第8話 文化祭、触れない距離の隣で(挿絵あり)
体育館の奥は、人の熱気で薄い膜のように揺れていた。
文化祭ステージのざわめきが、スピーカー越しに不規則な鼓動のように響く。
舞台袖では、生徒たちが自分の出番を前にそわそわと立ち位置を確かめていた。
その端で、御珠が燕尾服の裾をぎこちなく整えている。
黒に近い深い藍が、照明の届かない場所でも淡く光って見えた。
咲良が息を呑んで、その姿を見つめる。
「御珠ちゃん……かっこいい……」
雪杜も思わず視線を奪われていた。
布越しに伝わる佇まいまで洗練されていて、普段と同じ姿のはずなのに、別の存在に見えた。
「うん。似合ってるね」
御珠は肩をすくめ、小さく顔をそむける。
「恥ずかし……」
その照れ方が燕尾服と致命的に噛み合っていて、雪杜は胸の奥で苦笑した。
咲良がそっと背中を押した。
「大丈夫だよ!絶対うまくいくって!」
司会の声が場内に響く。
「次は1年2組による合唱『大地讃頌』です」
拍手が波のように広がった。
生徒たちが舞台へと上がる足音が整然と並ぶ。
御珠が指揮台へ向かうと、その瞬間、会場の視線が一気に吸い寄せられた。
光の下で燕尾服が映えすぎて、ざわめきが客席を走る。
「え……燕尾服?」
「誰?あれ?」
「顔ちっさ……え、やば……」
ざわめきが膨らむ中、御珠は静かに指揮棒を構えた。
ピアノが最初の和音を落とす。
伴奏の余韻に合わせて、御珠の腕がしなやかに広がった。
歌声が流れ出す。
「「母なーる 大地のー ふとーぉこーろーにー
われらー 人の子ーのー 喜びわーあーるー」」
その瞬間、会場の温度が切り替わった。
御珠の指揮は驚くほど正確で、美しく、そして――ほんの一欠片だけ、彼女の“本質”が滲んだ。
会場のざわめきが止まる。
観客が息を飲む気配が肌に触れた。
歌っている生徒の声が自然と整い、ピアノの音が透明度を増していく。
御珠の手首の返しに合わせて、合唱がひとつの生き物のように揃っていく。
まるで全員が、彼女の呼吸に引き寄せられていた。
「「頌えよ大地を……あぁーーーーー!」」
最後の音が天井に吸い込まれていく。
誰も動けないまま、静寂が落ちた。
次の瞬間、爆発のような拍手が体育館を満たした。
椅子を蹴って立ち上がる音、誰かが涙を拭う仕草、あちこちで漏れる声。
「すご……」
「鳥肌やば……」
「何今の……?」
御珠はゆっくりと頭を下げた。
拍手は、しばらく止まる兆しがなかった。
(……うっかり漏れてしまったのじゃ。
まぁ、よかろう)
フードも仮面もない舞台の上で、御珠はただ静かに呼吸を整えていた。
その姿は、神でも人でもなく――“指揮者”としてそこに立っていた。
―――
PC室の奥は、外の喧騒から切り離されたように静まっていた。
パーティションで区切られた占いスペースには暗幕と簡易照明が吊られ、机の上にはローブやタブレットが整然と並んでいる。
入口には手作りの看板。
《さーや様の記録占い》
咲良が明るい声で来場者を迎えていた。
「いらっしゃいませー!」
その呼び込みに、通りすがりの女子生徒が立ち止まる。
興味を引かれたように首を傾けた。
「これ、何?」
咲良が胸元で手をまとめて答える。
「占いだよ!悩み聞いて、アドバイスもらえるの!」
「へぇ……やってみたい!」
「どうぞー!」
案内された女子生徒は暗幕の中へ入っていく。
控えめな照明が影を作り、現実より足音が小さくなる場所だった。
中では史が椅子に座り、姿勢よくペンを構えて待っている。
視線は真っすぐだが、決して威圧的ではなかった。
「悩みを聞かせてください」
女子生徒は緊張した様子で言葉を探す。
「その……友達グループの話題についていけなくて……」
「話題、ですか?」
史は淡々と、けれど丁寧に聞き返す。
「うん……恋バナとかSNSとか推しとか……
みんな盛り上がるのに、私だけ分かんなくて……
仲間外れじゃないけど、笑ってるだけになる時があって……」
史は静かに頷き、手元のメモへ滑らかに書き留める。
「……わかりました」
パーティションの向こうで駆が入力作業を進め、数秒後、御珠のタブレットが微かに光を灯した。
暗幕のさらに奥――
フードを深くかぶった“さーや様”がゆっくりと姿勢を正す。
声が普段より低く落ちた。
「……そなた、苦しゅう思う必要はない」
女子生徒の肩がわずかに揺れる。
「え……?」
「そなたは“近づきすぎて”おる。
輪の中心へ無理に入ろうとするから、心が擦れるのじゃ」
その言葉に、胸の奥を掴まれたように息が止まった。
「半歩だけ、距離を置け。
追いつくための距離ではない。
“息ができる距離”じゃ」
女子生徒の瞳に、かすかな揺れが生まれる。
御珠はゆるやかに声を落とす。
「友とは、距離が合ったとき、自然に寄ってくるものぞ。
焦らず、半歩だけ……下がれ」
言葉が途切れると、暗幕の中に静けさが満ちた。
女子生徒は深く息をつき、軽く頭を下げた。
「……なんか……少し楽になった……
ありがとうございます……!」
暗幕を出ていく彼女を、咲良がすぐに迎える。
「どうだった?」
「すごいよ……!めっちゃ適格!
あれ誰なの?」
咲良は笑って肩をすくめた。
「ひみつだよ〜」
暗幕の奥で、御珠がそっと胸を張る。
(……妾、演技うまいじゃろ)
その気配に気づいた雪杜が、外側から小さく苦笑した。
(……ちょっと楽しんでるな、これ)
―――
PC室の前の廊下は、他の展示の声が遠く響くだけで、ここだけ取り残されたように静まっていた。
華蓮は腕を組んだまま、立てかけられた看板をじっとにらむように見つめている。
《さーや様の記録占い》
文字の横で揺れる飾りが、空調の風にかすかに揺れた。
(……占い?バカくせ……)
そう吐き捨てかけて、指先で前髪をつまむ。
触れた髪がさらりと流れ、蛍光灯の白をやわらかく拾った。
先日、莉子にもらったシャンプーとコンディショナー。
使ってみたら、思った以上に変化が出てきている。
(なんかツヤが出てきてるんだよなー。
……別に嬉しくねーけど)
心の片隅がじわりと熱くなる。
その熱をごまかすように目をそらした。
暗幕の向こうから、咲良が来場者を送り出し、そのまま気づいて駆け寄る。
「あ、坂本さん!来てくれたんだ!」
「べ、別に!通りがかっただけだし!」
咲良がぱっと微笑み、暗幕の入口を開いた。
「じゃあ入ってみてよ!さーや様すごいんだから!」
「……チッ。行くだけ行くわ!」
吐き捨てるように見せかけて、足が自然と前へ出る。
暗幕をくぐると、内部は照明が落とされ、肌にひやりとした冷たさが触れた。
史が椅子に座り、背筋を伸ばしたままペンを構えている。
「……どうぞ」
その静けさに飲まれるように、華蓮は一歩踏み込んだ。
(うわ、ちゃんとしてんじゃん……
なんか入りづら……)
「お悩みをどうぞ」
史の声は落ち着いていて、余計な抑揚がない。
それがかえって華蓮の胸の奥をざわつかせた。
華蓮は肩を竦め、視線を逸らす。
「……悩みってほどじゃねーけど。
あたしのこと……周りが“どれくらい見てんのか”知りたい」
史のまつげがわずかに震え、ペンが紙の上に乗る。
「……“見られている実感が掴めない”ということですか?」
「……まぁ、そんな感じ」
史のメモが駆へ渡され、すぐにキーボードの音が静かに重なる。
数秒して、奥の席のタブレットが小さく光を帯びた。
暗幕の奥、ローブのフードを深くかぶった御珠が、影の中で姿勢を整える。
低い声が落ちる。
「……そなた、他者の視線を“敵か味方か”で見すぎておる」
「……っは?」
反射的に声が漏れ、華蓮が首をひねる。
「視線とは、風のようなものじゃ。
強い時もあれば、弱い時もある。
そなたが構えれば構えるほど、風は乱れる」
言葉が、暗幕の中の手触りを変えた。
「……じゃあ、どうすりゃいいのよ」
暗幕の奥で、ゆっくりとフードが揺れる。
「まずは――鏡を見よ。
近頃、そなたの髪に艶が出てきておるじゃろ?」
「……!?な、なんでわかんだよ」
声が裏返り、自身の髪に触れる。
「“変化”とは、小さく積もるものじゃ。
その積み重ねに気づく者は、必ず現れる」
暗幕の影越しに、見えない視線が背中を押すようだった。
華蓮の胸がかすかに揺れる。
「そなたは変わりつつある。
それを“怖い”ではなく“面白い”と思え。
それで世界は変わる」
「……っ」
押し返す隙のない言葉だった。
胸の奥に落ちた熱が、呼吸をひとつ苦しくする。
しばらく黙ってから、華蓮は小さく息を吐いた。
「……ありがと。
……まぁ、参考にはするわ」
幕を出ると、咲良がすぐに顔をのぞかせる。
「どうだった?」
「……別に。悪くなかった」
そう言いながら、華蓮は指先で髪を一度触れた。
さらりと光を拾う毛先。
(……ほんとに、変わりつつあんのかね……)
―――
華蓮が退出したあとのPC室前には、占いの余韻がまだ薄く残っていた。
咲良が受付に戻り、呼び込みの声を作り直そうとしたそのとき――
「次の方どうぞー……って、あれ?」
視線の先から、堂々とした足取りが近づいてくる。
「よーっす。来たぞー」
颯太が片手をひらひら振りながら現れ、その横では莉子が照れたように頬を赤くしている。
二人の手はしっかり繋がれたままだった。
「……お邪魔します」
咲良は思わず声を弾ませた。
「うわっ、カップル参加!?ずる!」
「別にいいだろ。文化祭だぞ?」
飄々とした颯太に、莉子は「やめてよ」と小声でたしなめつつ暗幕へ向かっていく。
背中には緊張と期待が絡みついているのか、動きがわずかに硬い。
暗幕の内側では、御珠が“さーや様”のフードを深くかぶり、低い声の支度をしていた。
史はメモを整え、駆は入力準備でキーボードに指を添えている。
颯太は入って第一声で、堂々と言い放った。
「はは。お前、御珠だろ」
史のペンが止まり、呼吸が一度乱れた。
駆は内心で頭を抱える。
(うわ、瞬殺……)
暗幕の奥で、御珠の肩がびくりと動く。
「そ、そのような者は知らぬ……」
「いやいや。そのしゃべり方でわかるって」
「む……っ」
(こやつ、余計な観測をするでない……!)
咲良は外でそのやり取りを聞き、口元を押さえる。
(あ、御珠ちゃん今めっっちゃ動揺した)
莉子が苦笑しながら颯太の袖を引っ張る。
「颯太、こういうのは黙っておきなよ。
せっかくやってくれてるんだから」
「あーはいはい。わかったわかった」
御珠は咳払いし、無理やり声色を整え直す。
「……悩みを言うがよい……」
暗幕の中が、ぴんと張り詰めた。
莉子は深く息を吸い、視線を落として口を開く。
颯太は腕を組んで隣に立ちながら、耳は莉子へ向け切っていた。
「部活……ついていけなくて」
史が即座に動き、ノートに走り書きする。
「私、バスケ部入ったの……
でもぜんぜん上達できなくて」
「……莉子は頑張ってるよ」
颯太の言葉に、莉子は首を横に振った。
「颯太のそばにいたくて始めたの。
でも……プレイヤーじゃなくてもいいかなって……
私、マネージャー……向いてるのかもって」
史の手が止まる。
駆も、その内容の重さに気づいて視線を上げた。
史は必要な部分を静かに確認する。
「……練習に参加すること自体は、負担ですか?」
「ううん。みんな優しいし、嫌じゃない。
でも……“試合に出る”未来が見えなくて……
それなのに居続けるのも……なんか違う気がして」
史のメモが駆へ渡され、入力が慎重に進む。
数秒後、御珠のタブレットが静かに光を灯した。
御珠は深い声へ戻り、陰から言葉を紡ぐ。
「そなた」
莉子が顔を上げる。
その目は少し揺れていた。
「“そばにいたい”という願いは、動機として十分じゃ」
「……っ」
「大事なのは“何者として”そばにおるかではなく、一緒に歩む覚悟があるかどうかじゃ」
莉子の目に涙が滲む。
颯太がそっと手を握り返した。
「……俺は、どっちでも嬉しいよ。
莉子がいてくれるなら」
「ば、ばか……」
甘さがふっと広がった瞬間、控えめな声が横から落ちる。
「……いいと思うよ。
頑張り方って、人それぞれだし」
咲良と史と駆が、一斉に雪杜を見る。
普段は控えめなのに、こういう時は自然に核心へ触れる。
「無理に“同じ場所”じゃなくても 一緒にいたいなら、ちゃんと繋がれるから」
「……雪杜くん……」
(……うちの雪杜、こういう時だけイケメンかましてくるんだから……!)
(……雪杜。
そなた……そういうところ……ほんと罪なのじゃ……)
(……こいつ、時々刺してくるんだよな……)
莉子は手をぎゅっと握りしめたまま、深く頭を下げた。
「ありがとうございました……」
二人は、最初と同じように手をつないだまま退出していく。
咲良が胸に手を当てて呟いた。
「いいなぁ……青春だぁ……」
(……尊い……)
史は胸元で指を絡め、そっと息をついた。
(……“選んでいい未来”を、選べる子たち……)
御珠はフードの影で、小さな吐息と共に言葉を落とした。
「そなたら……幸せになるのじゃ」
―――
午後に入ると、PC室の前には途切れない人の列ができていた。
占いブースは予想以上の盛況で、受付の咲良が忙しそうに客をさばく。
雪杜は進行が詰まらないよう、あちこちへ目を配っていた。
パーティションの内側では、史が黙々と悩みを聞いていた。
姿勢は崩れず、声の調子も一定。
けれど、一人ひとりの話に耳を傾ける目には、いつもの“記録へ向けるまなざし”とは違う柔らかさが差していた。
史が要点を短い言葉にまとめるたび、駆は横でシステムに入力し、結果をすぐ御珠へ返す。
御珠は“さーや様”のまま淡々と告げ、来場者がこぼす「ありがとう」「助かった」に、史は戸惑いながら小さく頷いた。
駆はその様子を横目で追ってしまう。
手元のキーボードより、史の横顔へ意識が引き寄せられた。
(史さん……人と、話してる)
史は本来、“誰にも見せない記録”の世界で生きていた。
その彼女が今、他人の言葉を受け止め、返している。
(いつもは記録するだけなのに)
史の手は、かすかに震えながらも止まらず走り続けた。
表情は硬いままなのに、その内側で確かな変化が起きている。
(今は……人と向き合ってる)
来場者の一人が深く頭を下げて退出した。
その背に向けて返された、史の小さな頷き。
それを見た瞬間、駆の胸に静かな熱が灯る。
(史さん……)
頬に浮かんだ、笑みに近いごく薄い表情。
それがあまりにも珍しくて、目を離せなかった。
(この笑顔を、俺がずっと守りたい)
胸の奥に落ちたその言葉は、自分でも驚くほど自然に、すっと染み込んでいった。
―――
来場者の列が途切れ、PC室にようやく落ち着きが戻った。
咲良が受付の札を裏返し、「準備中」に切り替える。
「ね、雪杜。せっかくだし、他の展示も回らない?」
咲良が自然な調子で声をかける。
雪杜は史と駆の方へ視線を向ける。
二人が同じタイミングで息をつくのを見て、すぐに察した。
「……うん。行こっか。
御珠はどうする?」
御珠も、フードを外しながら静かに頷く。
「妾も巡ってくるのじゃ。
せっかくの祭りを見逃すのは惜しいのでな」
三人は気づかれぬように、そっと席を外す。
扉が閉まると、PC室の一角に残ったのは史と駆だった。
物音の切れた空間が、ゆっくりと二人を包み込む。
史は椅子に深く座り、胸元で手を重ねる。
「……ふぅ……」
駆が机の端に手を置き、声をかける。
「お疲れ様です」
史はゆっくりと顔を上げた。
さっきまで相談者と向き合っていた視線と違い、今はどこか遠くを見ている。
「……駆くん」
「はい」
「私たちで作ったものが……誰かの役に立ちました」
「はい」
史は胸の奥に手を当てるような仕草で、かすかに言葉を探す。
「あなたと一緒に作ったシステムが……」
そこまで言った瞬間――
胸の奥のなにかが破れたように、記憶が溢れ始めた。
――瓶を踏んだ音。
――倒れゆく影。
――冷たくなった白い顔。
――線香の煙の向こうにあった、現実。
――箸でつまんだ骨の重さ。
――“罰”のように記録を続けた日々。
どれも冷たい色ばかりだった。
史の喉がぎゅっと縮む。
視界がにじむ。
だが、その暗がりの向こうから、別の光景が少しずつ滲み出してくる。
初めて駆と出会った日の、不思議な安心。
「ちょっと貸ります」とノートを奪っていった頼もしさ。
合宿の夜。
肩が触れそうな距離で、同じ画面を見ていた時間。
夏の海の強すぎる日差し。
炭の匂い。
夏祭りで並んで食べた焼きそばの味。
そして今日。
自分の“記録”が、誰かを救った瞬間。
暗いものと明るいものが胸の奥でぐちゃぐちゃに混ざり、押しつぶされるように涙がこぼれた。
「……泣くつもりは、なかったんです」
駆は目を見開き、けれどすぐに表情を整える。
「……史さん」
「でも……嬉しくて……」
震える声で、史は両手で顔を覆った。
「私、ずっと……記録することしかできなくて……
誰かの役に立つなんて……思ってなくて……」
涙がぽたり、ぽたりと膝に落ちる。
駆はためらわず、史の隣に腰を下ろした。
距離は触れない程度、それでも拒めないほど近い。
「史さん」
「……はい」
「記録、全部読みました」
史の肩がびくりと震える。
息が詰まったように、指先が揺れた。
「……っ」
逃げようとした視線を、駆はやわらかく受け止める。
「史さんがどれだけ辛かったか……
どれだけ孤独だったか……
全部、わかりました」
史は言葉を失い、涙の奥で駆を見る。
「でも、その記録は“意味がない”なんてこと、ないです」
駆はゆっくりと息を吸い、静かに続けた。
「史さんが生き延びるために作った道標です。
俺は……それを読んだから、わかります」
史の瞳が揺れ、涙がさらにこぼれた。
駆は逃げなかった。
史の痛みを見ても、目を逸らさなかった。
「もう、一人じゃないです」
史は唇を噛み、肩を震わせながら泣き続けた。
「……ありがとうございます……」
その声は、掠れていて、それでも確かだった。
駆はその涙の全てを、静かに、ただ静かに受け止めていた。
―――
文化祭の喧騒が遠ざかり、校舎には“終わりの音”が残っていた。
剥がされたポスターの端が風に揺れ、台車の車輪が遠くで軋む。
片付けをしていたクラスの声も徐々に消え、夕陽が廊下を金色に染めていく。
「史さん、少しいいですか」
振り返った史のまつげにも、黄金色の光が淡く差し込んでいた。
史は小さくうなずき、そっと返す。
「……はい」
二人で歩く廊下は静かで、夕陽が足元に淡い色を落としていた。
空き部室には人の影はなく、しんとしている。
昼間の熱が壁に残り、窓辺だけ、ぬるいまま留まっていた。
「……史さん」
「はい」
駆はその名を呼んだ瞬間、胸の奥で何度も繰り返した言葉が、静かに息を吹き返すのを感じた。
それでも、逃げなかった。
「俺……史さんのこと……」
夕陽が強くなり、彼の横顔を照らす。
駆は深く、ゆっくり息を吸った。
「好きです。
付き合ってください」
息をする音まで遠のき、静けさが薄く揺れた。
夕陽が史の頬をやさしく撫で、瞳の奥の色を金色に染める。
史は一瞬だけ視線を伏せ――
次の瞬間、まっすぐに駆を見た。
「……」
言葉より先に、小さな笑みがこぼれる。
そこから涙がひとつ、光をまとって落ちた。
「あなたのせいで……泣き虫になってしまいました」
「え……」
史は涙をそっと指先で拭う。
その仕草は弱さではなく、ずっと抱えてきた過去を受け止めた者の強さだった。
「責任……取ってくれますか?」
駆の喉が震え、息がひっかかった。
それでも答えは、迷う必要すらなかった。
「……はい。
もちろんです」
史は涙の跡を隠すことなく、静かに微笑む。
「では……よろしくお願いします」
二人はゆっくりと歩み寄った。
距離が縮まるたび、影がひとつに重なっていく。
夕陽の熱がほどけていく空き部室で、“史と駆”という二つの線が――
初めて、同じ方向へ動き始めた。




