第19話 公開処刑配信
アビス・マイニング本社のCEO室。
最高級のペルシャ絨毯の上で、灰白色の毛玉が仰向けに転がり、短い四肢を空に向けてジタバタと動かしていた。
生後数ヶ月のシベリアンハスキーの仔犬、アッシュである。彼は今、自身の腹部を優しく撫でる久保真琴の手のひらに完全に屈服し、喉の奥で「キュルル」という満足げな音を鳴らし続けていた。
「よしよし、いい子ですね。今日は粗相してませんね」
真琴は膝立ちになり、少しだけ声のトーンを上げてアッシュの首筋を掻いた。連日の激務で張り詰めた彼女の神経にとって、この無防備な仔犬の体温は唯一の精神安定剤になりつつある。アッシュは真琴の指先に甘噛みしようと口を開くが、まだ乳歯すら生え揃っていない柔らかい歯茎が当たるだけだ。
デスクの向こう側では、千葉秀俊が複数のモニターに表示された海外市場のチャートから視線を外すことなく、キーボードを規則的なリズムで叩き続けている。アッシュが時折出す甘え声にも、千葉の冷徹な横顔は一切の揺らぎを見せない。室内に響くのは、空調の微かな稼働音と、タイピングの音、そして仔犬の呼吸音だけだ。
「……久保CFO。休憩は5分までです。マヤCTOから提出された次期プラントの減価償却モデルの承認がまだのはずですが」
「わかっています。あと10秒だけ……」
真琴が名残惜しそうにアッシュの頭を撫でた、その時だった。
彼女のスーツのポケットに入っていた社用スマートフォンが、耳障りな電子音を鳴らした。通常の着信音ではない。真琴自身が設定した、最高レベルの緊急アラートだ。
真琴の顔から一瞬で弛緩が消え、即座にスマートフォンを引き抜いた。画面に表示された通知のヘッダーを一瞥し、血の気が引くのを感じた。
「……社長」
真琴は立ち上がり、ビジネスマンとしての鋭い声で報告した。
「第5C級ゲートの監視システムがレッドゾーンを突破しました。魔素濃度が規定値の400パーセントを超過。……スタンピードの初期兆候です」
千葉のキーボードを叩く手がピタリと止まる。
「管轄は」
「関東魔薬連盟の傘下ギルドです。昨日、このオフィスであなたに直接脅迫まがいの抗議をしてきた、あの理事長たちの息がかかった場所です」
「発生源から我が社の第3物流プラントまでの距離は」
「直線で約3キロ。モンスターが市街地に溢れ出せば、進行ルート上に完全に被ります」
背後のガラス扉が開き、市川ひろみが音もなく社長室に入ってきた。その手には薄いタブレットが握られている。
「ボス、裏は取れてるわ」
ひろみはタブレットを千葉のデスクに滑らせ、再生ボタンをタップした。
「第5ゲートの制御室周辺の監視カメラの映像。昨日の夜から意図的にループ再生に切り替えられてた。でも、うちのシステムでバックドアから生データを引っこ抜いたら、連中の息がかかった作業員が魔力抑制装置の基盤をバールで物理的に破壊してる証拠がばっちり映ってたわ」
映像を見た真琴は、絶句した。
「……わざと暴走させたんですか? 彼ら、ポーションの価格競争に負けて倒産寸前だったはずです。アビスの物流拠点をモンスターに破壊させて、同時にうちの管理体制を批判する風評を流すために……一般市民を巻き込んだって言うんですか」
「浅はかですね」
千葉は万年筆をデスクに置き、静かに立ち上がった。
「自らの経済的な死を直視できず、暴力という最も非効率な手段に訴える。社会のシステムを理解していない人間の末路です。……ひろみ、いつでも警察とメディアに流せるようデータを暗号化して待機させなさい」
「了解。でも、もう外には溢れ出してるわよ」
「後処理の書類など後回しでいい」
千葉はジャケットを羽織り、デスクの上の社用端末を手に取った。
「松尾部長を呼べ。大衆が求めているのは、事後の退屈な裁判記録ではない。燃え盛る火の中で悪党が裁かれる、生々しいエンターテインメントだ」
★★★★★★★★★★★
東京都下、第5C級ゲート周辺の市街地は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。
「逃げろ! ゲートが破られたぞ!」
「なんでギルドの連中がいないんだよ! 誰か、警察を!」
普段は厳重に管理されているはずのゲートを囲む防壁が、内側からの凄まじい圧力によってひしゃげ、崩落していた。土煙を上げて溢れ出してきたのは、C級ダンジョン特有の凶悪なモンスターの群れだった。
筋骨隆々のオークの小隊、鋭い牙を剥き出しにしたブラックウルフの群れ。その数は優に数百を超えている。アスファルトを踏み砕く重低音が、周囲の建物の窓ガラスをビリビリと震わせていた。
本来であれば、常駐している管轄ギルドのハンターたちが第一陣として防衛にあたるはずだ。しかし、彼らの姿はどこにもない。「事故」を装うために、事前に配置を外されていたのだ。
逃げ遅れた一般市民の悲鳴が交差する中、先頭を走る巨大なオーク・ジェネラルが、路上に乗り捨てられた乗用車を軽々と持ち上げ、威嚇するように咆哮を上げた。
そのオークの巨体が、次の瞬間、真横から凄まじい速度で飛来した「黒い塊」によって、車ごと真っ二つに両断された。
「おらっ! 邪魔だ、どけ!」
轟音と血しぶきの中、アスファルトを深く抉りながら着地したのは、身の丈ほどもある黒鋼の大剣『ニーズヘッグ』を肩に担いだ菅原留美子だった。返り血を避けるように身を屈め、鋭い視線で周囲の群れを睥睨する。
「ひっ……!」
「な、なんだ、あの子……」
腰を抜かしていた市民たちが、突如現れた少女の常軌を逸した暴力に息を呑む。
留美子の背後から、黒塗りの装甲SUVがタイヤを軋ませて急停車した。
助手席から飛び出してきたのは、ゴツい機材リュックを背負い、両手に最新型のジンバル付きカメラを構えた松尾伸子だった。彼女の耳には、本社と直結したインカムが光っている。
「はい、皆さん! アビス・マイニング広報部の松尾です! 現在、第5ゲート前で異常事態が発生しています!」
伸子は、背後でオークの群れが留美子に向かって殺到する絶望的な光景をバックに、悲痛な顔を作ってカメラに向かって叫んだ。
「管轄ギルドのハンターは誰一人いません! 彼らは住民を見捨てて逃亡しました! でも安心してください、アビス・マイニングのS級ハンターが、今、ボランティアで防衛にあたっています!」
伸子のインカムに、本社の真琴から緊迫した声が飛ぶ。
『松尾部長、配信の同時接続数、現在30万人を突破。SNSのトレンド1位を獲得しました。急激な速度で拡散しています』
『オッケー真琴ちゃん。最高のタイミングで、ひろみさんのアレ、流して!』
伸子がカメラの視点を留美子の背中へと切り替える。
数十頭のブラックウルフが、建物の壁を蹴り、四方から一斉に留美子に牙を剥いて飛びかかった。
「チッ、数ばっかりいっちょ前に……!」
留美子は大剣を片手で軽々と振り回し、竜巻のような軌跡を描いてウルフの群れをミンチに変えていく。血の雨が降り注ぐが、倒しても倒しても、崩落したゲートの奥からは際限なくモンスターが湧き出してくる。
「ハァッ……ハァッ……」
大剣の柄を握り直す留美子の息は荒かった。だが、その双眸に疲労の色はなく、背後の伸子が構えるカメラのレンズ位置を正確に把握する冷徹さが宿っている。彼女はわざと歩みを遅らせ、追い詰められた悲壮感を全身で演出していた。
『皆さん、見てください……! 彼女は一人で、命を懸けて街を守っています!』
伸子の震える声が、配信を見ている何十万人の感情を直接揺さぶる。
『それなのに……この悲劇は、本当に事故だったのでしょうか!?』
配信画面の右下に、ワイプで一つの映像がカットインした。
薄暗い制御室で、関東魔薬連盟のロゴが入った作業着を着た男たちが、ゲートの安全装置をバールで物理的に破壊し、笑いながら立ち去る様子がはっきりと映し出された防犯カメラの映像だ。
コメント欄の滝のような流れが、一瞬だけ止まり、直後に爆発した。
『は? なにこれ』
『ふざけんな、意図的にゲート壊したってことか!?』
『魔薬連盟の連中、自分たちの会社が潰れそうだからって街を巻き込んだのか!』
『人殺し! テロリストだろ!』
大衆の恐怖と義憤が、明確な怒りとなって画面の向こう側で沸騰する。
『こんなの……許されません! 彼らは自分たちの利益のために、何百人もの命を道具にしたんです!』
伸子はカメラのレンズ越しに、完璧なタイミングで一筋の涙を流してみせた。
『留美子ちゃん! もう少しだけ、頑張って! 今、本社から補給が……!』
SUVの後部座席のドアが開き、千葉秀俊が静かに降り立った。
彼は弾雨のように飛び交うモンスターの血しぶきや土煙を全く意に介さず、平坦な足取りで留美子の背後へと歩み寄る。
「ボス!」
留美子が迫り来るオークの戦斧を大剣で弾き飛ばし、千葉を振り返る。
千葉は懐から、透き通るようなマリンブルーの液体が入った小瓶を取り出し、留美子に向かって無造作に放り投げた。
「アビス・エリクサーだ。飲め」
「おう!」
留美子は空中で小瓶を受け取り、親指で蓋を弾き飛ばすと、一気に喉に流し込んだ。
瞬間、彼女の身体からS級特有の暴力的なまでの魔力圧が、青白いオーラとなって全身から噴き出した。カメラのレンズが魔力光に反応してフレアを生むほどの眩さだ。
「うおおおおッ! なんだこれ、すげえ魔力が湧いてくる! 味もマスカットで美味え!」
留美子は歓喜の声を上げ、大剣の柄を両手で固く握り直した。
「全制圧を許可する」
千葉は短く命じ、車の影へと下がった。
「っしゃあああ! 行くぞオラァ!」
限界を超えた魔力を乗せた『ニーズヘッグ』が、横薙ぎに一閃される。
放たれた剣圧は物理的な衝撃波となり、アスファルトをめくり上げながら前方の空間ごとオークの群れをなぎ払った。数十体の巨大なモンスターが宙を舞い、建物の壁に叩きつけられて絶命する。
たった数秒。
留美子の一撃と、アビス・エリクサーの圧倒的な効能が、配信画面を通して世界中に証明された。
コメント欄は、先ほどの怒りから一転し、熱狂的な歓声に包まれた。
『すげえええええ!』
『アビスのエリクサー、マジで一瞬で魔力回復してるぞ!』
『値段半分でこの効果!? 今までのポーションは何だったんだよ!』
『アビス最高! 魔薬連盟のクズどもは全員刑務所に行け!』
伸子はジンバルを操作し、モンスターの死骸の山の上に立つ留美子と、その後ろで静かに佇む千葉の姿を、完璧なアングルで切り取った。
「……カット。配信終了」
伸子がインカムで小さく呟くと、カメラの赤いランプが消えた。
「お疲れ様です、松尾部長」
千葉がSUVの影から歩み出てくる。
「いやー、最高の絵が撮れましたよ! 同時接続数、最終的に120万人超えました。公取委も警察も、これで完全にうちの味方です。世論が魔薬連盟を絶対に許しませんからね」
伸子は興奮冷めやらぬ様子で、タブレットの数字を見せつける。
「ええ」
千葉は手元のスマートフォンを取り出し、真琴からの報告メッセージを確認した。
『魔薬連盟の主要法人の銀行口座、すべて凍結完了。特捜部がオフィスを包囲しました』
千葉はその通知を無表情のままスワイプして消した。
「あー、腹減った! ボス、これで帰って肉食えるか!?」
大剣の血振るいを終えた留美子が、無邪気な顔で駆け寄ってくる。
「予定通りの働きです。帰還後、適正なカロリーを補給してやりましょう」
千葉はSUVのドアを開けた。
「松尾部長は警察の現場検証に立ち会い、被害者としてのスタンスを貫くように。……私は本社に戻る。アッシュの餌の時間が近い」
千葉はハイヤーの後部座席に乗り込み、ドアを閉めた。パトカーと救急車のサイレンが遠くから近づいてくる音を聞きながら、彼は次の市場制圧に向けたロードマップを脳内で組み立て始めていた。




