第13話 痛快エンターテインメント
沸き立つ湯の表面に、規則的な泡のドームが生まれては弾けていく。
新宿の新オフィス、最上階に新設されたCEO専用のプライベートキッチン。
千葉秀俊は、スリーピースのジャケットを脱ぎ、純白のシャツの袖を肘まで正確に折り曲げた姿で、IHヒーターの前に立っていた。
彼の視線は、タイマーの赤いデジタル数字と、鍋の中で踊る特注の十割蕎麦に注がれている。
「残り45秒」
低く呟きながら、千葉は横に置いた鮫皮のおろし金に手を伸ばした。
用意されているのは、長野県産の小ぶりな辛み大根。千葉はそれをおろし金に垂直に当て、円を描くように一定のリズムですりおろしていく。
力任せに直線でおろせば繊維が潰れて水っぽくなり、辛味の角が立ちすぎる。円を描くように均等に細胞を削り出し、空気を含ませながらふんわりとおろす。そうすることで、強烈な辛さの中に微かな甘みを残すことができるのだ。
タイマーがゼロになる3秒前。
千葉は火を止め、菜箸で蕎麦を一気にザルへと引き上げた。間髪入れずに氷水へ落とし、表面のぬめりを取るために素早く、しかし麺の角を傷つけないよう優しく揉み洗いをする。
指先の感覚だけで麺の締まり具合を測り、完璧なタイミングで水気を切った。
江戸切子の蕎麦猪口に、寝かせておいた「かえし」と極上の本枯節で取った出汁を合わせる。そこに、計算し尽くされた分量の辛み大根を落とした。
「……信じられません」
キッチンの入り口で、分厚いファイルを抱えた久保真琴が、呆れたような声を上げた。
ネイビーのパンツスーツにはわずかにシワが寄り、歩くたびに鳴るヒールの音は普段より重い。手にしたマグカップからは、もはや泥のように濃くなったコーヒーの匂いが漂っていた。
「会社が国内の巨大ギルド連合と全面戦争をしていて、CFOの私が3日3晩、法務省と金融庁の対応で駆け回っているというのに。社長は優雅に蕎麦打ちですか」
「蕎麦は打っていません。茹でただけです」
千葉は表情を変えることなく、ダイニングテーブルに漆塗りの盆を置いた。
「それに、戦局はすでに決定しています。私が引いた通りに線が結ばれるのを待つ時間に、粗悪な仕出し弁当で胃を荒らすのは非効率の極みだ。……食べるか?」
「……いただきます」
真琴は即答し、迷わず対面の席に座った。
千葉がもう1人前の蕎麦を茹でて差し出すと、真琴は礼もそこそこに箸を伸ばした。つゆに少しだけ麺の先を浸し、すする。
瞬間、真琴の目が見開かれた。
鼻腔を抜ける強烈だが爽やかな辛み大根の香気と、それに負けない十割蕎麦の力強い風味。氷水で完璧に締められた麺は、噛み切るたびに心地よい反発を歯に返す。澱んでいた脳の疲労が、その鮮烈な味覚によって一気に洗い流されていくようだった。
「……美味しい。なにこれ、お店出せますよ」
「温度管理と時間の計算さえ間違えなければ、誰にでも出せる味です。それより、数字は」
千葉が自身の蕎麦を静かにすすりながら問うと、真琴は我に返り、傍らに置いたタブレットの画面をスワイプした。
「完勝、とだけお伝えしておきます」
真琴の声には、疲労を上回る強い興奮が混じっていた。
「松尾部長が昨夜公開した動画の再生回数は、現在1200万回を突破。YouTubeの急上昇ランク1位を独走中です。主要なSNSのトレンドも、トップ10のうち7つがアビス・マイニング関連のワードで埋め尽くされています」
真琴はタブレットを千葉の横に置いた。
画面では、松尾伸子が編集した10分弱の動画が再生されている。
タイトルは『【ノーカット】安全なデモ? 暴徒化した利権団体が仔犬を襲う瞬間』。
映像は、第1A級ゲート前を封鎖するデモ隊の前に、菅原留美子がシベリアンハスキーの仔犬を抱えて歩み寄るシーンから始まっていた。
デモ隊の最前列にいた男たちが、あからさまに敵意を剥き出しにして留美子を取り囲む。
『おい! アビスの犬が何の用だ! ここは俺たち市民の……』
『うるせえな。アタシはただ、このチビの散歩に来ただけだ。道を開けろ』
留美子の挑発的な態度に激昂した男の1人が、プラカードの柄を振り上げた。その先端には、違法なスタンバトンが仕込まれているのがはっきりと映っていた。
男がそれを、留美子の腕の中にいる仔犬めがけて振り下ろそうとした瞬間。
留美子は表情1つ変えず、空いた片手でその柄を掴み、男を地面に叩き伏せた。
そこから、動画のトーンが劇的に変わる。
スローモーションになる映像。仔犬の怯えた鳴き声。そして、絶妙なタイミングでフェードインしてくる悲壮感漂うBGM。
画面の隅には、ワイプで伸子の顔が映り、涙声で実況を被せている。
『皆さん、見てください……。彼らは「市民の安全」を叫びながら、何の罪もない小さな命を、違法な武器で平気で傷つけようとしました。これが、彼らの言う「正義」なんです……!』
さらに動画の後半では、市川ひろみが裏で集めた決定的な証拠が、テンポの良いインサートとして次々と投下された。
デモ隊のリーダーの銀行口座に、旧プロミネンスの残党から多額の資金が振り込まれている履歴。彼らが「周辺住民」ではなく、遠方から日当で雇われたゴロツキであるという身元証明。
動画は、伸子の静かだが怒りに満ちた声で締めくくられる。
『本当に危険なのは、ダンジョンで命を懸けている私たちでしょうか。それとも、自分たちの利権を守るために、善良な市民を装って暴力を振るう彼らでしょうか』
真琴は蕎麦を飲み込み、ため息混じりに言った。
「……見事な悪趣味ですね。事実関係の前後を完璧に切り落として、大衆が最も消化しやすい形に再構築している。100人中99人が、私たちを『理不尽な暴力に立ち向かう被害者』だと信じ込んでいますよ」
「彼らが求めているのは複雑な真実ではなく、わかりやすいエンターテインメントです」
千葉は蕎麦湯を注ぎ、ゆっくりと味わった。
「大衆は自分が正義の側に立って、悪を叩き潰すことに飢えている。松尾部長は、その欲望のツボを正確に把握している。彼女に広報の全権を与えた私の投資は、正しかったということだ」
「効果は絶大でしたよ。ダンジョン庁は、世論の猛烈なバッシングに耐えきれず、今朝になって第1A級ゲートの封鎖命令を撤回しました。デモ隊も、ネット上で特定班に身元を晒されて完全に雲散霧散です」
真琴はタブレットの株価チャートを表示させた。
「そして、アビス・マイニングの株価。昨日までの連日のストップ安から一転し、本日の前場は買い注文が殺到してストップ高で引けました。メディアもこぞって『ハゲタカ』から『既得権益と戦うダークヒーロー』へと、手のひらを返したように論調を変えています」
「彼らの怒りも同情も、すべては我が社の時価総額を押し上げる燃料に過ぎない。これで国内の盤面は固まりましたね」
千葉は漆塗りの盆を静かに押しやり、口元をナプキンで拭った。
★★★★★★★★★★★
旧プロミネンス本社ビル、最上階の一角。
かつては使われていなかった巨大な物置部屋が、今や数千万円の機材が立ち並ぶ『広報部長室』へと生まれ変わっていた。
防音材が張り巡らされた室内で、松尾伸子はマルチモニターの前にへたり込んでいた。
彼女の目は、血走るほどにモニターに釘付けになっている。
画面に表示されているのは、YouTubeのアナリティクスダッシュボード。
リアルタイムの視聴回数カウンターが、異常な速度で回転し続けている。1分ごとに数万回の再生が積み上がり、チャンネル登録者数は先週の3万人から、すでに150万人を突破していた。
「……ウソでしょ。何これ……ヤバい、ヤバすぎる」
伸子は震える両手で口元を覆った。
モニターの右側には、SNSのタイムラインが滝のように流れている。
『アビス応援するわ!』
『今まで叩いててごめんなさい!』
『あのデモ隊のジジイ、住所特定したぞww』
『仔犬ちゃん無事でよかった(泣)』
絶賛、同情、そして敵対者への無慈悲な攻撃。
自分がPCの前で切り貼りした数十分の映像と音声が、日本中の人間の感情を完全に支配し、操っている。
数日前まで、薄暗いダンジョンで巨大なリュックに押し潰されながら、リーダーに怒鳴られ、時給900円で這いつくばっていた底辺ハンターの自分が。
画面の端に表示された、今月の広告収益とインセンティブの予測金額。
『推定収益:48,500,000円』
「よんせん、はっぴゃく……」
伸子の呼吸が浅くなる。
心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされ、脳の奥底から経験したことのない快感物質がドバドバと分泌されていくのを感じた。
自分の指先1つで、世間の常識がひっくり返る。
偉そうに自分を見下していたS級ハンターたちが、千葉の用意した舞台と自分の動画によって次々と社会的に抹殺され、路頭に迷っていく。
「あはは……あははははっ!」
伸子は誰もいない部屋で、腹を抱えて笑い出した。
涙が滲むほど笑い、そしてモニターに両手をついて、その数字の羅列を愛おしそうに撫でた。
彼女は震える指で画面の数字をなぞる。数百円の投げ銭で喜んでいた自分が、ひどく遠い昔の存在に思えた。巨大な資本と権力を使い、社会そのものを炎上させる。
「たまんない……。これ、たまんないよ、社長……!」
伸子の瞳には、もはや小市民的なビビりの面影はなかった。
彼女はマウスを力強く握り直し、モニターの光を反射する目で、次なるターゲットの粗探しのために猛然とキーボードを叩き始めた。
★★★★★★★★★★★
「国内の掃除は、これで一段落ですね」
真琴は、空になった蕎麦猪口を見つめながら、大きく伸びをした。
肩の関節がポキポキと鳴る。ここ数日の緊張から解放され、急激な眠気が彼女を襲い始めていた。
「ええ。大手ギルド連合は自滅し、政治の介入も絶たれました。これでアビス・マイニングは、名実ともに国内市場の覇権を握った」
千葉は立ち上がり、使用済みの調理器具をシンクへと運んだ。水栓をひねり、冷たい水音を響かせながらスポンジを手に取る。
「これで、少しは休めますか? 私、3日間まともにベッドで寝てないんですけど」
真琴の恨み言に、千葉は手を止めることなく答えた。
「プラットフォームの最適化が終わっただけです。これだけでは足りません」
「足りない? 国内のダンジョン資源の流通を完全に掌握して、世論も味方につけたんですよ? これ以上、何を」
真琴が怪訝な顔をする。
「我々が現在提供しているのは、あくまで既存の『魔石採掘』の効率化に過ぎない」
千葉はシンクの水を止め、清潔なタオルで手を拭いながら振り返った。
「真の支配とは、テクノロジーの中枢を独占することです。世界が我々の技術なしではダンジョンを維持できなくなる状態を作らなければ、この島国で王様ごっこをしているだけで終わる。既存のポーションや装備品の製造ラインは、どれも非効率で前時代的です」
千葉はテーブルに歩み寄り、椅子に掛けられていたジャケットを手に取った。
「久保CFO。明日の午後の便で、アメリカへ飛びます」
「ア、アメリカですか!? 急すぎますよ! ビザの手配や現地の……」
「手配はすでに市川CCOに指示済みです。荷造りだけしておきなさい」
千葉はジャケットを羽織り、乱れのない手つきでフロントボタンを留めた。
「あの、アメリカに何をしに行くんですか? 新しいダンジョンの買収権ですか?」
真琴の問いに、千葉はキッチンから歩み去ろうとした足を止めた。
「買い付けに行くのですよ」
千葉は薄く、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
「ウォール街の連中が、自分たちの足元に転がっている原石の価値に気づかず、ただ埃を被らせているのでね」




