第18話 ポーション価格破壊
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社の最上階。
そのラウンジエリアには、午後特有の気怠い日差しが差し込んでいた。
フローリングの床に置かれたステンレス製のウォーターボウルの前で、シベリアンハスキーの仔犬、アッシュが真剣な顔で水面と睨み合っていた。
彼はここ数日、この銀色の器の中に溜まっている「揺れる透明なもの」の正体を突き止めようと試行錯誤を繰り返している。ピンと立ちきっていない三角の耳をピクピクと動かし、鼻を近づけて匂いを嗅ごうとするが、無臭の液体からは何も情報が得られない。
短い前足を伸ばし、水面に映る自分の鼻先をペシッと叩く。
当然、水飛沫が上がり、アッシュの両前足は器の中へズボリと沈み込んだ。
「ヒャンッ」と小さく鳴き、肉球から伝わる冷たさにブルブルと首を振る。だが、アッシュは器から足を抜こうとせず、水没した自らの前足を不思議そうに覗き込んでいた。鼻先を水面に近づけすぎてクシャミを放ち、また周囲に水滴を撒き散らす。
その時だ。
『チーン!』
ラウンジの奥、簡易キッチンのカウンターから、澄んだ卓上ベルの音が響いた。
「アッシュー! メシだぞー!」
プレミアムドッグフードの缶詰を開けた菅原留美子の声が飛ぶ。
瞬間、アッシュは水没していた前足のことなど完全に忘れ、弾かれたように振り返った。
シャカシャカとフローリングで爪を滑らせ、猛烈なダッシュで留美子の元へ向かう。その後ろには、ビチャビチャと濡れた足跡が一直線に点々と残されていた。
「あーあ。また床が水浸し」
ソファでコーヒーを飲んでいた市川ひろみが、呆れたようにため息をついた。
彼女は手元のタブレットから視線を外さず、長い脚を組み替える。
「真琴、モップ」
「……今、それどころじゃないんです……ッ!」
ラウンジに隣接する広大な執務エリア。
久保真琴は、自身のデスクに並んだ3枚の大型モニターを前に、血走った目でキーボードを叩き続けていた。彼女のデスクの上には、読みかけの分厚い独占禁止法のコンメンタールと、特許庁の電子出願システムの完了画面を印刷した紙束、そして半分ほど中身の減ったエナジードリンクの空き缶が乱雑に散らばっている。
中央のモニターに表示された自社ECサイトのトラフィック監視ツールは、警告を示す赤色のフラグを絶え間なく点滅させていた。
「注文サーバーへのアクセスが、ローンチ時から15000%増で張り付いています! クラウドのオートスケーリング上限を突破しました。これ以上はロードバランサーが耐えきれません。現在、購入待機列が5万人を超えています!」
真琴の悲鳴に近い報告に、社長室の重厚な扉が開いた。
千葉秀俊が、手元のタブレットに目を落としたまま執務エリアへと歩み出てきた。その歩みには焦りなど微塵もなく、ただ冷徹に処理すべきタスクを順番に消化していく機械のような静けさがあった。
「想定の範囲内です。サーバーが落ちる前に、一時的にアクセス制限をかけなさい。ボトルネックは物流ではなく、決済システム側にあります」
「了解。決済ゲートウェイのトランザクション制限を解除するよう、プロバイダに緊急要請を投げます。……マヤCTOの生産ラインの状況は?」
真琴がインカム越しに問いかけると、右側のモニターに専用ラボにいるマヤ・ワシントンの顔が映し出された。彼女は自作の魔素分子分離フィルターの巨大なタンクの前に立ち、得意げに親指を立てている。
『うちの子たちは完璧に働いてるわよ。第3ゲートから採掘された粗悪な魔石をコンベアに流すだけで、粉砕、抽出、不純物濾過、ボトルへの充填まで全自動。日産20万本ペースで回してるけど、エラー率は0.001%未満ね』
「でも在庫が数時間で蒸発していくんですよ! 倉庫からの出荷トラックの手配が追いつきません!」
真琴はキーボードを叩く手を止め、深く息を吐き出した。
アビス・マイニングが突如として市場に投入した新製品、『アビス・エリクサー』。
販売価格を既存のポーションの「半額」に設定しても、圧倒的なコストパフォーマンスを誇るその製品は、発売からわずか24時間で国内市場の需要を完全に飲み込もうとしていた。
「松尾部長のプロモーションが、決定打でしたね」
真琴は左側のモニターに表示された、SNSのトレンド画面を指差した。
『#泥水ポーション』『#アビスエリクサー』というハッシュタグが、国内トレンドの1位と2位を独占している。
火付け役は、松尾伸子が昨日公開した動画だ。
動画の中で、伸子は茶色く濁った従来のポーションと、透き通るようなマリンブルーのアビス・エリクサーを実際に飲み比べてみせた。民間の検査機関に持ち込んだ成分分析表と、不純物の拡大画像を並べたその動画は、瞬く間に数百万回再生を突破した。
画面上を猛烈な速度で流れていくコメント群が、事態の深刻さを物語っている。
『今まで俺たちが飲んでたのはマジで泥水だったのかよ』
『大手ギルドのポーション、ぼったくり確定。返金しろ!』
『アビスの新作、擦り傷が一瞬で治った。しかもマスカット味で飲みやすい』
カスタマーセンターへの問い合わせフォームには、既存のポーションメーカーや卸売業者に対するハンターたちの憤りの声が殺到している。長年、不純物まみれの不良品を高値で買わされていた事実を知った彼らの怒りは、市場の勢力図を一瞬にして塗り替えた。
「法務リスクは」
「クリア済みです」
真琴は千葉の短い問いに、即座に答えた。
「原価報告書は公取委に提出済み。特許出願も米国と日本で完了しています」
「よろしい」
千葉がタブレットの画面をスワイプしたその時、オフィスのエントランス方面から、怒鳴り声が響いた。
「アビスの社長を出せ! こっちは関東魔薬連盟の理事長だぞ! アポがないからって追い返す気か!」
オペレーターたちが必死になだめているが、初老の男数名が強引に執務エリアへと押し入ってきた。彼らは国内のポーション製造と流通を牛耳ってきた、既存の既得権益のトップたちだった。
顔を真っ赤に怒らせた男たちの先頭に立つ理事長が、千葉の姿を見つけるなり指を突きつけた。
「千葉ァ! ふざけるな、あんな価格破壊をされては、我々の工場のラインがすべて止まる! 下請けも含めて何万人が路頭に迷うと思っているんだ!」
千葉は表情一つ変えず、ゆっくりと顔を上げた。
「何万人も抱えているから、その無駄なコストが製品価格に転嫁されるのでしょう。市場が求めているのは最適化です。非効率な製造ラインに固執したあなた方の怠慢が、現在の結果を招いたに過ぎない」
「長年築き上げたギルド間の流通網を何だと思っている! 原価割れのダンピングで市場を荒らして、後から価格を吊り上げる腹だろうが! 独占禁止法で訴えてやる!」
「どうぞ。ですが、我々は現在の半額という価格でも十分な利益を出しています。公取委もすでに我々の正当性を認めている」
真琴が冷たく言い放ち、デスクのモニターに公取委からの受理通知を表示させた。
「……こんな、こんな横暴が許されてたまるか! お前たちの工場を物理的に止めてやる!」
追い詰められた男の一人が、絶望から理性を失い、右手に火球の魔法を練り上げようとした。
C級程度の微弱な魔力。だが、オフィス内で放たれれば機材に被害が出る。
その男の右手が振り上げられるより早く。
「無駄よ。それ以上魔力を練ったら、指の神経を完全に切断するわ」
男の背後に、いつの間にか市川ひろみが立っていた。
彼女の左手には、鈍く光るカランビットナイフが握られ、その刃先が男の右手首の動脈にピタリと当てられている。一切の殺気を漏らさず、背後を取られた男は息を呑んで完全に硬直した。男の右手に集まりかけていた熱が、急速に霧散していく。
「……ヒッ」
「下がりなさい。ボスのオフィスを汚したくないの」
ひろみの冷たい声に、男たちは怯え、後ずさりした。
千葉はタブレットをデスクに置き、理事長の目を見据えた。
「あなた方には2つの道があります。1つは、そのまま倒産し、膨大な負債と不良在庫を抱えて自己破産すること。もう1つは……」
静寂が降りたオフィスで、千葉の平坦な声だけが響く。
「我々が『アビス・エリクサー』のボトリングと配送のみを委託する、ただの物流インフラとして我が社の傘下に入ることです。利益率はこれまでの10分の1に落ちますが、法人の箱と最低限の雇用は維持できる。……明日までに答えを出しなさい」
圧倒的な技術力と、それを守る完璧な法の防壁。
相手の逃げ道をすべて塞いだ上での、一方的な通告だった。
理事長は何も言い返せず、その場に立ち尽くした。
怒りで赤く染まっていた顔からは急速に生気が失われ、唇がわなわなと震えている。反論の糸口すら見つからないという現実の重さに耐えきれず、彼は隣にいた男に肩を支えられながら、足を引きずるようにしてオフィスから去っていった。
「……綺麗に片付いたけど、恨みは買ったわね」
ひろみはカランビットナイフを慣れた手つきで折りたたみながら、閉ざされたエントランスの扉を見遣った。
「あの手の老人たちは、長年築き上げたプライドをへし折られると何をしでかすか分からないわよ。法や経済で首を絞められれば、手持ちの暴力を無秩序に振り回す手合いもいる」
「ええ。窮鼠は猫を噛む。数字の論理が通じない相手は、社会のシステムにおける最大のバグです」
千葉はネクタイの結び目をわずかに直し、真琴の方へ向き直った。
「彼らが手持ちの権限で、我々に最も致命的な嫌がらせをするとしたら、何ですか。久保CFO」
真琴はキーボードの上に手を置いたまま、数秒思考を巡らせた。
「……彼らのギルドが管理しているダンジョンのゲートです。わざと管理を怠り、モンスターを外に溢れさせる……スタンピードの誘発。もしうちが管轄する主力ゲートの近くでそれを起こされれば、甚大な風評被害と物理的被害が出ます」
「その通りです。彼らが保有するダンジョンの管理体制をすぐに洗い出しなさい。特に、意図的な暴走を引き起こせるような、ずさんなゲートの動向を監視リストに入れるように」
「了解しました。周辺の魔素濃度の異常値アラートの閾値を下げ、常時監視体制に移行します」
真琴は即座に新たなウィンドウを開き、ダンジョン庁の公開データと自社の監視システムをリンクさせる作業に入った。
「キュゥン?」
静寂を取り戻した執務エリアの床を爪で叩く音と共に、ご飯を平らげて口の周りを汚したアッシュが、トコトコと千葉の足元にやってきた。
先ほどの水遊びで床につけた濡れた足跡を、再び千葉の高級な革靴に擦り付ける。
「……汚いな」
千葉は短く呟いた。
彼は革靴の先を濡らす仔犬を見下ろしたまま、傍らのサイドテーブルからペーパータオルを一枚引き抜く。そして、身を屈めてアッシュの濡れた前足と口の周りを、事務的な手つきで静かに拭き取った。




