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神愛 ─ 永遠の刹那 ─  作者: 神愛
第4章 中学生編 ― それぞれの場所 ―
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第35話 灯火の誓い2

行灯の火が小さく爆ぜる。

その音さえ耳に届くほど静かな室内で、御珠が意を決したように唇を割った。


「きょうは報告に参った」


「聞かせて」


澪は正面から御珠を見据え、短く促す。


「昨年と同じ報告じゃ。

 この一年、咲良は泣いておらぬ」


「……そうね。

 知ってる」


澪の答えは冷淡だった。

傍らでは、聡が腕の中の陽向を静かにあやしている。

だが、その視線は一度として御珠から離れない。


不意に、澪の矛先が雪杜へ向いた。


「雪杜くん」


「……はい」


呼ばれて、雪杜の背筋を冷たい汗が伝う。


「去年、御珠ちゃんが一人で来た時のこと、知ってる?」


「……公園で泣いてたのは、知ってます」


それを聞いた瞬間、澪の眉がわずかに動いた。

不機嫌か、あるいは驚きか。


「そう」


澪は一度言葉を切り、射抜くような視線で問いを重ねる。


「じゃあ聞くわ。

 あなたは何を知ってるの?」


「……御珠が、咲良を泣かせたら」


胸の奥が締め付けられ、言葉が喉でつかえる。

それでも雪杜は逃げず、続きを絞り出した。


「続けて」


「……消えるって」


室内の熱が一気に引いた。

過酷な真実が、行灯の影を濃く落とす。


「きゃっ!」


言葉の途切れを裂いたのは、陽向の無邪気な声だった。

聡は慌てず、そっと小さな背中をなだめる。


澪はゆっくり視線を御珠へ戻した。


「……言ったのね」


「雪杜には知る権利がある」


御珠の言葉に迷いはない。


「そう」


澪が淡々と応じたその時、雪杜の握りしめた拳が微かに震えだす。


「……僕は怒っています」


「……」


澪は答えない。

雪杜は込み上げる激情を必死に抑え、言葉を紡いだ。


「咲良を泣かせたら、御珠が消えるっていうなら――

 御珠を泣かせるヤツは僕が許さない」


「そなた……」


隣に座る御珠の目が、みるみるうちに潤んでいく。


かつて気弱だった少年が、愛する者を護るために剥き出しの敵意を向けている。

澪は、その内側に立ち上がる「男」の気迫に押され、思わず息を呑んだ。


揺れる光の中で、雪杜の告発が続く。


「御珠は泣いてました。

 一年前の時も、この話をしてくれた時も」


「消えたくないって。

 隠すのが辛かったって」


澪の瞳が揺れる。

雪杜の目は、守られてきた子供のものではなかった。

愛する者を奪おうとする世界を、真っ向から睨みつける者の目だ。


澪は重い沈黙のあと、静かに溜息を吐き出した。


「……それで、どう許さないのかしら」


試すような問いに、雪杜は自分の中にある最も醜く、最も強力な武器を突きつけた。


「これ以上、御珠を泣かせるなら……咲良を捨てます」


言った瞬間、雪杜の胃の奥が激しくひっくり返る。

自分がどれほど最低なことを口にしているか、分かっていた。


だが、温情や理性では届かない相手には、この呪いのような言葉でしか対抗できない。


「捨てる」という、実の娘を物扱いするような言葉。

澪の表情に激昂の赤が差したが、それが自分を煽るためのものだと悟り、かろうじて口を噤んだ。


「……それは……願ったり叶ったりね」


絞り出すような澪の虚勢を、雪杜は冷酷な追撃で粉砕する。


「……でも咲良は“自殺”するかもしれませんね」


「……っ」


それは、ただの別れではない。

文字通り“捨てる”。

徹底的に心を折り、彼女の生きる糧を奪い去るという宣告だった。


澪の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。


「……そう……くるのね」


「咲良はもう僕たちから離れられない。

 いま捨てればどうなるか分かりますよね」


雪杜の言葉に、澪の肩が小さく震えだした。

それは怒りではなく、明確な恐怖だった。


「……咲良を……人質にとるの……?」


その問いに、聡が陽向を抱く腕へぐっと力を込める。

室内の緊張が限界へ近づいていった。


「先に御珠を人質に取ったのはそっちだ」


「違う雪杜!」


耐えかねたように御珠が割って入った。


「妾は自ら人質になったのじゃ!

 澪が言い出したわけではない!」


咲良を捨てると言い切った雪杜の暴走を止めるため、必死にフォローへ回る。

しかし、雪杜の目は据わったままだった。


「でも結果的に受け入れた。

 御珠を泣かすなら許さない」


「……」


本気の怒りを宿した雪杜を前に、御珠も言葉を失う。


御珠を消さないために、咲良を殺す。

それは、あまりに歪で、あまりに強固な守護の誓いだった。


二人の子供の、あまりに残酷な均衡。

それを見守る聡は、心中で苦渋を噛み締めていた。


(……互いの生殺与奪を握る関係)

(しかし咲良はこの二年間、泣いていない……こちらが圧倒的に不利……)


勝利者のいない戦。

祭囃子が遠のいた小さな部屋を、重い無言が覆っていった。


重い無言を割り、御珠が静かに雪杜へ声をかける。


「雪杜」


「うん」


雪杜は、まだ震えの引かない拳を握りしめたまま応じる。


「……もうよい」


「……」


「言いたいことは言えたじゃろ」


穏やかで、しかし断固とした響きに、雪杜の肩からわずかに力が抜ける。

御珠はそのまま、正面で打ちひしがれる女性を見つめた。


「……澪よ」


名を呼ばれ、澪がゆっくりと顔を上げる。

瞳は赤く、今にも零れそうな涙が溜まっていた。


「雪杜は……不器用じゃ」


「……」


「脅すつもりで言ったのではない。

 ただ……怖かったのじゃ」


御珠が雪杜の心の内を代弁する。


(御珠……)


雪杜は、すべてを見透かされている気恥ずかしさと救いに、小さく俯いた。


「妾が消えることも。

 咲良が壊れることも。

 全てが怖くて」


「……それだけじゃ」


御珠の声が小さく震える。

その告白に、澪の肩も呼応するように震えだした。


(怖かったのは、この子も同じなのね)


同じ「恐怖」を抱えていた。

その共鳴が、澪の頑なだった心を少しずつ溶かしていく。


「……澪」


聡が静かに、諭すように名を呼ぶ。


「……分かってる」


澪は深く息を吸い込み、視線を雪杜へ戻した。


「雪杜くん」


「……はい」


「あなたは咲良を捨てない。

 御珠ちゃんを泣かせない。

 両方やろうとしてる」


「……はい」


迷いのない返答。

だが、澪の懸念は消えない。


「それが無理だと思うから、私は心配してるの」


「……無理じゃないです」


「根拠は?」


雪杜は言葉を探すように視線を彷徨わせ、それから少しだけ声を落として告げた。


「……三人でいると」


「笑顔が絶えないから」


そのあまりに純粋で残酷な「根拠」に、澪は力なく目を伏せる。


(……咲良が言ってた)

(今すごく幸せって)

(あの子の顔……嘘じゃなかった)


娘の幸せが、親の常識を否定していく。

その矛盾に耐えかねたように、澪の声が震えた。


「どうすれば……」


「……」


「どうすればあなた達は、諦めてくれるの!」


絶叫に近い叫びが上がった、その瞬間だった。

閉ざされた障子を突き抜けて、鮮烈な光が小さな部屋に差し込んだ。


行灯が落としていた影が一瞬で掻き消え、四人の顔が真っ白な閃光に照らし出される。

誰もが息を呑み、動くことも、喋ることも忘れてその光に釘付けになった。

遅れて地響きのような「音」が腹の底まで響き、床板を震わせる。


花火の光がゆっくりと引き、部屋には再び行灯の頼りない薄闇が戻った。

その暗がりに紛れるように、澪は誰にも見せてこなかった心の澱を吐露し始めた。


「あなたのおじいちゃんが亡くなった時……

 正直、ほっとしてしまったのよ」


「……っ」


「二人暮らしになったら、あなた達の距離は加速的に縮まる。

 そうなれば咲良は泣く。

 泣けば御珠ちゃんは……消える」


澪は自嘲気味に言葉を続ける。

親としての歪んだ安堵が、思い通りにならない現実に打ち砕かれていく。


「でもね。

 冬休みの始めに、あの子、笑って帰ってきたの。

 もう何も心配ない、みたいな安堵の表情を浮かべて」


「どんな魔法を使えばそうなるの!?」


その問いに、雪杜はあの日を思い出す。


(御珠が咲良に僕の気持ちをバラした日のことだ)


あの日から、自分たちの関係は歪なまま安定してしまった。


「それからもずっと……笑顔のまま……

 どどめはこないだの家出よ!」


「あの子、『今、すごく幸せなのに』って言って出ていったわ」


澪の声は、もはや悲鳴のようだった。


「なんで三人で笑っていられるの!?

 こんなの間違ってるはずなのに!!」


倫理も、常識も、親心も通じない。

その行き止まりの感覚に、聡が静かに口を開いた。


「澪……」


「……」


「諦めるのは……僕たちのほうだよ」


聡は陽向を抱く腕をそっと見下ろし、慈しむように、そして自分たちに言い聞かせるように言葉を紡ぐ。


「……そのために」


「……陽向を産んだんだろ」


聡の言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が凍りついた。

御珠が小さく息を呑む。

雪杜は思考が止まったように、その場で固まるしかなかった。


「そなた……」


御珠の唇が震え、言葉が続かない。


(やはり……そうであったか……)


悠久の時を観測し続けてきたはずの神が、たった一人の人間の、あまりに重すぎる愛の決断を前にして声を失っていた。


「……っ……」


張り詰めていた糸が切れたように、澪がその場に崩れ落ちる。

畳に両手を突き、耐えきれない重圧を逃がそうとするが、肩の震えは止まらない。


「……そうよ」


喉の奥から、乾いた嗚咽が漏れ出す。


「半分諦めてた……

 神が……土下座までして咲良を欲するのよ……

 敵うわけないじゃない。

 きっと、いつかこうなるって……」


「だから、陽向を、産んだ」


震える声で告白する澪の肩に、聡がそっと手を置いた。

陽向を抱いたまま、その重みを分かち合うように。


障子の外からは、遠く祭りの喧騒と、断続的に上がる花火の炸裂音が響いてくる。

その華やかな音さえ、この部屋の闇を深める材料でしかなかった。


(咲良は……知らない)


雪杜は唇を噛み締めて目を伏せた。


(この重さを……知らないまま、今日も笑ってる)


彼女の無垢な笑顔を守るために、どれだけの代償が払われてきたのか。


御珠は静かに、深く頭を下げた。


「……妾の我儘で、すまぬ。

 ……すまぬ」


「もう……いいの……」


澪は両手を突き、畳に額を擦りつけるようにして深く頭を下げた。


「神様……これまでの数々の非礼。

 深く……お詫び申し上げます」


重い無言が部屋を満たす。

行灯の光が、伏せられた二人の背中を静かに照らし続けた。


やがて、澪が顔を上げぬまま、震える声で最後の願いを口にする。


「……咲良を」


「咲良を……お願いします」


その悲痛な叫びに、御珠はゆっくりと顔を上げ、静かに、だが確固たる意志を込めて頷いた。


「……必ず」


その時、聡の腕の中で眠っていた陽向が、ぱちりと目を開けて声を上げた。


「きゃっ」


無邪気なその声に、御珠の視線が吸い寄せられる。

御珠は静かに立ち上がると、陽向の元へ歩み寄り、その小さな頭にそっと手を置いた。


「……せめて。

 そなたら家族に、祝福を」


御珠の手から溢れた藍色の光が、行灯の炎に溶け込むように揺らめく。

光は静かに、そして温かく部屋を包み込み、陽向の元へとゆっくり集まっていった。


聡が驚きに息を呑む中、陽向は眩しそうに目を細め、御珠を見上げてにっこりと笑った。


その瞬間だった。

張り詰めていた何かが、ようやく千切れたように――

澪の喉から、抑えきれない嗚咽がこぼれ落ちた。


「……ぁ……っ……う……っ……!!」


唇が震え、肩が激しく波打つ。

それは大人が見せるべき姿ではないほどに、剥き出しで、限界を超えた子供のような泣き声だった。


「う、うぁ……ああああぁ……っ……!」


聡が片手で澪を抱き寄せ、陽向が母の異変に不安そうに小さく鳴く。

だが、その涙を止める者は誰もいなかった。


二年分。

雪杜と出会い、御珠の正体を知り、娘の未来に怯え、葛藤し、罪悪感に苛まれ続けた。

母としての、あまりに孤独な祈りが、今すべて溢れ出していく。


行灯の光が、畳に落ちた涙の粒をきらりと照らした。

外では、また一つ大きな花火が開く。

その光が消える頃には、この部屋を縛っていた呪いのような執着も、少しずつ夜の闇に溶けていくようだった。

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