第14話 アメリカ視察と飼い殺しの天才
新宿の新オフィス。まだ大半の社員が出社していない午前7時過ぎの静寂を、小さな爪がフローリングを掻くリズミカルな音が破った。
「キュゥン! バウッ!」
エレベーターホールに姿を見せた千葉秀俊の足元へ、灰白色の毛玉が猛烈な勢いで突撃してくる。
生後間もないシベリアンハスキーの仔犬、アッシュだ。まだ立ち切っていない三角の耳をパタパタと揺らし、千葉の革靴のつま先に前足を乗せると、短い尻尾をちぎれんばかりに振って見上げた。アイスブルーの丸い瞳が、全身で歓喜を表現している。
千葉は歩みを止め、ゆっくりとしゃがみ込んだ。
大きな手がアッシュの胸部を下から掬い上げ、空中に持ち上げる。アッシュは暴れることなく、喉の奥でゴロゴロと甘えた音を鳴らしながら、千葉の親指の付け根を遠慮がちに甘噛みし始めた。
「……少し重くなったか」
千葉はアッシュの背中を一定のリズムで撫で下ろしながら、ぽつりと呟いた。アッシュは気持ちよさそうに目を細め、千葉の分厚い胸板に頭を擦り付ける。
背後から、キャリーケースのキャスターが床を滑る音が近づいてきた。
久保真琴だ。長時間のフライトを想定した、動きやすいダークグレーのセットアップを着ている。彼女は手元のタブレットで直前まで資料を確認していたのか、少し目を細めていたが、その足取りは力強い。
「アメリカ入国用のビザ、および現地での法人設立に向けた基礎書類、すべて整っています。市川CCOのルートのおかげで、税関のクリアランスもスムーズに通りそうです」
「ご苦労様です」
千葉がアッシュをそっと床に下ろすと、奥のラウンジから菅原留美子が大きな欠伸をしながら姿を現した。
「なんだよボス、もう行くのか? アタシもアメリカ行きてえ! 本場のデカいステーキ食いたい!」
「お前は留守番だ、留美子」
千葉に代わって答えたのは、真琴の横に音もなく並んだ市川ひろみだった。タイトな黒のパンツスーツに、レザージャケットを羽織っている。首筋のタトゥーが、朝の光の中でも妖しく存在感を放っていた。
「私とボスが空ける数日間、国内の連中がどう動くかわからない。真琴が組み上げた防壁を、物理的に突破しようとする馬鹿が出た時のための消火器よ、お前は」
「えー……つまんねえの」
「国内の防衛と、この仔犬の管理を完遂しろ」
千葉は床で自分の靴紐と格闘しているアッシュを一瞥した。
「帰国後、アメリカの肉など比較にならない、最高級の和牛の塊を用意してやる」
「マジか! 言ったなボス! 絶対だぞ!」
留美子の不満は一瞬で吹き飛び、床のアッシュをひょいと抱き上げた。
「ほらアッシュ、ボスが帰ってくるまでアタシたちがこの城を守るぞ!」
千葉は短く頷き、出口へと踵を返した。
真琴は小さく息を吸い込み、キャリーケースのハンドルを強く握り直して、その大きな背中を追った。
★★★★★★★★★★★
羽田発、ニューヨーク・JFK空港行きのファーストクラス。
完全にプライバシーが保たれた個室型のシートで、千葉はペリエのグラスを片手に、モニターに映し出されたアメリカ市場のデータを眺めていた。
通路を挟んだ隣の席で、真琴が分厚いファイルのページを捲る。
「アメリカのダンジョン産業は、日本と構造が違います。上位三社の巨大軍需ギルドが、市場の9割を寡占している状態です」
真琴はタブレットの画面を千葉のモニターへ転送した。
「彼らはダンジョンから産出される未知の素材を、純粋な軍事インフラとして開発、独占しています。国家の軍事予算と直接結びついた、非常に強固な岩盤利権です」
「ええ。だからこそ、正面から彼らの株を買い集めても無意味です。政治と軍が介入して、一瞬で我々の資産を凍結しにくる」
千葉はグラスを置き、無機質な声で答えた。
「私が買い付けに行くのは、彼らの企業体そのものではない。彼らの足元深く、暗い地下室で埃を被らされている1つの頭脳です」
「頭脳?」
真琴が怪訝な顔をした時、後方の席からひろみが顔を出した。彼女の手には、特殊な暗号化通信を傍受できる端末が握られている。
「これよ、真琴」
ひろみが端末を操作すると、真琴のタブレットに一枚の顔写真と経歴書が表示された。
深みのあるダークスキンに、鮮やかなパープルに染められたショートヘア。カメラのレンズを小馬鹿にするように見据える知的な瞳が印象的だ。
「マヤ・“ノヴァ”・ワシントン。21歳。S級覚醒者」
ひろみが淡々と説明を始める。
「戦闘能力はないわ。彼女の専門は解析と生産。ダンジョン産の未知のアーティファクトを、現代のテクノロジーと融合させる天才よ」
「……そんな技術者が、どうして表舞台に出てこないんですか? その能力なら、世界中の企業が何十億でも出資するはずです」
「出せないのよ」
ひろみは肩をすくめた。
「彼女は今、軍需ギルドの一つである『トライデント・アームズ』に囲い込まれてる。16歳の時に結ばされた奴隷契約のせいで、彼女が開発した技術の特許はすべてトライデントに帰属する。抜けようとすれば、10億ドル――日本円にして約1500億円の違約金と、業界からの永久追放が待っている。今はブルックリンの薄暗い工房で、安月給でドローンの改良をさせられてるわ」
真琴は息を呑み、経歴書の文字を凝視した。
「10億ドル……! 個人の違約金としては法外すぎます。ですが、相手が軍需産業となれば、アメリカの裁判所もまともには取り合わないでしょうね」
「宝の持ち腐れだな」
千葉は冷たく吐き捨てた。
「あれほどの原石を、目先の軍事兵器の延命程度にしか使えないとは。……彼女の才能は、私が私のルールで機能させる」
千葉の瞳の奥に、巨大な市場を解体し再構築するための、新たな戦略の輪郭が浮かび上がるのを、真琴は確かに感じ取った。
★★★★★★★★★★★
ニューヨーク、ブルックリン。
観光客が寄り付かない、落書きだらけのシャッターが並ぶ倉庫街の一角。
千葉たちはハイヤーを降り、ひろみの先導で油と鉄錆の匂いが染み付いた重い鉄扉の前へと立った。中からは、重低音の効いたヒップホップのビートが壁を震わせるように響いている。
ひろみがノックもせずに扉を押し開けた。
広大なガレージの内部は、無数のモニターと、ダンジョン産の未知の鉱石、そしてバラバラに解体された軍用ドローンが散乱していた。
フロアの中央、巨大な作業用デスクの上に胡座をかいている人影があった。
ハイブランドのストリートウェアに、自作のウェアラブルデバイスが組み込まれたエッジの効いたファッション。鮮やかなパープルヘアの女性――マヤ・ワシントンが、ハンダごてを片手に、リズムに乗りながら基盤を弄っていた。
「悪いけど、修理ならよそを当たって。うちは今、トライデントの排熱システムのバグ取りで手一杯なの」
マヤは振り返りもせず、口の中でピンク色のガムをパンッと弾けさせた。
「修理を頼みに来たわけではない」
千葉が足元のケーブルを跨ぎ、歩み寄る。その低い声は、大音量の音楽の中でも奇妙なほどはっきりとマヤの耳に届いた。
マヤが手を止め、怪訝そうに振り返る。
彼女の視界に入ったのは、この油まみれのガレージには致命的に似合わない、威圧感のあるスーツを着た巨躯の男だった。その後ろには、油断なく周囲を警戒する黒スーツの女と、分厚いファイルを抱えた堅物そうな女。
マヤの表情が、一瞬で氷のように冷たくなった。
「……スーツ野郎か。トライデントの犬なら帰れ。今月のノルマは明日までに上げるって、管理部のボブに伝えておきな」
「トライデントの人間ではない。私は千葉秀俊。日本でアビス・マイニングというギルドのCEOをしている」
千葉はデスクの前に立ち、見上げるマヤの目を真っ直ぐに射抜いた。
「君を買い付けに来た」
マヤは数秒間、千葉の顔を呆れたように見つめ、やがて鼻で笑った。
「買い付け? 日本の成り上がりギルドが? 笑わせないでよ。私の首輪の値段、知ってて言ってんの?」
マヤはデスクから飛び降り、千葉の胸ぐらに指を突き立てた。
「違約金10億ドル。それに加えて、私の名前で申請された特許のライセンス料の全額放棄。トライデントは私の脳みそを、彼らの金庫の中に永久保存する気なの。あんたみたいなスーツ野郎が、小切手一枚でどうにかできる問題じゃない」
「ええ。法外な違約金と、公序良俗に反する競業避止義務の押し付け。法廷で争う余地は十分にありますが、彼らは軍と結託して裁判を何年も引き延ばし、その間にあなたを物理的に干し上げるつもりでしょう」
真琴が前に出て、手元の資料を基に的確な事実を述べる。
マヤは真琴を一瞥し、忌々しげに舌打ちをした。
「わかってんじゃん、弁護士さん。彼らは私の技術の価値なんてどうでもいいの。ただ、他所に渡るのが怖いから、ここで腐らせようとしてる。……だから帰って。私は自分の頭脳を、金に変えることしか頭にない連中の道具にする気はない」
マヤが背を向けようとした瞬間、千葉の平坦な声が背中を叩いた。
「君の技術を『金に変える』などと、そんなスケールの小さい話はしていない」
マヤの足が止まる。
「彼らが君にやらせているのは、兵器の延命作業という、極めて局所的で退屈な作業だ。君の技術の価値を矮小化している。私は君の才能を、既存の産業構造そのものを根底から書き換えるために使う。彼らの手の届かないスケールでだ」
千葉は懐から銀色のシガーケースを取り出した。
「私は君の価値を、この星の誰よりも高く評価している。君の技術は、こんな薄暗いガレージで埃を被っていいものではない。世界を我々のルールで支配するための核だ」
マヤはゆっくりと振り返った。
その知的な瞳の奥に、初めて明確な熱が灯っていた。
「……口では何とでも言えるわよ。じゃあ、その10億ドルの違約金、どうやって払うつもり? 日本からキャッシュをトランクに詰めて持ってきたとでも言うの?」
「10億ドルは、私が全額立て替える。不当に奪われた特許も、彼らの手からすべて取り戻す」
「だから、どうやって!」
マヤが声を荒らげる。
「市場のルールを使うんですよ」
千葉は口元にわずかな、しかし背筋が凍るような冷酷な笑みを浮かべた。
「彼らが積み上げてきた虚像を換金し、彼らを社会的に解体した上で、君を迎え入れる」
ガレージの重低音が響く中、マヤは息を呑み、目の前の巨大な男を見上げた。
これまで彼女を搾取してきた権力者たちとは違う。この男の目は、10億ドルという天文学的な数字を、ただの手段の一つとしてしか見ていない。
「……久保CFO。明日の朝、ウォール街が開くまでに、トライデント・アームズの資金調達スキームと財務状況の弱点を洗い出しなさい。市川CCOは、彼らの研究部門の幹部の弱みと、裏口座の流れを特定しろ」
「了解しました」
真琴の目には、すでに戦闘準備を整えた光が宿っている。
ひろみは無言のまま、妖しく微笑んで薄いタブレットを取り出した。
「……本気なの? 相手はアメリカの軍需産業そのものよ」
マヤが微かに震える声で問う。
「非合理な搾取は排除する」
千葉はシガーケースをしまい、マヤの目を真っ直ぐに見据えた。
「私の描くビジョンに、君の才能が必要だ。準備を始めようか」




