第16話 契約のバグ
新宿にそびえ立つアビス・マイニング本社の最上階。
新たにCTO(最高技術責任者)として迎え入れられたマヤ・ワシントンのために用意された専用ラボは、日本の最先端機器と、彼女がブルックリンから持ち込んだガラクタ同然のパーツ群が混沌と入り混じる、特異な空間と化していた。
その隣の会議室で、久保真琴は深い溜息とともに頭を抱えていた。
広大なデスクの上には、アメリカの裁判所から取り寄せたトライデント・アームズの数百ページに及ぶ契約書類が、言語の壁というよりは悪意の壁となって高く積み上がっている。軍需産業特有の難解な法律用語と、何重にも張り巡らされた防衛的な条項が、真琴の体力を削り取っていた。
「……違約金10億ドルの支払いは完了し、マヤさんの退職手続き自体は合法的に通りました。しかし、問題はその後です。過去に彼女が開発した技術特許は、すべてトライデントに帰属するという条項が強固すぎます」
真琴はマグカップの冷めたコーヒーを喉に流し込み、乾いた目を強く瞬きさせた。
「彼らは現在、破産申請の準備に入っていますが、特許などの知的財産は別会社に移管して保全する動きを見せています。マヤさんがアビスで新しい開発を始めるにしても、少しでも過去の技術の応用とみなされれば、確実に特許侵害で訴えられます。アメリカの連邦裁判所を巻き込んだ訴訟となれば、数年単位の時間が奪われることになります」
「だろうね。あいつら、私の脳みその中身にまでタグを付けて管理してるつもりだから」
ラボと会議室を隔てるガラス戸の向こうから、マヤがピンク色のガムを噛みながら顔を出した。オーバーサイズのパーカーに身を包み、手には真新しいハンダごてを握っている。日本の最新設備に囲まれ、彼女はここ数日、まともな睡眠も取らずに基盤と向き合っていた。
「一からまったく違うアプローチで回路を組み直してもいいけど、それだと完成までに半年はロスするわよ。ボスがそんなタイムスケジュールを許すとは思えないけど」
「許しませんね」
部屋の隅、黒い革張りのソファでタブレットの画面をスクロールさせていた千葉秀俊が、手元から視線を外さずに淡々と応じた。
「私が買い付けたのはあなたの『これから』だけでなく、『これまで』のすべてだ。現代のダンジョン市場において、半年という空白は企業としての死を意味します。久保CFO、彼らの防壁を崩す論理は」
「探しています。ですが、アメリカの国防総省とズブズブの軍需企業が作った契約書です。そう簡単に抜け道が見つかるような杜撰な作りには……」
真琴が言葉を濁したとき、足元から「クゥン」という小さな鳴き声が聞こえた。
視線を落とすと、シベリアンハスキーの仔犬、アッシュが真琴のストッキングを短い前足でカリカリと引っ掻いていた。留美子がダンジョン探索に出ている間、社長室やこのフロアで放し飼いにされているのだ。
アッシュは真琴を見上げた後、トコトコと部屋の隅に置かれたステンレス製のウォーターボウルへと歩いていった。
喉が渇いているのだろう。しかし、まだ生後間もないアッシュは、ボウルの中に溜まっている「水面」という概念がうまく理解できていないようだった。
ボウルの縁に顎を乗せ、不思議そうに水面に映る自分の顔を覗き込む。
ピチャ、と前足で水面を叩き、波紋が広がるのに驚いて小さく後ずさる。
数秒の警戒の後、アッシュは意を決したように、ボウルの中へ勢いよく鼻先を突っ込んだ。
「ブブッ、ブフッ!」
当然、鼻の穴に水が入り込み、アッシュは激しくむせ返った。短い足でジタバタと後ずさり、ブルブルと頭を振って周囲に水飛沫を撒き散らす。
「あっ、もう。アッシュ、大丈夫ですか?」
真琴は慌ててデスクのティッシュを引き抜き、アッシュの濡れた鼻先を丁寧に拭いてやった。アッシュはクシュンと1度くしゃみをし、恨めしそうにウォーターボウルを睨みつけている。
「水は舌で掬って飲むんですよ。表面だけを、こうやって……」
真琴が指先で水面を軽く叩いて教えようとしたその時、彼女の動作がピタリと止まった。
表面。既存の枠組み。見えている境界。
真琴の視線が宙を泳ぎ、やがてデスクの上に積み上げられた分厚い契約書の一点に固定された。彼女はアッシュの背中を撫でていた手を止め、無言のままバサリと紙の束を引き寄せた。
「……どうしました」
千葉がタブレットから顔を上げる。
真琴の指先が、数百ページに及ぶ書類の束から特定の1ページを的確に引き抜き、猛烈な速度で活字の列をなぞっていく。
「マヤさん。トライデントがマヤさんにサインさせた特許の対象範囲って、具体的にどう定義されていますか?」
「どうって、私が組んだ回路も、アーティファクトの解析データも全部よ。彼らは『軍事目的におけるすべての成果物』って括りで縛ってるはずだけど」
マヤが怪訝そうに答える。
「そこです」
真琴は該当のページをデスクの真ん中に置き、ボールペンの先で特定のパラグラフを強く叩いた。
「トライデントは米国防総省の軍事機密に抵触することを極度に恐れています。そのため、マヤさんが扱っていた『ダンジョン由来の未知のテクノロジー』という存在を、契約書上ではあえて曖昧に処理している。彼らの契約書における特許の定義は、すべて『既存兵器の延長線上にある部品・システム』として米国特許商標庁に申請されているんです」
真琴は千葉の方へ向き直り、真っ直ぐにその目を見た。
「マヤさんの技術の根幹は、ダンジョンという未知の領域の解析です。それが『既存兵器の部品』の枠組みには収まらないと我々が技術的に証明すれば、トライデントの特許申請そのものが虚偽の申告に該当し、連邦法違反で無効化できます」
マヤが口の中でガムを膨らませ、パチンと弾けさせた。
「……なるほどね。軍の機密指定から逃れるために張った予防線が、自分たちの首を絞めるってわけだ。弁護士さん、いい仕事するじゃない」
「書類の準備を。直ちに米連邦地方裁判所へ、彼らの特許権の無効確認と移管の仮処分申し立てを行います」
千葉は立ち上がり、静かに指示を出した。
「手配はすでに進めています。数時間後には、裁判所から彼らへの通知が届くはずです」
真琴の淀みない返答に、千葉は短く頷き、窓の外の新宿の街並みへと冷たい視線を向けた。
★★★★★★★★★★★
アビス・マイニング本社の地下3階。
VIP専用の地下駐車場は、重苦しい静寂と、コンクリートに染み付いた排気ガスの匂いに包まれていた。
照明は必要最低限に落とされており、巨大な柱の影が濃く伸びている。
その暗がりの中に、暗視ゴーグルを装着し、消音器付きの特殊火器で武装した男たちが4人、音もなく潜伏していた。
トライデント・アームズの非公認実働部隊。
株価暴落とFBIの捜査の手から逃れた彼らは、会社を破滅に追いやった元凶であるマヤ・ワシントンと、アビスのトップである千葉を確実に排除するため、海を渡ってきていた。
リーダー格の男が、ハンドサインで配置を指示する。
彼らの装備は、ダンジョンの魔素を利用した軍用グレードの光学迷彩コートだった。日本の警察の監視網はおろか、通常のハンターの索敵スキルすら完全にすり抜ける代物だ。
『ターゲットの車両が間もなく到着する。女の技術者は確実に頭を撃ち抜け。データの入った端末も残すな』
インカム越しに短い命令が飛ぶ。
しかし、その通信に微かなノイズが混じった。
『……ええ。残さないわよ』
インカムの暗号化回線に、部隊の誰も知らない、冷たく透き通った女の声が響いた。
リーダーが異変を察知して背後を振り返るより早く、彼の右斜め後方に配置についていた部隊員の体が、不自然な角度に折れ曲がって床に崩れ落ちた。
光学迷彩が解除され、空気が揺らぐ。
そこに立っていたのは、タイトな黒のパンツスーツを着崩した市川ひろみだった。
残りの3人が咄嗟にひろみへ銃口を向ける。
だが、ひろみは銃弾を避ける素振りすら見せなかった。彼女の足元の影が不自然に膨張したかと思うと、ひろみの体そのものが床の影の中へ溶けるように沈み込んだ。
「上だ!」
コンクリートの天井の暗がり。そこに張り付いていたひろみが、音もなく落下する。
両手に握られた短刀が、冷たい銀色の弧を描いた。
ひろみは着地の勢いを利用して、2人目の頸動脈を正確に切り裂いた。男が声を出そうとする隙も与えず、そのままの低い姿勢から滑り込むように3人目の背後へ回り込み、短刀の硬い柄で頸椎を強打して完全に沈黙させる。
一瞬の出来事だった。
残されたリーダーは、長年の戦場の勘で即座に後退し、腰から魔力コーティングされたコンバットナイフを引き抜いた。至近距離で銃は間に合わない。
男が咆哮と共に踏み込み、ナイフを袈裟懸けに振り下ろす。
ひろみは最小限の足捌きでその凶刃を躱し、すれ違いざまに男の右手首を掴んだ。骨が軋む嫌な音が地下駐車場に響く。
関節を外された男が苦悶の声を漏らした瞬間、ひろみの鋭い肘打ちが男の側頭部に直撃した。
一切の無駄を省いたその一撃が、男の意識を完全に刈り取った。
コンクリートの冷たい床に、4つの体が転がる。
ひろみは短刀に付着した血を軽く振り払い、スーツの襟元を正した。彼女の呼吸は、まるで軽いストレッチを終えた程度にしか乱れていない。
ポケットで振動したスマートフォンを取り出し、耳に当てる。
「終わったわ、ボス。ゴミは4つ。後処理の部隊を回して」
『ご苦労様です、市川CCO』
電話越しの千葉の声は、当然の結果を確認しただけの平坦なものだった。
ひろみは足元に転がった男たちを一瞥し、短い通話を切った。
★★★★★★★★★★★
アビス・マイニング本社のCEO室。
千葉はスマートフォンをデスクに置き、目の前に立つマヤを見据えた。
千葉は、真琴が作成した特許移管の完了通知書を、マヤの前に滑らせた。
「これで法的な障害はすべて消滅しました。あなたの過去の特許も、これからの技術も、すべてこのアビス・マイニングのインフラ基盤の上で自由に稼働させることができる」
マヤはその書類を一瞥し、ふっと満足げな笑みを浮かべた。
彼女はデスクに両手をつき、身を乗り出して千葉の顔を見つめ返す。
「当然でしょ。あんたが用意したこの環境、最高に頭が回るわ。これで心置きなく、機材をいじり倒せる」
マヤは姿勢を戻し、首を鳴らした。
その瞳には、かつてブルックリンの薄暗いガレージで燻っていた頃の諦めはない。技術者としての明確な野心と、自らの才能を全開にできる歓喜が満ちていた。
「とりあえず、第1弾のオーダーは何? ボス」
「既存のポーション製造ラインの再定義です。現在の市場価格を完全に破壊し、他社が追随不可能なコストと品質のラインを構築しなさい」
「了解。3日でプロトタイプを上げるわ。……あ、その代わり」
マヤは部屋の隅で、真琴の足元に丸くなって寝ているアッシュを指差した。
「今夜はラボにピザとコーラを差し入れること。それと、そこの毛玉を数時間貸して。息抜きにモフるから」
千葉は薄く口角を上げ、静かに頷いた。




