【幕間】神様は煩悩を抑えきれない
スマートフォンの液晶が、暗い室内で雪杜の顔をぼんやりと照らしていた。
バイト終わりの咲良との、何気ないやり取り。
咲良:バイト疲れたー
雪杜:お疲れ様
咲良:お父さんとお母さん
咲良:抱き合ってるの目撃しちゃった
雪杜:仲いいね
雪杜は、画面を見つめながら微笑みを返す。
咲良:なんか二人で見つめ合っててさ
咲良:私に気づいて慌てて離れてたけど
咲良:私が一生懸命バイトしてる時に何してんのよ(怒)
咲良の憤慨する様子が目に浮かび、雪杜は少し意地悪な返信を送った。
雪杜:もう一人兄弟できちゃったり
咲良:もう!冗談やめて!
ふふ、と喉の奥で笑い、おやすみのスタンプを送り合う。
雪杜はスマホの画面を消し、ベッドサイドに置いた。
隣で寝そべっている御珠へと振り返る。
「咲良バイト終わったみたい」
「ふむ。お疲れじゃの」
「澪さんとお父さんが抱き合ってたんだって」
「ふむ。陽向がもう一人できるかもしれんの」
雪杜は、自分と全く同じ発想をした御珠の言葉に軽く笑った。
二人はゆったりとしたダブルベッドに並び、天井を見上げる。
「……そういえば」
ふと思い出したように、雪杜が口を開いた。
「陽向に祝福授けてたけど、あれってどんな効果があるの?」
「なに、少しばかり病気になりにくくなるだけじゃよ」
「え、それだけ?もっとこう……強くなるとか、何でも上手くいくとか、そういうのかと思ってた」
「そなた。人にとって病から守られることがどれほどのことか、分かっておらぬな」
御珠がわずかに呆れた目を向ける。
「そなたもすでに恩恵を受けておるのじゃぞ。最近風邪をひいたか?」
雪杜は少し考えるように視線を泳がせた。
「……言われてみれば」
(さりげない神様ムーブ。好き)
その事実をあっさり告げる御珠の横顔を、雪杜はどこかくすぐったい気持ちで眺めた。
「そういうことじゃ」
雪杜は天井を見上げながら、しばし考え込んだ。
「じゃあ宝くじ当たりやすくなったりは……しないの?」
「運命の糸を一から紡ぐことは、神とてできぬ。
じゃが……病の影だけは、払ってやれるのじゃ」
「そっか……
じゃあ、颯太や駆にやってたあれも同じ?」
「あれはマネごとをしただけじゃ。効果はない」
「えー……知ったらがっかりするだろうな」
「神の恩恵などそうやすやすと授けるわけがなかろう。
占いと同じじゃよ。恩恵を授かったと信じれば、何事もその恩恵ゆえとありがたがる。
……そういう意味では、効いておるのかもしれぬがの」
御珠が涼しい顔で言い切る。
雪杜は苦笑しながらも、どこかほっとした表情を浮かべた。
(陽向には、ちゃんと届いてるんだな)
「雪杜よ。今宵は鍛錬をするのじゃ」
「きたわね」
「澪の呪縛が解けた今こそ、本格的に呪いを攻略する時じゃ」
「うん」
御珠は真剣な表情で、言葉を続ける。
「咲良はそなたと口づけを交わしたことで、調子に乗る。
そなたを本格的に落としに来る可能性がある」
そして、強い決意を込めた瞳で雪杜を見据えた。
「そなたが咲良と繋がる前に、妾らが繋がるのじゃ」
「御珠が先って誓ったよ」
御珠がこほんと喉を整えると、艶のある声で咲良のまねをした。
「『雪杜……なんでもするよ?』」
甘美な誘惑に、雪杜の肩がぴくりと跳ねる。
御珠は満足そうに口角を上げた。
「どうじゃ?耐えられるか?」
雪杜は数秒ほど思考を巡らせる。
「……耐えられるよ」
「……思春期とはそういうものと理解しておる」
御珠はどこか呆れたような、けれど優しい声で紡ぐ。
「では鍛錬を始めるのじゃ」
「うん。
僕、試してみたいことがあるんだ」
「申してみよ」
「呪いの逆流って……
距離は関係あるかな」
御珠の目が、わずかに細くなる。
「……ほう」
「触れなくても、逆流しないなら……出来ること増えそうだし……」
雪杜の脳内に、あんなプレイやこんなプレイが次々と浮かび上がり、みるみるうちに顔が赤く染まっていく。
御珠はため息を一つこぼした。
「……たまにそなたの変態っぷりに驚くが、まぁ思春期じゃしの……」
図星を突かれた雪杜は、たじたじになって視線を泳がせた。
御珠は横になったまま、すっと身を乗り出して雪杜の顔を覗き込んだ。
「ふむ。では試してみるかの」
「……うん」
雪杜が頷くのを見て、御珠は少しだけ身体をずらす。
「では……少し離れるのじゃ」
「分かった」
お互いがじりじりとベッドの端へ寄り、二人の間に約三十センチほどの空間ができる。
「では……そなたを想う」
「……うん」
雪杜が身構えるのを確認し、御珠は妖艶な声色を作る。
「愛欲の……心で……」
「っ……」
御珠がゆっくりと目を閉じた。
その脳裏に、様々な雪杜の姿が鮮明に浮かび上がってくる。
(雪杜の唇……)
(雪杜の胸板……)
(雪杜の……あれ……)
(……が……)
(妾……に……)
想像が加速し、閉じられた瞼の下で御珠の顔がみるみる赤く染まっていく。
数秒の沈黙。
その直後、雪杜の胸が内側から見えない手でぎゅっと締め付けられた。
「っ……!」
雪杜の息が急に詰まり、苦悶の声が漏れる。
異変に気づいた御珠が、弾かれたように目を開けた。
「いかん!」
御珠は慌てて首を振り、雑念を追い払おうとする。
(心頭滅却)
(心頭滅却)
苦しみが引いていき、雪杜は肩で大きく息をした。
「……はぁ……はぁ……大丈夫だよ……」
「すまんの……触れているかは、関係ないようじゃな……」
申し訳なさそうに眉を下げる御珠に、雪杜は無理に笑顔を作った。
「……もっと距離が開くとどうなるか試してみたいけど……今度にしよう」
御珠が距離を詰め、雪杜の震える手をそっと握る。
「こんなにも愛おしいのに……」
「いいよ。焦らずにいろいろ試そ」
「うむ……」
御珠は少し考え込むような素振りを見せた後、雪杜を見つめた。
「逆はどうかの?」
「逆?」
「そなたが妾を想う。
愛欲の心で」
「……」
雪杜は無言のまま、熱を帯びた瞳で御珠を見つめ返す。
(いつも思ってる)
言葉には出さなかったが、その視線だけで十分だった。
「……」
御珠の頬に再び朱が差す。
「……思春期じゃの」
「……うん」
照れくさそうに笑う雪杜に、御珠も小さく息を吐いた。
「難しいね」
「うむ」
御珠の表情が、神としての真剣なものへと切り替わる。
「じゃが……慈悲の心で満たされれば、逆流せぬことが分かっておる」
「うん」
「愛欲を抱くと、そなたは苦しむ。
慈悲の心であれば、抱き合うこともできる」
「……でも」
雪杜の懸念を遮るように、御珠は深く頷いた。
「うむ。それが難しい」
御珠が、雪杜の目を真っ直ぐに射抜く。
「妾はそなたを抱きしめたい時、いつも愛欲が混ざる」
「……うん」
「それを制御するのが、鍛錬じゃ。
今日も……抱き合うのじゃ」
「……うん」
二人はシーツの上を滑るように、ゆっくりと近づいていく。
御珠が目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
(慈悲の心……慈悲の心……
愛欲がひと欠片でも混ざれば……雪杜が苦しむ……)
自らに言い聞かせるように念じながら、御珠が雪杜の身体をそっと抱きしめる。
数秒が経過した。
「……大丈夫」
「……うむ」
雪杜の身体に異常はない。
しかし、背中に回された御珠の指先が、雪杜の服の生地を強く握りしめていた。
御珠の内心では、凄まじい葛藤が渦巻いている。
(……つらい)
(こんなに近いのに)
雪杜の体温と匂いが、御珠の理性を激しく揺さぶる。
(今すぐ雪杜の口を吸いたいのじゃ~)
(いかん!愛欲を抱くでない!)
(……でも胸にうずくまりたいのじゃ~)
(いかん!愛欲を抱くでない!)
(……でもあれを○○して雪杜を悦ばせたいのじゃ~)
(い……いかん!)
(……でも、あ……あれを……妾に……)
(い……いか……)
ついに限界に達したのか、御珠が唐突に声を上げた。
「……よい」
ばさりと音を立てて、御珠が雪杜から離れる。
「今日は……ここまでじゃ」
「……うん」
距離を取った御珠の肩が、小刻みに震えている。
「御珠、無理しないで」
「無理はしておらぬ」
強がる御珠の横顔は、不満と我慢でいっぱいだった。
「これが……妾らの日常じゃ」
「……うん」
「……妾はそなたを抱き伏せたい気持ちを毎日押し殺しておる」
御珠は悔しそうに唇を噛み、そして静かな決意を込めて雪杜を見る。
「いつか……
愛欲を抱いたままでも触れ合える日が来る。
じゃが、いまはその時ではない……鍛錬あるのみじゃ」
「……一緒に頑張ろう」
「うむ」
雪杜の優しい言葉に、御珠はようやく穏やかな表情を取り戻した。
二人は再びベッドに横たわり、きょうも手を繋いで眠りにつく。
「……雪杜。妾がそばにおる限り、そなたの呪いは妾が抱える。
ゆえに安心して眠るがよい……」
繋いだ手から伝わる温もりを感じながら、御珠は囁く。
「愛しい……いまの妾にできるのは、これが精いっぱいじゃ……」
御珠が上体を起こし、雪杜の額にそっと、慈愛に満ちた口づけを落とす。
(……御珠……)
雪杜は心の中でその名を呼び、静かに目を閉じた。
窓の外では、夜が静かに更けていく。




