第11話 恋の行方と、新しい絵
「……光よ!」
グレーテの短く単純な詠唱が完成する方が早かった。
小さくも強く輝く光を指先から生み出し、エルフの顔面にぶつける。あまりの眩しさは視界を奪い、口から生まれた悲鳴が詠唱を中断させる。
顔を庇うエルフ。
グレーテは側の木箱を足場にして駆け上がり、開いた窓から外へと跳躍した。
外はもう暗かった。夜気が頬を撫でる。躊躇う時間はなかったが、不安はあった――確か裏庭は草地のはずだと思い出した瞬間、着地したのはぬかるんだ地面。ほっとしたのもつかの間、ブーツの足が滑る。
その背後からすぐにガタガタと木箱を蹴り、探す音が追ってくる。
振り返らずに走ろうと思った時、突如として嫌な予感が肌をなぞって総毛立った。
本能のまま踵を返せば、月に照らされた窓に額縁が掲げられている。
敵が懐に突っ込んだ手から、細い棒が、絵筆が取り出される。
瞬間、筆先から絵の具らしき何かが意志を持つように暗闇を裂き、色の奔流が蛇のように顎を開いて飛び掛かってくる。
――怖い。
助けてもらえると頭で理解していたはずなのに、本能的な恐怖に身がすくみ、足がもつれかけた。
指先にまた新たな光を灯すことを躊躇った。今度のこれは、相手に位置を正確に知らせてしまう。
他の人間より少しだけ体内の魔力が多くて、魔法の扱いが得意で、謎解きが好きなだけのただの一般人。いや、半端で“役に立たなければ忘れられる”存在がグレートヒェン・ネーベルであることを誰より理解していたから。
それなのに、振り向いた胸元からはずみで飛び出たお守りが、視界に躍った。
彼は、今回助けてくれたとして、もう二度とは横に立たせてくれないかもしれない――だってあの怒りはきっと彼自身に向いて、それから悲しい顔をするのだろう。
そうして自分は、彼のお守りを、子どもの頃に助けてくれた“親切なお姉さん”を、夢を、現実で裏切って打ち砕いてしまう。
「……駄目」
グレーテは指に体内の魔力を集めるようイメージして、お守りを握り込んだ。
そう、魔力を持つ者がずっと身に着けて馴染ませたものは、杖のように周囲の魔力を媒介する力を持つ。
周囲からふわりと、魔力が集まる気配がした。それが凝縮して、手のひらに温かみを感じた。
想像する。自分を守るものを。
光が薄く拡散し、目の前に広がった――それは太陽のように輝く騎士盾になる。
――怖くない。
目の前に迫った色の奔流が騎士盾にぶつかる。絵の具という形をした古い魔法を盾の滑らかな表面が受け止め、その飛沫を無力化して、周囲にまき散らした。
そして絵の具が消えてしまうと同時に、光の盾は粒となって霧散し、金属の音が鳴って袋が破ける。ひしゃげた小銭が淡い光を反射しながら周囲に舞う。
グレーテは、こんな時なのに綺麗だと思った。
「――グレーテさん!」
懐かしい声が聞こえて、手が背後に引かれる。恐ろしいエルフの姿が見えたのは一瞬で、その逞しい鎧の背に遮られた。
振り向くエリックに告げる。
「……大丈夫です、エメラインさんは無事です」
「何をこんな時に、言ってるんですか!」
「助けに来てくれるって信じてましたから」
追って倉庫から放たれた氷の矢が、エリックの剣に盾にはじけ、切り払われていく。
空に誰かが放った、合図の魔力の花が咲いた。
武装したユベールが暴風と、咆哮と共に裏庭を駆ける。追ってきた盗賊たちの残りが勢いに慄く声がした。
剣と盾と、鎧が鳴る音が響き渡り……それで、誘拐事件は終わりを迎えた。
***
夜中、約束の夜食のスープを食べ終えたばかりのグレーテは、<ほとんど森>のテーブルで、ひしゃげた小銭を磨きながら、嘆息を吐いていた。
「……硬貨を破損するのは、それなりの罪に問われますよね……」
向かいにいるのは騎士のエリックで、彼が犯罪を見逃してくれる性質ではないことをグレーテは良く知っている。
万引き、無銭飲食、拾った財布をポケットに入れること――全部犯人を掴まえて、よくよく諭しているのも知っている。
「お守りの中身がお金だって知らなかったので、大丈夫でしょう。壊れたのはあちらの魔法のせいですしね」
事情聴取に後始末などいろいろあって、時間はもう翌日の午前二時。
そのうち普段来訪者もない時間にドアが叩かれれば、イェルハルドが躊躇いなく開ける。カランというベルの音とともに、ローブを引きずった師匠のタウラが、寝ぼけ眼を擦りながら入ってきた。
「お疲れ様です、お師匠様――」
「ああいいっていいって、座っておきな」
立ち上がろうとするグレーテを手で制し、タウラは大きな欠伸を、今度は誰憚ることなくした。絵画の魔法を解除するのに、ずっと騎士団に協力していたのだ。
「イェル、私は夜食は要らないから、あんたもとっとと家に帰りな」
「……ああ、そうですね。もうちょっと後始末をしたら帰りますよ」
グレーテがいつになく疲れた様子の師に、そんなに大変でしたか、と問うと、彼女は深く頷いた。
「今のところ王都の被害者は全員、身元の確認が取れて家に帰した。体は無事。心の方は分からんがね」
「……そうですね」
「また明日、顧客名簿に当たって、売られた絵の魔法を解除しなきゃ――」
ふあああ、と大きな欠伸をしながら会場に上がっていく師を見送る。イェルハルドが空になった食器を下げにキッチンに消えると、グレーテはエリックに向き直って、また息を吐いた。
「……明日以降も騎士団は大変ですね」
「グレーテさんも、まだ調書の作成に付き合っていただくことになりますよ」
「……そうでした。それでも丸く収まって良かっですね。誘拐事件だけではなくて、駆け落ちの方も」
エメラインの気持ちと無謀な行動は――駆け落ちの良し悪しはともあれ、結局父親を動かした。
すぐに現場に駆け付けたオールディス卿は娘に、彼女に対して、娘を失う恐怖を正直に語り、よくよく考えた上で未来を決めるようにと告げた。
そうしてユベールには、駆け落ちなど無謀なことはせず、正々堂々と次の馬上槍試合で勝てば、交際の継続だけなら認めると約束までしたのだ。
それから、ちゃんとバレ卿とも話し合って、壊れた石橋の修理の交渉も根気強くする、と。
「……いえ、良くないですよ」
磨き終えた小銭のひしゃげた姿を、元に戻らないか試していたグレーテがふと顔を上げれば、エリックの怒った顔があった。
「今回は切羽詰まっていましたが――囮なんて、金輪際しないでください」
「……どうして……ですか」
「人間たちとかいう集団に信用させるためにそれだけ身を削って、あなた個人を心配する人たちがいるとは考えなかったんですか」
「……忘れる、ですか」
グレーテは手元にまた視線を落とした。ひしゃげてしまった、額も枚数も不揃いの、まるで買い物のお釣りのような小銭たちに。
ふと思い当たることがあって、おずおずと声に出してみる。
「このお金……もしかして」
「そうです。あの時グレーテさんにもらった、買い物のお釣りです」
小銭とエリックとに視線を行き来させていると、顔も声音も急に優しくなる。
「……よく、15年も取っておきましたね……」
「それだけ嬉しかっただけですよ」
囮にならなくたって……大したことじゃなくたって、あなたは記憶に残るんですよ。
そう続けられれば、目の奥が何故だか熱くなる。
「そうですか……では、大事なお守りを壊してしまったお礼をしなければなりませんよね……」
そもそも貰ったものだし、役に立ったから要りません、とエリックは固辞したが、グレーテは駄目にしたのは自分だからと譲らなかった。
ほんの少しの間考えてから彼は、新しい思い出を作って、残していくための提案をした。
――後日。
グレーテとエリックは、第二、第三騎士団対抗の馬上槍試合の見物に出かけた。
流石の花形騎士とはいえ、ユベールは直前の鍛錬を怠っていたせいか、優勝には届かなかった。
けれども想い人のために、償いのために汗を流し、小手を抉られても懸命に戦った姿にオールディス卿も何か感じるものがあったのか。準決勝で敗退した彼に、交際を続ける許可が出た。
ありがとうございます、とたおやかな姿の、けれど目の内だけは燃え盛るようなエメラインの笑顔を受け取ってから、グレーテは閉店後の<ほとんど森>の奥の部屋に、中央に据えた椅子に座った。
あれから数日に一回、そんな時間を過ごしていた。
扉近くに置かれたイーゼルの前にエリックは座り、油絵の絵筆を取る。
描きかけの横顔はいつになく照れたように笑っていて、置かれた筆がその上を滑る。薄く描かれた古い耳の傷の上を、亜麻色の髪の筋が隠した。




