第17話 月光の中で芽吹く選択
勉強会が終わり、教科書が閉じる音や椅子を引く音が部室に重なっていく。
帰り支度のざわめきの中、咲良が雪杜の腕を軽く引いた。
「ねぇ雪杜。この後、家に行っていい?」
雪杜は振り向き、少し困ったように眉を寄せる。
「咲良?帰るの遅くなっちゃうよ?」
咲良は視線を落とし、胸の前で指を握りしめた。
「いいの。……今のままだと、気持ちが落ち着かないから」
その言葉の重さに気づき、雪杜は静かに頷く。
「……分かった」
横で荷物をまとめていた御珠も、咲良へ視線を向けた。
「……咲良よ」
咲良はまっすぐ御珠を見返す。
「御珠ちゃんも。大事な話だから」
──天野家・居間。
春用の薄いラグに、ちゃぶ台。
三人が正面を向き合うように座ると、外の風の音まで届きそうなほど部屋は静かだった。
咲良の表情は真剣に張り詰めている。
「雪杜。あの勉強法……やっぱり普通じゃなかったよね?
颯太も駆くんも“極端すぎる”って言ってた。
私もそう思う」
「あの遠足の日に何かあったんでしょ?教えて」
雪杜は隣の御珠を見る。
御珠が小さく頷いた。
雪杜は深く息を吸う。
「これは……御珠の根源に関わる話になる……
絶対に口外禁止」
咲良は迷いもなく言葉を返す。
「大丈夫。私、眷属だし」
覚悟の合図を受け取り、雪杜はついに真実を開いた。
「御珠には……思考の制限がある」
「思考の制限……?」
咲良の声が震える。
雪杜はゆっくりと言葉を紡いだ。
「あの日、御珠に一緒の高校に行こうって言ったんだ。
でも出来ないって……」
「なんで……?」
「御珠は深く考えることができない。
暗記はものすごく得意だけど、論理的に考えることを本能が拒否する。
数学や理科の原理に踏み込むのがどうしてもできない。
頑張っても、どうにもならないんだ……」
咲良は息をのんだ。
「そんな……」
そのまま御珠へ視線を向ける。
御珠は静かにその視線を受け止めた。
「雪杜の言う通りじゃ。
妾の脳は記憶に特化しておる。しかし深く考えることを、本能が拒むのじゃ」
「……そなたらと同じように考えることができぬ。それが……悔しいのじゃ」
咲良の瞳が揺れ、胸の奥がきゅっと締まる。
「……何それ……
まるで上で誰かが“考えさせないように”してるみたいじゃない……」
雪杜は唇をかむ。
「呪いもあるし、御珠が“神様”って事実そのものがもうファンタジーだから……
そういう力が働いてるのかもしれない」
咲良は震える声で呟いた。
「御珠ちゃん……そんな制約が……」
雪杜は続ける。
「だから、あの勉強法なんだ。御珠に合った方法でやるしかない」
咲良は一度下を向き、ぎゅっと拳を握ってから顔を上げる。
瞳に強い光を宿して。
「……わかった。私もできる限りフォローする。
雪杜一人になんてさせない。三人で頑張ろう?」
「咲良……ありがとう」
咲良はそっと手を伸ばし、御珠の手を包むように触れた。
「御珠ちゃん。私たち、味方だからね。
雪杜一人に背負わせないよ。三人で、進んでいくんだよ」
御珠はその手を握り返し、柔らかい笑みを浮かべる。
「……ありがとうなのじゃ、咲良よ」
雪杜は二人を見つめながら、胸に熱が灯るのを感じていた。
(咲良……御珠……僕は二人に救われてばかりだ……)
咲良も心の中で静かに呟く。
(御珠ちゃんにそんな制約があるなんて……
それでも……御珠ちゃんは御珠ちゃんだよ)
(私たち三人で……支えていくんだ)
──静かで温かなものが、三人の間に満ちていく。
―――
教室。
午前の光が差し込み、ざわつきが広がっていく。
吉川先生が成績表の束を片手に前へ立った。
「はい、じゃあ成績表渡すからなー」
配られた紙を受け取り、雪杜は静かに目を走らせる。
(8位か。途中まで勉強さぼってたから、こんなもんか。
期末はもっと上げれそうだ)
(御珠はどうだったんだろう)
胸の奥にかすかな焦りが浮かぶ。
―――
数分後、廊下。
掲示板には学年順位表が貼り出され、すでに人だかりができていた。
澄香が前に立ち、じっと順位を見つめている。
透が隣に寄り添うように立った。
「……」
その無言を割るように、透が声を落とす。
「澄香、今回も1位おめでとう」
澄香は視線を動かさず、ある一点を見たまま呟いた。
「天野くん……8位……」
透は順位表を一瞥して頷く。
「天野、20位くらいまで下げてたのにすごいね」
澄香の視線がかすかに揺れた。
「……隠すことをやめたのね」
「澄香の言葉が効いたみたいだね」
その一言に、澄香の拳がゆっくり握られる。
(きっと期末試験は本気でくる。覚悟しないと)
(……負けられない)
透がその変化に気づく。
「澄香?」
「……何でもないわ」
澄香は順位表に視線を戻し、静かに闘志を燃やす。
周囲のざわめきとは別の静けさが、彼女の中だけで熱を帯びていった。
―――
放課後の天野家。
ちゃぶ台を囲むように三人が座り、成績表を並べる。
雪杜が成績表を指し、そっと御珠へ向き直った。
「御珠、テスト結果どうだった?」
御珠は得意げに胸を張り、紙をひらひらと持ち上げる。
「ふふん。見るかえ?」
そこには数字が並んでいた。
国語:65
社会:100
数学:8
理科:40
英語:38
合計:251
順位:82
雪杜は思わず声を上げた。
「すごい!社会100点じゃん!」
「妾、頑張ったのじゃ」
御珠は嬉しそうに微笑む。
咲良も身を乗り出した。
「御珠ちゃん!すごい!」
しかし次の瞬間、雪杜の表情がわずかに曇る。
「でも合計は251点か……順位も82位……」
胸の奥へ、言葉が落ちていった。
(社会が100点。これ以上は望めないってことか。
このままだと進学校は厳しいかもしれない……特に数学が壊滅的だ……)
その影を感じ取ったのか、御珠がそっと雪杜の顔を覗き込む。
(雪杜よ……すまぬのじゃ……)
場を動かすように、咲良が成績表を掲げた。
「私はねー。じゃーん」
合計:332
順位:30位
「おー!そこそこの成績!」
雪杜が素直な声を上げる。
咲良はふふんと鼻を鳴らした。
「そうでしょ。雪杜は?」
「僕は……」
合計:387
順位:8位
咲良の目が丸くなる。
「え。すご」
「そう?期末はもっと上げるよ」
雪杜は淡々とした口調だが、言葉の端に芯がある。
咲良は逆に焦ったように叫ぶ。
「え、手を抜いてこれってこと!?」
「前半さぼってたから。
御珠にも言われちゃったからね……手を抜くのは許さないって」
「うむ。妾のために道を曲げることは許さぬ」
御珠は誇らしげに腕を組む。
咲良はふと御珠の成績表を見つめ、目を伏せた。
「しかし、合計251点だと……進学校は厳しいよね……」
その指摘に、雪杜はゆっくり頷く。
「……そうだね。でも、進学校だけが道じゃないよ」
御珠が少し肩をすぼめる。
「妾が……足を引っ張っておるようで、申し訳なくなるのじゃ……」
雪杜は即座に首を振った。
「御珠、謝らないで。御珠は本当に頑張ってるよ」
咲良も優しく続けた。
「そうだよ!御珠ちゃんの100点、すごいもん!」
咲良は三人の手元を見つめながら、ゆっくり言葉を置く。
「ほら、まだ一年あるし。推薦でも、別の方向でも……
御珠ちゃんに合う道を一緒に探そう?」
「うん。三人で……探してみよう。絶対に、道はある」
雪杜の声は静かだが、揺れない。
御珠の瞳がゆっくりと和らいだ。
「……そなたらと共に歩める道が、あるのじゃな」
雪杜はその思いを受け止めるように頷く。
「三人で進める道を見つけたい。その気持ちは変わらないよ」
咲良も同じ重さを乗せて返した。
「うん……三人で頑張ろうね」
ちゃぶ台を囲む三人は、静かに頷き合った。
未来はまだ決まっていない。
だが、三人で歩くという意思だけは、揺らぎなくそこにあった。
―――
──天野家・夜。
薄暗い寝室。
窓から差し込む月光が、御珠の髪の縁を静かに光らせていた。
隣では雪杜が布団の中で穏やかな寝息を立てている。
御珠は天井を見つめる。
(……二百五十一点、か)
その数字が胸に落ち、瞼が静かに伏せられた。
(妾がふがいないばかりに……雪杜よ、すまぬのじゃ)
ゆっくりと雪杜の方へ向き直る。
無防備に眠る横顔が、月の光を柔らかく反射していた。
御珠は指先で、その頬にそっと触れる。
(雪杜は……進学校を目指しておる。
それが一番雪杜の将来の幅を広げる。最も適した選択じゃ)
(しかし、妾は、その道に並び立つことができぬ)
まつげが細かく震え、御珠は静かに息を吐く。
そして、別の扉を押し開くように――ひとつの想像が浮かんだ。
(……では、妾がそなたらとは“別の学校”に行ったとしよう……)
その先は、これまで手を伸ばしたことのない景色だった。
(いまの学校では、咲良の邪魔をせぬよう距離を置いておる)
(しかし違う学校であれば……妾は妾のまま、好きに振る舞える)
その瞬間、胸の奥で何かがひっそり動いた。
御珠の呼吸がわずかに止まる。
(……雪杜と咲良の学校生活も、妾がいなければ乱れぬ?)
(それに……)
御珠は静かに雪杜へ視線を落とした。
(家は同じじゃ。夜になれば必ず逢える。朝も共に起きる)
(……ならばむしろ……やりやすいのではないか?)
月光の中で、御珠の口元にかすかな自嘲が浮かぶ。
(妾は……何を考えておるのじゃ)
(雪杜は妾と同じ学校を望んでおる。勝手に道を定めてはならぬ)
御珠は枕の上で小さく首を振った。
浮かんだ考えを、胸の奥へ押し戻すように。
(……まだ早い。まだ決めるべき時ではないのじゃ)
(雪杜がどう歩むか……咲良とどんな未来を見るか……)
(妾はそれを見極めてから、己の道を決めればよい)
御珠はもう一度、そっと雪杜の寝顔を見つめた。
息遣いもまつげの揺れも、すべてが愛おしく思える。
(そなたが望む未来に、妾がふさわしい形で寄り添うために……)
御珠は静かに目を閉じる。
胸の奥に、小さな種のような覚悟が芽吹いていた。
それは誰にも言えぬ、まだ言葉にするには早すぎる秘密の想いだった。




