第33話 灯籠が三つ流れた夜
参道には赤い提灯が連なり、夏の夜気が熱を含んで揺れていた。
焼きとうもろこしの香ばしい匂いが風に流れ、人の波が絶え間なく続いていく。
雪杜と咲良は並んで歩いていた。
浴衣姿の咲良は、歩くたびに淡い色の帯が揺れ、祭りの明かりに照らされている。
「ねぇ、似合う?」
彼女はそっと身を寄せて問いかけた。
「……うん、似合ってる」
「ほんと?」
「ほんと」
(やった)
咲良が嬉しそうに小さく笑うと、雪杜は横顔から視線を外した。
屋台の灯りが点々と続き、色鮮やかな看板が夜の参道を飾っていた。
二人はその間をゆっくり歩きながら見て回る。
「あ、りんご飴!」
咲良が指差した先で、赤い飴が光を受けて輝いている。
「食べる?」
「食べる!」
雪杜が財布を取り出して買い、咲良へ渡す。
咲良は嬉しそうに一口かじった。
「あまーい」
「そりゃそうだよ」
「雪杜も食べる?」
「いいよ」
「じゃあ一口あげる」
咲良が飴を差し出す。
雪杜はわずかに固まった。
(……間接キスでは)
それでも受け取るように顔を近づける。
「……ありがとう」
(ふふ……成功)
咲良の満足げな笑みに、祭りの灯りが柔らかく揺れた。
―――
同じ頃、別の参道では御珠と華蓮が歩いていた。
華蓮は人混みを避けるように肩をすくめ、伊達メガネとマスクで顔を隠している。
「人多いな」
「うむ」
「御珠は変装しなくていいのか?」
「妾には必要ない」
「……なんで?」
「妾ほどの美貌になると、皆、気遅れして近づかぬのじゃ」
「え!?マジで!?でも確かに……」
華蓮は横目で御珠を見た。
時折、明かりを受けた髪や瞳がほんのり光って見え、言葉を失う。
(確かに近づきづらいけど)
(なんか、たまに光ってるし)
御珠は淡々と言葉を続けた。
「そなたは目立ちすぎるでの。背も高い」
「背高いのは仕方なくね?」
「咲良も、莉子も器量よしなのに言い寄られぬじゃろ?」
「あいつらは彼氏持ちだし」
「そうではない。
うまく気を張って近づかれぬようにしておるのじゃ」
「そうなの?」
「そうじゃ。
そなたは男勝りゆえ、隙が多い。
男どもが勝手に勘違いしよる」
華蓮は言葉に詰まる。
歩幅がわずかに小さくなった。
「そうは言ってもなぁ……」
「今度、莉子に教えてもらうとよい」
「……そうしてみる」
御珠は視線を向け、声を落とす。
「そなたは、美しいのじゃ。
ただ、まだそれを扱い慣れておらぬだけよ」
華蓮の頬が赤く染まる。
「……はぁ、マスク暑っつ」
「外せばよいではないか」
「うーん」
「そなたの綺麗な顔が見たいのじゃ」
「でもなー」
「妾がそばにおれば大丈夫じゃ。
そこらのボンクラに負けるはずがなかろう」
「それもそうだな」
華蓮はためらいながらも、マスクと伊達メガネを外した。
「はーさっぱり」
「うむ。綺麗じゃぞ」
「よせやい」
御珠の真っ直ぐな肯定に、華蓮は照れながらも肩の力を抜いた。
「よし!焼き鳥食おうぜ!」
「うむ。そういうところが男勝りなのじゃぞ」
華蓮は思わず吹き出し、肩を軽くぶつけるように歩く。
御珠は涼しい顔のまま、それでもどこか楽しげに歩調を合わせた。
二人の歩く足音に、夏祭りのざわめきが遠ざかっていく。
華蓮の頬にはまだ照れの熱が残り、御珠はその横顔を、風をほどくような静けさで見守っていた。
今日だけは――華蓮が“可愛いまま”でいられる時間が、確かに流れていた。
―――
祭りのざわめきの中、雪杜と咲良は人波を縫うように並んで歩いていた。
浴衣の裾が揺れ、遠くで太鼓の音がかすかに響いている。
「ねぇ雪杜」
咲良が肩越しに視線を向ける。
「うん」
「いつだったかの夏祭り、覚えてる?」
「……うん?」
「御珠ちゃんが迷子になったやつ」
(小5の時か)
「覚えてるよ。
あの時は焦ったよ」
咲良は小さく笑った。
「ふふ。私も探し回ったよ」
「咲良も一緒に探してくれてたんだ」
「当たり前じゃん」
咲良は歩きながら、記憶の奥を撫でるようにまぶたを伏せた。
(その時、川辺で御珠ちゃんが泣いてて……
雪杜が見つけて……
私はお母さんと遠くから見てた)
提灯の光が咲良の横顔を照らし、揺れた。
「きょうは華蓮ちゃんとどっかにいるのかな。
今年は……迷子にならないといいね」
「もうならないでしょ……たぶん」
「ふふ」
二人の歩幅がそろい、夜風がわずかに冷たくなった。
そのとき、太鼓の音が近くの広場から響きわたる。
ドン、ドドン。
咲良が立ち止まり、耳を澄ませた。
「あ」
「どうしたの?」
「川、行かない?」
「川?」
「灯籠流し。見たいな」
雪杜は空を見上げ、それから頷いた。
「……うん、行こう」
―――
御珠と華蓮は参道を歩いていた。
御珠が足を止める。
(……川の方向じゃ)
「どうした?」
「……川の方に行くのじゃ」
「え、何かあんの?」
「うむ」
御珠は静かに目を細めた。
(雪杜が……川に向かっておる)
「華蓮、付き合うてくれるか」
「……分かった」
―――
川沿いには、灯籠が静かに浮かび、淡い光を揺らして流れていた。
人混みから離れた場所で、雪杜と咲良が並んでその光景を眺めている。
「きれい……」
「うん」
水面にゆらぐ灯籠の明かりが、二人の表情にもかすかに映っていた。
(御珠が初めて僕の名前を呼んでくれた場所だ)
雪杜の胸の奥に、あの日の川辺の風がよみがえる。
「雪杜」
「うん」
「……楽しい?」
「うん」
「よかった」
咲良は灯籠を見つめたまま、そっと微笑んだ。
その横顔は、揺れる光よりも柔らかかった。
―――
少し下流の対岸。
御珠と華蓮は、人目を避けるように岩陰へ身を寄せていた。
川面から吹く夜風が、遠くの祭囃子をぼんやり運んでくる。
御珠は流れの向こうに視線を細める。
(おった)
雪杜と咲良が並んで灯籠を見ている姿を見つけると、
御珠はそっと片手を上げた。
彼女の指先がほんのわずか動いた瞬間、周囲の人影が川辺からふわりと離れていく。
まるで「自然にそう歩いただけ」のように。
けれど、明らかに御珠の力が働いていた。
「あれ、なんか人減った?」
華蓮が目をぱちぱちさせる。
「うむ」
「……御珠?」
「見ておれ」
御珠は静かに呟き、川上へと顔を向けた。
―――
川沿い。
雪杜と咲良の周囲から、いつの間にか人の影がすっかり消えていた。
灯籠の光と、穏やかな水音が二人を包んでいる。
「……なんか人、いなくなったね」
「そうだね」
「不思議」
「うん」
二人はしばらく言葉もなく、流れゆく灯籠を見つめた。
「咲良」
「うん?」
雪杜は息を吸い、胸の奥にある想いを表へ押し出すように口を開いた。
「……三人でいると、楽しいな」
「え?」
「こないださ。家出してきた日」
「……うん」
「三人でご飯作って、TVみて、くだらないこと話して」
「うん」
「当たり前だと思ってたけど」
咲良は雪杜の横顔を見つめ、肩を寄せる。
「……うん」
「当たり前じゃなかった」
その言葉に、咲良の目がわずかに揺れた。
雪杜は灯籠へ視線を落とし、低く続ける。
「陽向くんが生まれた日さ」
「うん」
「咲良がいないだけで、世界が違う色になったんだ」
「……雪杜」
「気づいてなかったんだよね。ずっと」
灯籠の光が、ふたりの間をそっと照らす。
「咲良がいると笑える。
三人でいると明るい」
「それが……どれだけ、すごいことか」
咲良の瞳に光が滲む。
「……バカ」
「うん」
「今頃気づいたの?」
「うん」
「……もう」
咲良は一度灯籠へ視線を戻し、柔らかく笑った。
「私もずっと思ってたよ」
「うん」
「三人でいるの、大好きだって」
「うん」
「雪杜といるの、大好きだって」
「……うん」
「御珠ちゃんも大好き。
……もう離れてあげないから」
その言葉が落ちた瞬間、川風がそっと二人の間を通り抜けた。
雪杜と咲良は、ゆっくりと見つめ合う。
灯籠の光が揺れ、その明かりが二人の距離を包み込む。
自然に。
ゆっくりと。
雪杜が咲良へ近づく。
咲良はその気配を胸で受け止め、そっと目を閉じた。
二人の唇が触れ合う。
柔らかく、静かに、まるで灯籠の流れに溶けるように。
川の水面では、灯籠が途切れることなく流れ続けていた。
―――
対岸。
川を隔てて灯籠が静かに流れ、夜風が衣の端を揺らしている。
御珠は、ただそこに立っていた。
川辺に寄り添う雪杜と咲良。
その二人を穏やかな表情で見つめている。
穏やかなのに。
頬を、光がひとすじ伝った。
それが涙だと気づくまで、わずかに時間がかかった。
「……御珠」
隣の華蓮が、小さく呼びかける。
御珠は答えない。
声を外へ出す余白すら残っていないように、視線だけを川へ向けていた。
華蓮はその視線の先を追う。
(雪杜……と咲良……)
(御珠……お前……ずっとこうやって見てたのか)
夜の川は静かで、せせらぎと遠くの祭囃子が、ふたりの間をゆっくり流れていく。
しばらくして、華蓮がぽつりとつぶやく。
「……好きなのに近づけないって、つれーよな」
その一言に、御珠の肩がわずかに揺れた。
小さな震え。
けれど、それは御珠にしてはあまりにも大きかった。
「お前が悪いわけじゃねーのにな」
華蓮の声は強くも優しくもなく、ただ“理解している”色だけを帯びていた。
その瞬間、御珠はそっと華蓮へ寄りかかる。
肩に伝わる重さは、羽のように軽い。
けれど。
(……軽い)
(こんなに軽いのに)
(こんなに重いもん抱えてんのか)
華蓮はゆっくり腕を回し、落ちそうなその身体を受け止めた。
御珠の髪が、夜の灯りに淡く揺れる。
「……泣いていいぞ」
投げるようでもなく、誘うようでもなく、ただ“そこにいていい”と言うように、華蓮は囁いた。
御珠は何も言わない。
黙ったままの横顔は、ひどく脆い。
彼女は灯籠の流れる川を見続ける。
(……雪杜が、笑っておる)
(それでいい)
(それでいいのじゃ)
(それでいいのじゃ……)
言葉といっしょに、涙がまたひと粒こぼれた。
夜の川へ吸い込まれるように、静かに落ちていく。
灯籠が流れ続ける。
光が揺れて、遠くへ、さらに遠くへと運ばれていく。
この夜、雪杜と咲良は、初めて口づけを交わした。
―――
天野家。夜。
玄関を開けると、涼しい空気がすっと流れ込んだ。
外の喧騒とは対照的に、家の中はひどく静かだった。
「ただいま」
居間の方から、常夜灯の薄い明かりが漏れている。
雪杜が靴を脱いで向かうと、そこに御珠が座っていた。
浴衣のまま、膝の上に両手を揃え、闇と光の境目にいるように。
「おかえりじゃ」
「……御珠」
雪杜は御珠の正面に座る。
卓を挟んだ距離なのに、胸の奥は妙に遠い。
息を整える暇すら、無言が長く続いた。
やがて、御珠が口を開く。
「咲良と……口づけをしたのか……?」
その声は責めでも嫉妬でもなく、
ただ事実を確認するだけの、静かな音だった。
雪杜の肩が、わずかに跳ねる。
「……うん」
「そうか……」
短く息を吐いたあと。
「……よい」
その言葉と矛盾するように、御珠の頬を一筋の涙が伝った。
「っ……御珠……!」
雪杜が反射的に手を伸ばそうとした瞬間、御珠の細い腕が空を切るように制した。
「触れるでない!」
指先の震えが、灯りにかすかに揺れた。
「……妾は、よいと申した」
涙は止まらないままだ。
「御珠……ごめん……
御珠に一生を捧げるって誓ったのに……」
「よいのじゃ……妾が許す」
「でも……」
「よい」
御珠は袖で涙を拭う。
その仕草が痛いほどいじらしくて、雪杜は息を詰める。
「妾は……そなたと咲良が笑っておればよい」
「……」
「それが……妾の願いじゃ」
御珠は、泣き跡を残したまま小さく笑った。
その微笑みは、あまりにも優しくて残酷だった。
「……華蓮に抱きしめてもらったのじゃ」
「……え」
「川で……そなたと咲良を見ておった」
(見てた……)
「二人が……幸せそうで……
妾も……嬉しかったのじゃ」
「御珠……」
「じゃが……胸も痛んだ」
「それを……華蓮が受け止めてくれた」
御珠は、涙まじりの息を吐いた。
「妾は……大丈夫じゃ」
「ただ……少し、泣きたかっただけじゃ」
しばらく、二人は言葉を失ったまま座っていた。
常夜灯の橙色の光が、揺れながらふたりの影を重ねる。
「……明日は」
雪杜がぽつりと口にする。
「一緒に行く」
「……うむ」
「去年みたいに、一人で行かせない」
「……分かっておる」
御珠はわずかに微笑む。
「そなたは……優しいの」
「優しくなんかない」
「優しい」
「……御珠を泣かせてる」
「泣かせておらぬ。
妾が……勝手に泣いておるだけじゃ」
「……」
「そなたのせいではない」
御珠は立ち上がり、寝室へ向かう。
歩幅はいつも通りなのに、背中が少し細く見えた。
途中で振り返る。
「……雪杜」
「うん?」
「……妾は、そなたが好きじゃ」
「……うん」
「咲良も……好きじゃ」
「……うん」
「じゃから……三人で笑っておればよい」
「それが……妾の幸せじゃ」
その言葉を残し、御珠は静かに寝室へ消えた。
居間に雪杜が一人残される。
常夜灯の淡い光が、部屋をかろうじて形にしている。
(御珠……)
(ずっと我慢してた)
(一人で抱えてた)
(明日は……一緒に行く)
(もう一人にしない)
雪杜は立ち上がり、眠る準備を始めた。
夜が、静かに更けていく。




