かに湯気を立てていた。
そして奥のフライパン。千葉は熱した太白胡麻油に、クミンシード、コリアンダー、少量のカルダモンを投じ、スパイスの香りを油に完璧に移す「テンパリング」を行っていた。パチパチという音とともに、暴力的なまでの香気が立ち上る。
そこに、大きめに斜め切りにして焼き目をつけた長ネギと、美しいサシの入った黒毛和牛の薄切り肉を投入する。肉の脂が溶け出し、赤みが消える絶好のタイミングで、スパイスごと一番出汁の鍋へ移し入れた。
仕上げに、独自にブレンドしたカレー粉と、本葛粉で上品なとろみをつける。片栗粉では出せない、なめらかで透明感のあるとろみだ。
タイマーが鳴る。
千葉は菜箸でうどんを一気にザルへ引き上げ、すぐさま氷水へ落とした。素早く揉み洗いして表面のぬめりを取り、極限までコシを引き出した後、再び熱湯にくぐらせて芯まで温め直す。水気を完全に切った麺を特注のどんぶりに盛り、その上から熱々のカレー出汁をたっぷりと注ぎかけた。
「うおおおっ! なんだこの匂い! 腹減ったあああ!」
プライベートキッチンの扉が吹き飛びそうな勢いで開かれ、菅原留美子が飛び込んできた。
防具の汚れやモンスターの返り血は1階のシャワールームで落としてきたらしく、ラフなTシャツ姿だが、濡れた髪からは微かにオゾンの匂いが残っている。彼女の足元には、ハスキーの仔犬のアッシュが「メシだメシだ」と言わんばかりに跳ね回っていた。
「帰還が予定より2分遅い。麺が伸びるところでしたよ」
千葉は表情を変えることなく、ダイニングテーブルにどんぶりを置いた。
「文句言うなよ! 警察の事後処理の手伝いが長引いたんだから! いただきまーす!」
留美子は椅子に飛び乗るなり、割り箸を割ってカレーうどんに食らいついた。
「……ッッ!! うめえ!! なんだこれ、うどんがモッチモチで、肉が溶ける! カレーなのに出汁の味がすげえする!」
S級ハンターの恐るべき吸引力で、熱々の麺がみるみると胃袋に吸い込まれていく。
その後ろから、機材リュックを下ろして肩を揉む松尾伸子と、タブレットを抱えた久保真琴が連れ立って入ってきた。
「社長、本当にカレーうどんなんて作ってたんですね……」
真琴は呆れたような、しかし強烈なスパイスの香りに少しだけ喉を鳴らして言った。
「極限の魔力消費を行った後の肉体には、消化の良い炭水化物と、発汗を促すスパイス、そして良質なタンパク質の補給が最も効率的です。彼女の筋肉を分解させるわけにはいきませんからね」
千葉は真琴と伸子にも、やや小ぶりのどんぶりを差し出した。
「お疲れ様です。あなた方も食べなさい」
「……いただきます」
真琴は誘惑に勝てず、レンゲでスープを一口飲んだ。瞬間、目の色が変わる。
「……悔しいです。スパイスの暴力的な刺激を、和風出汁の旨味が完全に手懐けている。疲労した脳の報酬系に、直接糖分と塩分が叩き込まれるような味です。完璧なリカバリー食ですね」
「ええっ、めちゃくちゃ美味しい! 私、これ配信で食レポしていいですか!?」
伸子がスマートフォンを構えようとするのを、千葉は目で制した。
「社内の機密事項です。それより、松尾部長。外部の状況は」
伸子はカレーうどんを啜りながら、空いた手で自身のタブレットを操作した。
「完璧ですよ。同時接続は最終的に150万を突破。切り抜き動画も、すでに各プラットフォームでミリオン連発です。世論は完全にアビス支持で固まりました」
真琴も自身のタブレットをテーブルに置き、手早く画面を切り替えて財務と法務の数字を報告する。
「魔薬連盟の主要幹部7名は、特捜部による取り調べの末、違法行為の教唆とダンジョン管理法違反で全員逮捕。彼らが保有していた法人は、本日付けで事実上の業務停止命令を受けました。メインバンクも融資を一斉に引き揚げています」
真琴は、カレーの汁が書類に跳ねないよう慎重に立ち振る舞いながら続けた。
「それに伴い、彼らの傘下にあった中堅・下請けのギルドから、我が社への業務提携の申し込みが殺到しています。……というより、土下座に近い嘆願ですね。彼らにはもう、うちの『アビス・エリクサー』の配送インフラとして生き残る道しか残されていません。国内のポーション市場と物流網は、今この瞬間をもって完全に我が社のコントロール下に置かれました」
「想定していたスケジュールより1ヶ月早いですね」
千葉はグラスのペリエを口に含み、冷徹に事実を確認した。
「これで国内の掃除は完了よ。見事な盤面だったわ、ボス」
いつの間にかキッチンの入り口に立っていた市川ひろみが、薄く笑いながら声をかけた。彼女の服装には乱れはないが、靴の裏にはわずかな泥がついている。逃げ隠れしていた残党の『物理的な処理』を終えてきたのだろう。
「ええ。ですが、この程度の箱庭を制覇したところで、初期投資の回収が終わったに過ぎません」
千葉は冷え切った目で、窓の外に広がる新宿のビル群を見下ろした。
「我々が構築したこの圧倒的な生産ラインとインフラは、世界の規格を塗り替えるためのものです。次なる標的は、グローバル市場です」
「グローバル……海外進出ですか」
真琴が箸を止め、少しだけ緊張した面持ちで千葉を見た。
「アビス・エリクサーのコストパフォーマンスなら、世界市場でも確実にシェアを奪えます。ですが、アメリカの巨大な多国籍ギルドが、黙って私たちの進出を許すとは思えません。彼らは国家の軍事産業と完全に癒着しています」
「だからこそ、正面から彼らと同じ土俵で戦うような非効率な真似はしません」
千葉は手元の端末を操作し、壁面の大型モニターを起動した。
映し出されたのは、地下の専用ラボの映像だ。
雑然としたケーブルの森の奥で、マヤ・ワシントンがオーバーサイズのパーカ姿のまま、複数のホログラムディスプレイに囲まれて高速でキーボードを叩いていた。
『あ、繋がった? ボス、聞いてよ!』
マヤはカメラに気づくと、手元のスタイラスペンを指先で器用に回転させながら、得意げな顔をモニターに寄せた。彼女の頬や服には、機械油や謎のグリスがべっとりと付着している。
『例の第1ゲートの深層から出たって言う、古代のアーティファクトの残骸。あれの解析が完了したわ』
「結果は」
『最高よ。あのガラクタの構造、今アメリカの軍事産業が独占してる最新の魔力炉の特許技術と、根幹の論理式が100パーセント一致してる。つまりね……』
マヤはニヤリと、ストリートで喧嘩を売るような凶悪な笑みを浮かべた。
『あいつらが独自開発したって言い張ってるその技術、元を辿ればダンジョンの遺物の丸パクリだってことよ。ブラックボックス化されてるソースコード、私が全部逆アセンブルして解析済み。私がこのアーティファクトの構造を再定義して先に特許で縛っちまえば、世界中の軍需企業は、アビスに莫大な使用料を払わないと魔力炉を動かせなくなるわ』
真琴の呼吸が浅くなった。
「……それ、本気で言ってますか? アメリカの軍需産業を相手取って、根幹技術の『特許侵害』を突きつける? もしそれが事実だとしても、国家権力そのものと真っ向から戦争することになりますよ」
「我々がルールを作る側へ回るための、強力なカードです」
千葉はモニター越しのマヤに向かって頷いた。
「よくやりました、マヤCTO。あなたの頭脳は、期待通りのリターンを弾き出してくれました」
『でしょ! 私のマスターピースにかかれば、アメリカの軍事機密なんてただのオモチャよ!』
マヤは興奮した様子でラボのデスクを蹴り、立ち上がった。
『今からそっちに行くわ! ボス、約束通りご褒美のハグと、超高級ピザを要求する!』
「ハグ?」
千葉が眉を動かすより早く、モニターの接続が切れた。
数十秒後、プライベートキッチンの扉が勢いよく開かれた。
「ボース! やったわよ私!」
手には油まみれのスパナ、パーカの前面は得体の知れない黒いオイルで汚れきったマヤが、満面の笑みで両手を広げて千葉に向かって突進してきた。
「ちょっと、待ちなさいマヤさん!」
真っ先に反応したのは真琴だった。彼女は椅子から跳ね起き、千葉とマヤの間に立ちはだかった。
「社長のスーツはイタリア製の最高級オーダーメイドですよ! そのオイル塗れの格好で抱きついたら、クリーニング代だけで私の初任給が吹き飛びます!」
「なによ真琴、あんたに関係ないでしょ! これはCTOとしての正当な報酬の要求よ! どきなさい!」
マヤは真琴のブロックをかいくぐろうとステップを踏むが、真琴も負けじと両手を広げてディフェンスする。
「ダメです! 会社の威厳に関わります!」
「威厳より私のモチベーションの方が大事でしょ!」
「あははっ、いいぞマヤ! 行け行けー!」
留美子はカレーうどんの汁を飲み干しながら、完全にプロレスを見る観客のノリで囃し立てている。
「アッシュ、危ないからこっち来なさい」
ひろみは巻き込まれそうになっていた仔犬をひょいと抱き上げ、面白そうにそのドタバタ劇を眺めていた。
「ちょっと、ひろみさんも手伝ってくださいよ!」
「私は物理的な危険からボスを守るのが仕事だから。服の汚れはコンプライアンスの管轄外ね」
「そんな理屈ありますか!」
狭いキッチンで繰り広げられる、知的な女性たちによる低レベルな攻防。
騒がしい部下たちの姿を、千葉は止めることもなく、ただ静かに見下ろしていた。
「……やかましい連中だ」
低い呟き。だが、その声に怒りはなく、どこかこの騒がしさを許容しているような響きがあった。
非効率で、計算外のノイズばかりを発生させる共犯者たち。だが、彼女たちが持つそれぞれの規格外の才能が完璧に噛み合った時、どれほど巨大なシステムをも破壊し得るか、千葉はすでにこの極東の地で証明してみせた。
「久保CFO、マヤCTO」
千葉の冷たく透き通るような声が落ちると、揉み合っていた真琴とマヤがピタリと動きを止めた。
「じゃれ合いはそこまでにしておきなさい。マヤ、服を着替えたら、ピザのデリバリーを手配してやろう。久保は、アメリカ国防総省と軍需ギルド群の過去10年分の特許申請履歴をすべて洗い直せ」
真琴が乱れたスーツの襟元を直し、表情を引き締めた。
「……相手の反撃に備えるのですね」
「向こうが我々の動きに気づけば、確実に理不尽な圧力をかけてくるでしょう。その前に、法的・経済的な防衛線を完璧に張り巡らせます。法務チームは徹夜になりますよ」
「……了解しました」
真琴は小さく息を吐き、自身のタブレットを手に取った。マヤは「やった! ピザ!」と無邪気にガッツポーズをしている。
東京のネオンが、眼下で無数に瞬いている。
千葉は手元の冷めたペリエのグラスを傾け、静かに喉を潤した。足元で丸くなったアッシュが小さく欠伸をする音が、深夜のオフィスに微かに響いた。




