第10話 推理と想像は身を助く
「……あ、はぁ……」
乾いた息を小さく吐き出す。
久しぶりに喉を空気が通る感覚。
霞む視界に入ったのは、右手にそびえる高い壁だった。その冷たい壁に右耳がぴったりくっ付いていて、体温が奪われている。
それから壁から空中に、木箱や布のかかった何か、それに椅子が横向きに「生えて」いることを認識して――壁が本当は地面で、右腹を下にして倒れていたのだと理解した。
……しくじったのは明白だった。
頭の重みと靄のかかったような思考は、以前、店の眠り薬を誤飲したときと似た症状を示していた。
グレーテは息を吸い、吐き、肺の中の空気を入れ替えるようにしながらいつもの思考を取り戻そうとした。
……確か囮として、一人で行動を開始して20分ほど経った頃。細い道を川に向かって歩いていた時だ。
ちくりと肌を刺すような、魔法をかけられた感覚があった。それも過去に修行としてタウラにかけられた覚えがある、魔法感知と同じもの。
グレーテは自身がハーフエルフという「魔力が強く、人間よりも魔法使いが多い」存在であることを、たとえ一般人であろうとも彼らが警戒する対象だということを、すっかり忘れていた。
急いで、不自然にならないように角を曲がり、騎士たちが多く集まる大通りへ向かう――どこかの屋根の上に騎士団の魔法使いがいて、何かあったら居場所を伝えてくれることも分かっていたからだ。
そう思って大通りに入ろうとしたところで強烈な眠気が襲ってきて……気が付いたら、これだ。
周囲に人の気配はない。ゆっくりと目を瞬いてから、体をごろんと床と水平にする。右腕をさすりながら上半身を起こす。
側の椅子に愛用の肩掛け鞄がかかっているのが見えた。中身の薬草が床に散乱し、薬瓶が割られ……携帯用の、肘ほどの長さの魔法杖がぽきりと折られて、無残にも転がっていた。
……いつもの杖なら、取られても折られなかったのに。
携帯性を優先して裏目に出たことを悔しく思いつつ、室内を見回してゆっくり平衡感覚を取り戻していく。
一言で表せば倉庫だろうか、それなりに広いと思われる部屋に、絵の具や油、持ち込んだ薬とは別の、何か人工的な薬品の臭いが暗闇と共に充満していた。窓はカーテンがかかっているのか、闇に沈んで場所が分からない。
目が暗闇に慣れるにつれて、椅子よりもう少し先に置かれたイーゼルが見えた。書きかけの下手糞な風景画のキャンバスが置かれたままになっており、側の床にはご丁寧にも一つ一つ布のかかった、幾つもの四角いシルエットがある。
にじり寄るように近づいて捲れば、そこには美しく生き生きとした、横たわった女性の全身があった。もう一枚捲る。そこにもある。
もう一枚。もう一枚――。
他の都市で誘拐された被害者だろうか。やがてそのうちの一枚に、見覚えがある女性が――エメラインらしき肢体を見付けた。
グレーテは急いで自身の緩いワンピースの裾に手をかけて、音を立てないようにするすると脱いだ。引き抜いたその裏返しのまま、裏地の黒を身にまとう。
誘拐される時は白で、けれど危機に会った時には目立たぬ黒で行動するためだった。少なくとも一回分は、白を着ているはずだと思い込ませることができる。
エメラインの描かれた額縁をそっと抜き取って抱えると、壁と木箱の合間に避難する。窓を探そうと壁に手を滑らせたとき、ぎい、と遠くで微かな音がした。イーゼルの向こう……差し込む長方形の光によって、視界がほんのり明るくなる。
「……っ」
浮かび上がるのは、まだ辺りに放置されていた絵画。全て眠るように横たわる女性、そのひとつひとつによく目を凝らせば、その二つ、三つは絵画内で手が縛られ、衣服が捲れた足に痣がある。
思わず身を縮めて影の方に目をやれば、伸びた影――元は小柄だったろう背丈の長い髪から突き出した、あざ笑う小悪魔の口のような長い耳が見えた。
エルフだ。
息が詰まる。
――誤算だ。あの魔道具の額縁は、どこかの家からそのまま古物市場に流れたり、役所が収集したものが流出したのではないかと思っていた。
だから相手は、国内で多数を占める人間だと。でも確かにもう一つ可能性があった――あの時代を生きていた者が、そのまま使っている、という。
「厄介な奴らに気付かれたかもしれん。急ぐぞ」
高い男の声が響いて、エルフの首が背後を振り向いたように、影が揺れた。続いて、奥の部屋の方から低くて煙草でも吸い過ぎたのかガラガラの声が応える。
「って言っても、あの娘は高く売れると思いますよ。明日一日待ってからでも遅くはありやせんでしょう」
「王都の騎士は田舎ほど甘くはない」
「そうですかねえ」
声と足音がふたつ、室内に入って来る。
「引き際を間違えたら、無収入どころか豚箱行きだ。混血の女ならどこにでも客がいる」
「しかしですねえ……」
「くどい」
声に混じる苛立ちに、苛立ちが返される。それが会話相手の忍耐の限界を易々と超えたようだった。
「今までこれだけ稼がせてやったのにその言い草か……手前ぇはアレを持ち込んで、暢気に指示してるだけじゃねえか!」
グレーテは悲鳴を上げないよう、唇を噛んだ。その耳は、「くどい」とだけ言ったエルフの意図を読み取っていた。
小さい呪文の詠唱が聞こえ、男の全身の影が大きく動き、ふたつが重なったかと思うと――吹き飛ばされた。
椅子とイーゼルの近くに、男の体がどうと倒れる。胸の辺りに穴が開き、とめどなく血が流れる。妙な方向にねじくれた首が、虚ろな目が、彼女に向けられていた。
傾斜があるのだろう。流れる血が足元を濡らした。グレーテの、壁際に限界まで後ずさった踵の下で、排水溝の金属がカタリと小さく音を立てた。
これから自分をどうにかしようとする相手は、間違いなく自分よりも魔法を扱い慣れて、戦い慣れて、そして邪悪だ。
「いいかいグレーテ。魔法を成功させる何よりの秘訣はね、想像力だよ」
ふと、師匠の声が脳内に蘇った。視界の端でけれど頼りの杖は無残な姿を晒している。
――無理です、お師匠様。
全身が鼓動に支配されて、耳の中で煩い。自身の呼吸と混ざり合って、敵の足音が聞こえなくなりそうなくらいに。
この倉庫は、大通りから三本ほど奥に入った場所にある。元はとある職人の仕事場兼住居で、怪我で休職中の、数か月間だけ貸しているのだという。
そんな平和で変哲のない日常の中に入り込んだ悪意が、グレーテの皮膚をはいずり回って、絡め取ろうとしているようだった。
――お師匠様、こんなの初めてです。
師匠への泣きごとを、そして吐き気がするのを必死にこらえ、グレーテは体を闇に隠した。
エルフはもう部下の死を疑っていないのか、死体には見向きもせずに、彼女と対角にある積み上げられた木箱の向こうに向かっていった。
すぐにグレーテを絵に変えるつもりはないらしい。
しばらく歩き回る音が床に、空気に響いた――半分エルフの耳のおかげだと、初めて父親に感謝した。
尤も、相手ももっと長い耳を持っている。ただ、その耳聡さに関してはタウラのお小言のタイミングで十分に承知していた。
そう、エルフのことなら、少しは知っていた。
グレーテは必死に想像して、自分を落ち着かせようとする。
魔力があっても、訓練を受けなければ高度な魔法を使えないことも。高度な魔力があっても、高度な魔法ほど長い詠唱が必要なことも知っている。ああいう魔法使いは“塔”には所属できない。
それに筋力も体力もない。エルフは総じて、線が細い。余程鍛えるのが趣味であっても、単純な筋肉量ではおよそ、騎士でもない人間の男性とそう変わらない。
女性であるグレーテの半分流れる人間の血は、たとえ捕まっても勝てる可能性を秘めていた。
グレーテは指先を見下ろした。杖がない魔法使いには、ろくな魔法が使えない。今頼れるのは、この何度も魔法の練習をした指先と、思考だけ。
――大丈夫、勝てなくたって、逃げればいい。
あの暴動の夜、子供だった自分には味方は親だけだった。けれど今は、騎士団の多くの大人が付いていてくれる。
あのエルフは、今日、魔力感知に眠りの魔法を最低2回、それにさっきの攻撃魔法を――風の矢を呼び出すものだろう――使っている。
師匠のタウラが一日に使っている魔法と魔力とを引き合いに出して考えてみる。あの人が良く眠っているのは、何かにつけ魔法を使っていて、それが魔法を具現化する際に使う、自身の魔力と、精神と集中力を消耗するからだ。
それにこの倉庫ごと燃やすわけにはいかない――火を使わない。そして目立たないために、そうそう明るくは出来ない。
自分にそう言い聞かせ、壁に背を付けて、より深い闇へ移動する。踵にこつりと軽く、一見高価そうな、抱えられるほどの大きさの額縁が当たった。
仰向けで眠るエメラインの金髪は、攫われる際に抵抗したのか解けて広がっていた。体の弱い彼女はどんなふうに恋をして、家を捨ててでも人を欺いてでも生きようと思ったのだろうか――そして頬の赤さは閉じ込められてなおまだ“生きて”いる。
喉を鳴らして、絵画に話しかける。
――あなたは私が守るから。
そういえば、厩舎で、似たようなことをエリックに言われた。
きっとグレーテの状況を、縛られているかどうか考えて今だって計画を練ってくれているはずだ。
だから安否を、居場所を報せるだけでいい。
グレーテは踵についていた泥を咄嗟にエメラインの上に塗りつけると、更に移動し、側にあった描きかけの絵の中央にも塗りつけた。
どの絵に人間か描かれているのか分からなければ、無暗に壊すわけにはいかないから、人質にも取れず、時間が稼げる……かもしれない。
これで、できることは一通りやった。
指先に力を込めて、グレーテは青の瞳を闇に据える。エルフの影は、奥と入り口とを行ったり来たりしていた。抱えている四角い影は、きっと絵画をまとめているのだろう。
聞いた話だと、盗賊団は店員役とは別に二、三人はいるはずだ。しかし彼らを呼ばない――となれば先ほど見たように元から不仲で、死んだ男を見られれば仲違いするからかもしれない。
今のうちにと、窓を探す。倉庫の入り口から差し込む光のおかげもあって、目を凝らせば壁にかかっているカーテンの、うねる闇が判別できた。そうっと近寄って分厚い黒のそれをめくると、胸の高さに設けられた窓枠の中央に、古い掛け金が引っかかっているだけだ。
指で押し上げ、慎重に開き――、
――ギイイイィ。
思ったよりも大きい音に、びくりと指先が震える。背後からの靴音がかつかつと迷いなく近づいてきて、止まる。
もっと奥へ。蹲り、ローブの裾で白い顔を軽く覆い、闇に息を潜める。喉が詰まる。
「……あの娘、どこに行った――」
背中の壁と窓と、視界に広がる木箱と、正面の気配。
グレーテは木箱とローブの合間から、彼女と同じくらいの背丈、そのエルフの顔を闇に慣れた目で伺った。
人間なら30歳かそこらにしか見えない男の顔は、闇の中なのに、秀麗な作りながらひどく醜く邪悪に見えた。
そして、その唇が動き――すぐにそれが攻撃的な呪文であることに気付いたグレーテは、隙間から飛び出した。
時間は、窓枠を飛び越えるほどはないけれど、更なる時間稼ぎできる程度はある――不意打ちだ。
人は、何度でも成功した方法に頼りたくなってしまうものだ。それが長い間に積んだ成功体験ならなおさら。
だけど魔法の詠唱を待ってやる、親切な人間ばかりではない。




