第30話 咲良エスケープ1
夏祭りを数日後に控えた春原家の夜。
夕食を終えたリビングには、食卓の熱とテレビの音が残り、陽向のぐずる声がかぶっていた。
澪は流しに立ち、食器を洗いながら手を止めかける。
皿をこする指先に力が入り、泡が水面でゆっくり崩れた。
(あの子、明日も雪杜くんの家にいくつもりかしら……)
(このままじゃ……)
水を止め、手を拭いた澪は振り返る。
ソファでくつろいでいた咲良が視線を受け、顔を上げた。
「咲良」
「なあに、お母さん」
「明日も雪杜くんの家にいくつもり?」
咲良の肩がわずかに跳ねる。
短い硬直が、澪にははっきり見えた。
「そのつもりだけど……」
澪は深く息を吐く。
言葉を選ぶ様子もなく、迷いがそのまま表情に出ていた。
「しばらく雪杜くんの家への出入りを禁止します」
「……え?」
「聞こえたでしょ」
「なんで!?」
咲良の声が弾み、陽向がびくりと身を縮める。
澪は一度そちらへ目をやり、それでも言葉を切らなかった。
「あの家、今は雪杜くんと御珠ちゃんの二人だけでしょ」
「だから何!?」
「だから何、じゃないの。
あなた、自分の立場わかってる?」
「立場って……」
「雪杜くんには御珠ちゃんがいる。
それはもう分かってるでしょ」
「わかってるよ!」
「だったら……」
「私のことも好きって言ってくれたもん!」
咲良の言葉は針のようにまっすぐだった。
澪はもう一度息を吐き、目を伏せる。
「咲良……
御珠ちゃんと雪杜くんを見てたら分かるでしょ。
あの二人は最初から決まってる関係なの」
咲良は唇をかみしめ、俯いた。
澪は続ける。
声は強いのに、どこか震えが混じる。
「御珠ちゃんがあなたを大切にしてるのは分かってる。
でもね……」
「何?」
「あの子、あなたを家族にしたいのよ」
「……それの何が悪いの」
「家族って……
側室ってことでしょ!」
「違う!」
「違わないでしょ!
あの子が積極的にあなたを引き込もうとしてるのが見えてないの!?
あなたを雪杜くんの子供を産ませる機械にしようとしてるのよ!?」
「違う!!御珠ちゃんはそんな人じゃない!!」
咲良の叫びは涙に近かった。
澪は一歩も引かず、声を張る。
「今はそう思ってるだけよ!
あなたが傷ついてからじゃ遅いの!」
「傷ついてない!」
「今はね!
でも雪杜くんは最終的に御珠ちゃんを選ぶに決まってる」
「……決まってない!」
咲良の握りしめた拳が震えていた。
澪は厳しい目を向ける。
「あの家に入り浸って……
何かあってからじゃ遅いの!
だから禁止!」
その瞬間、陽向が驚いたように泣き出す。
リビングの張りが一気に増した。
澪は咲良から目を外し、陽向を抱き上げてあやし始める。
咲良はその光景を、噛みしめるように黙って見つめた。
「……お母さんって」
「なに」
「私のこと、全然信用してないんだね」
澪は息を吐きながら答える。
「信用の問題じゃない。心配してるの」
「心配してるなら話聞いてよ!」
「聞いてるでしょ!」
「聞いてない!
いつも陽向のことで頭いっぱいで、私の話なんてちゃんと聞いてくれたことないじゃん!」
澪の表情がわずかに固まる。
咲良は、その揺れを見逃さなかった。
「御珠ちゃんのことだって!
お母さん、最初から決めてかかってるじゃん!
ちゃんと見てないじゃん!」
「見てるわよ!
見てるから心配してるの!」
「じゃあ何で!」
「娘が不幸になっていくのを黙って見ている親がどこにいるのよ!」
しん、と部屋が静まり返る。
陽向の泣き声だけが、遠くで揺れるように続いていた。
(……言い過ぎた)
澪の胸に、その自覚が沈む。
咲良は、かすれた声で言った。
「……お母さんは、私が不幸だと思ってるんだ」
「そういう意味じゃ……」
「今、すごく幸せなのに」
「……咲良」
涙を堪えるように咲良は顔を上げる。
声が震え、必死に強さを取り戻そうとしていた。
「私ちゃんと考えてるもん!」
「雪杜に好きって言ってもらったもん!」
「18歳まで待つって言ってくれたもん!」
「御珠ちゃんは雪杜と兄妹だもん!」
「側室なんかじゃないもん!」
「彼女だもん!」
「ちゃんと結婚できるもん!」
澪は息を呑む。
その言葉は幼いのに、本気の想いそのものだった。
「咲良……そんな子どもみたいな」
「お母さんのバカー!!」
咲良は勢いよく玄関へ走り、扉を開けた。
着の身着のまま夜へ飛び出す。
玄関が大きな音を立てて閉まり、残された部屋が震える。
陽向の泣き声は途切れず続いた。
澪はその場から動けない。
(……言い過ぎた)
(子供を産ませる機械だなんて)
(御珠ちゃんがそんな人じゃないのは……分かってる)
(でも……だからこそ怖いのよ)
抱き上げた陽向の頭をそっと撫で、澪は目を閉じた。
(……行くわよね)
(あの子、絶対あそこに行く)
御珠の姿が脳裏に浮かぶ。
あの夏、川辺で泣いていた少女。
(御珠ちゃん)
(あの時あんなに怯えてたあなたが、今は……咲良の行き場所になってる)
澪は静かに息を吐いた。
(頼むしかないのかしら……咲良を)
―――
天野家の静かな夜。
外の冷え込みを押し返すように、インターホンが甲高く鳴り響いた。
雪杜はソファから立ち上がり、玄関へ向かう。
「こんな時間に誰だろ?」
少し離れた位置で御珠が腕を組む。
警戒というより、「害は近づけさせぬ」と背筋で告げる構えだった。
「不審者はこの家に近づけんぞ」
雪杜がそっと扉を開く。
そこには薄暗い街灯の下で咲良が立っていた。
手提げ鞄ひとつ。
泣き腫らしたような赤い目。
「……咲良?」
「……泊めて」
短い言葉が夜気に落ちる。
「え」
「お願い」
雪杜はその表情で察してしまい、胸の奥がざわついた。
(何かあった……?)
「……うん、入って」
咲良は小さく頷き、そっと家の中へ踏み入れた。
リビングの灯りが咲良の顔をやさしく照らす。
御珠がゆっくり近づき、その様子を静かに見つめた。
「……咲良」
「御珠ちゃん……」
咲良はうつむいたまま、指先をぎゅっと握る。
「何があったのじゃ」
「お母さんと……喧嘩した」
御珠のまつげがわずかに揺れた。
「……そうか」
それ以上、御珠は問わない。
その無言が咲良を支え、肩の力が少し抜けた。
(ここに来てよかった)
胸の奥でそう呟くように、咲良の呼吸が落ち着いていく。
その時、静まりかけた空間を裂くように、咲良のスマホが甲高く震えた。
画面には大きく「お母さん」の文字。
咲良は顔をそむける。
「……出たくない」
彼女はスマホをソファに置き、音だけが部屋に取り残された。
着信音が咲良を追い詰めるように響く。
その瞬間、御珠がすっと歩み寄り、迷いなくスマホを手に取った。
「御珠!?」
雪杜が慌てて声を上げるが、御珠は気にしない。
指が通話へスライドする。
「澪か」
短い無言ののち、疲れた声がスピーカーから漏れた。
『……御珠ちゃん。
咲良は無事?』
「うむ。咲良はここにおるゆえ安心するがよい」
『……全然安心できないけど、そこにいるならいいわ』
御珠は淡々と、しかし確信を込めて言った。
「咲良は元気じゃ。
今夜は預かる」
『咲良に何かあったら承知しないから。
雪杜くんをしっかり見張って』
雪杜は咳き込むように肩を揺らした。
御珠は胸を張り、即答する。
「承知した。
雪杜には指一本触れさせぬ」
『……じゃぁいいわ。
明日、また連絡する』
「うむ」
通話が切れ、リビングに静けさが戻る。
咲良が、おそるおそる御珠を見つめた。
「……御珠ちゃん」
「なんじゃ」
「ありがとう」
「礼はいらぬ」
その強さに、咲良の目元がようやく緩む。
雪杜は肩を少し落とし、ぼそっと呟いた。
(咲良に触れたら承知しないって……)
「……僕、そんなに信用ない?」
御珠は振り向き、当然のように言った。
「あるから任せてもらえておるのじゃ」
「……そうなの?」
「ふふ」
初めて咲良が笑った。
そのかすかな笑みが、汗ばむ夏の夜の空気をゆるやかに和らげていく。
―――
三人はリビングのソファの近くに集まり、さっきまでの緊張がゆっくりと解け始めていた。
咲良がふと顔を上げ、遠慮がちに口を開いた。
「……ねぇ、ご飯食べた?」
咲良がそっと問いかける。
泣いた痕はまだうっすら残るのに、声はいつもの調子に寄っていた。
「これから作ろうと思ってた」
「じゃあ一緒に作ろう。
私、もう食べちゃったけど、また食べたい」
「卵とハムならあるよ」
「じゃあ卵炒飯作る」
「妾も手伝うのじゃ」
御珠が前に出てくる。
胸を張っていて頼もしい。
「じゃあ御珠ちゃん、卵割って」
「うむ」
三人が狭い台所に並ぶ。
御珠が真剣に卵を持ち、そっとコン、と割った。
「上手……!」
「当然じゃ」
雪杜は炊飯器からご飯をほぐし、咲良はハムを刻む。
身を引くたび肩が触れそうになる距離だった。
「ちょっと、狭い!」
「先に言ってよ」
「妾は動かぬ」
「御珠ちゃん!」
「ふふ」
笑い声が小さな台所に広がる。
さっきまで涙が残っていたことが、嘘みたいにほどけていった。
―――
食卓に三人分の炒飯が盛りつけられ、湯気が静かに立ちのぼる。
咲良がひと口食べて、目を丸くした。
「……おいしい」
「咲良が作ったんだけど」
「三人で作ったんだよ」
御珠は胸を張り、誇らしげに言う。
「うむ。妾の卵割りが光っておる」
「確かに上手だった」
「じゃろ」
雪杜と咲良が自然と笑い合う。
その笑顔を見て、御珠も目尻をわずかに下げた。
家族のように静かな時間が、食卓の上に座っていた。




