第29話 御珠ブレイク ― 慈しみと混乱の昼下がり ―
ケーキの甘さが余韻として残り、ストーブの小さな音が部屋を温めていた。
食卓のざわめきが落ち着いたころ、和江がそっと御珠の方へ身体を向ける。
その目には、誰かを大切に思う者の柔らかな光が宿っていた。
「御珠ちゃん。
きょうは来てくれて、ありがとうねぇ」
唐突な優しさに、御珠は瞬きだけで応じる。
「……?礼を言われることではなかろう」
和江はふふ、と笑い、首を横に振った。
「いやいや。
こんなおばあちゃんに会いに来てくれると思わなかったから……
嬉しいんだよ」
その言葉は飾りがなく、まっすぐだった。
御珠は目を伏せ、胸の奥の硬さがほどけていく。
「なに、世話になっておるし……
そなたと、もっと話がしたかったのじゃ」
和江の目が大きく開かれた。
驚きがすぐに溶け、涙がうっすらにじむ。
「……そう言ってくれるの……
嬉しいよ……」
そっと伸ばされた和江の手が、御珠の手を包む。
触れた瞬間、人のぬくもりが指先へ伝わった。
「御珠ちゃん、その後……どうだい?
眠れてるかい?」
御珠のまぶたが揺れ、少し照れたように答える。
「……うむ。
和江殿に抱かれて……胸のざわつきが少し消えたのじゃ。
雪杜も気遣ってくれておる」
「そうかい……それを聞いて安心したよ……」
和江の手は、孫を包むみたいにあたたかい。
御珠の細い指先が、その熱に小さく震えた。
「……あの話を聞いてからねぇ、
私が晴臣の代わりになんとしても守らなきゃって……
そんな気持ちになったんだよ」
御珠の胸に、静かに響く言葉だった。
「……和江殿……」
(……この御人は……
妾を……本気で守ろうとしてくれておる……)
人として、母として。
そういう確かさが、その手の中にあった。
「女同士にしか分からないこともあると思うから、
何でも言っておくれ」
御珠はゆっくりと頷き、言葉を慎重に置いた。
「……うむ。
心に留めておく」
和江は微笑む。その穏やかな顔は、愛情そのものだった。
「雪杜くんのこと、大切にしてるんだねぇ」
御珠の唇がわずかに震え、息が浅くなる。
「……うむ。
雪杜は……妾の全てじゃ」
「……ふふ。
女同士だから分かるよ。
あんた、本当に雪杜くんのこと好きなんだねぇ」
御珠の耳が一瞬で赤く染まる。
「な……なにを……」
「隠さなくていいんだよ。
その顔を見れば分かるから」
少し離れたところで聞いていた雪杜は、固まる。
(え……和江さん、何言ってるの……)
修一は、呆れたように肩をすくめる。
(……まぁ、母さんならそう見抜くだろうな)
和江は続ける。
「あんたたち、支え合ってるんだねぇ。
それでいいんだよ」
「……うむ」
しかしその優しさの次に、ほんの小さな陰りが生まれた。
「でも……
御珠ちゃん。
あんた……子どものこと……
辛くないかい?」
御珠の指先が、わずかに揺れた。
「……うむ。
もう過ぎたことじゃ……
いまは雪杜によくしてもらっておる」
和江はゆっくりと息を吸う。
その表情には、深い共感と痛みが重なっていた。
「……女の幸せを奪われて……
辛いよねぇ……」
御珠の胸がきゅ、と縮む。
「……好きな人の子ども……
産みたいよねぇ……」
「……っ」
御珠のまつ毛が震え、視線が宙で止まる。
(……雪杜の……子ども……
妾は……産めぬ……)
その内側の痛みを汲み取ったように、和江の頬を一筋の涙が伝う。
「……ごめんね……
こんなこと言って……」
御珠もまた、堪えていたものが滲み始める。
「……いや……
和江殿の……想い……
嬉しい……のじゃ……」
(……妾は嘘をついておる……
孤児でも、虐待されたわけでもない……
じゃが……雪杜の子を産めぬのは……本当じゃ……
この悲しみだけは……偽りではないのじゃ……)
ぽたり、と涙が落ちた。
「……御珠ちゃん……」
和江はそっと腕を広げ、御珠を抱きしめる。
その抱擁は、慰めよりも深い約束の形だった。
「……あんたには雪杜くんがいる。
二人で支え合って……
幸せになっておくれ」
御珠の肩が小さく震え、声が漏れる。
「……うむ……
和江殿の……優しさ……
痛み入る……」
(……このぬくもり……人の母の慈しみとは……
かくも深いものか……
嘘をついておる妾に……こんなにも……
……じゃが……この想いだけは……偽りではないのじゃ)
和江は御珠の背をゆっくり撫で続ける。
その手つきは、傷を抱えた子どもを慰めるようだった。
「また遊びにおいで。
いつでも待ってるからねぇ」
「……うむ。
必ず……また来る」
「ええ。楽しみにしてるよ」
雪杜は息を飲み、胸の奥が熱くなる。
(……御珠……)
修一も黙って見守りながら、目を細めた。
(……母さん……)
ストーブの柔らかな音とともに、四人の気配がひとつに馴染んでいった。
―――
和江と御珠のやり取りがようやく落ち着き、部屋に静けさが戻った、その時だった。
二階から、どたどたと無造作な足音が響く。
階段を踏み下ろす若い男の声が、家の静けさを押し分けるように近づいてきた。
「おーい、さっきから話声するけど……
誰か来てんのかー?」
階段から現れたのは、高校生くらいの少年。
気安い足取りでリビングへ入ってきた少年は――御珠を見た瞬間、動きを止めた。
「……っ!!」
呼吸すら忘れたように目を見開き、魂が抜けたみたいな顔になる。
「……う、うわ……
か、かわよ……
アイドルかよ……」
情けないほど素直な声だった。
ソファの雪杜と御珠はぽかんと固まり、
和江は「あぁ……また始まった」とでも言いたげにため息をつく。
そして修一の声が低く落ちる。
「……一樹」
しかし一樹は父の声などまったく耳に入っていない様子で、
御珠へ引き寄せられるように近づき始める。
「ねぇねぇ、君、名前なんていうの?
何歳?どこから来たの?」
御珠と雪杜は、勢いに呑まれた。
その瞬間、修一の目つきが鋭く変わった。
「一樹。お客様の前だ。下がれ」
「え?だって……」
立ち上がった修一が、一樹の襟首を無言で掴む。
「いいから下がれ」
「いってぇ!!おやじ何すんだよ!?」
もはや問答無用。
修一はそのまま息子をずるずると廊下へ引きずり出す。
振り返る一樹の顔は完全に青ざめていた。
――そして廊下から怒号が飛ぶ。
「いいか、一樹。
御珠ちゃんに変なことしたらぶっ殺すぞ。
雪杜くんを困らせても絶対許さんからな」
「は、はい……すみません……」
「分かったら部屋に戻れ」
「……はい……」
しゅんとした足音が階段を上がっていく。
静けさを取り戻したリビングに、修一が戻ってきた。
先ほどの勢いが嘘のように、丁寧に頭を下げる。
「……すまん。息子が失礼なことを」
雪杜は慌てて首を振った。
「い、いや……大丈夫……」
御珠は落ち着いた様子で、むしろどこか楽しげに呟く。
「……ふむ。修一殿の息子か。
元気な若者じゃの」
修一は重い溜息をついた。
「……元気すぎて困る」
和江が気まずそうに笑う。
「あはは……一樹ったら……
まぁ、年頃の男の子だからねぇ……」
しかし修一の返しは容赦がなかった。
「年頃だろうが何だろうが、ダメなものはダメだ」
その言い方は、家族のためなら誰より強くなる男の声だった。
雪杜は思わず身を正す。
(修一おじさん……本気で怒ってる……)
そして横の御珠は、胸の内で静かに思いを寄せる。
(……修一殿は……妾と雪杜を……守ってくれておるのじゃな……)
その気づきが、冬の家の空気をまたひとつあたたかくした。
―――
玄関には、冬の午後らしいやわらかな光が差し込んでいた。
二人はそろって身をかがめ、丁寧に頭を下げる。
「それじゃ、そろそろお暇しますね。
今日は本当にありがとうございました」
「お世話になったのじゃ。
和江殿、修一殿、ありがとうの」
和江は変わらないあたたかさで微笑む。
「また遊びにおいでね。
次はもっとゆっくりしていっておくれ」
ふと視線を向けると、廊下の陰から一樹がこっそり覗いていた。
目が合うと、びくっとして隠れる。
修一が軽く咳払いをして、真面目な表情で言う。
「気をつけて帰れよ。
何かあったらすぐ連絡しろ」
「うん。ありがとう」
外へ出た瞬間、雪の匂いを含んだ冬の空気が頬を撫でた。
「……ふぅ。緊張した」
御珠はその声に、小さな笑みを零す。
「ふふ。そなた、ずっと背筋を伸ばしておったの」
「だって……修一おじさんたちにきちんとしなきゃって……」
「うむ。そなたの礼儀正しさ、良き姿じゃ」
雪杜は足元を見ながら、じわりと胸があたたかくなる。
(御珠に褒められた……嬉しい……)
住宅街を抜け、ふたりの足音が雪道に吸い込まれていく。
しばらくして、雪杜が静かに息を吸い込んでから言った。
「じゃあ……公園、行こっか」
「うむ!白鳥じゃの!」
御珠の声は、いつもより弾んでいた。
「楽しみにしてた?」
「当然じゃ。そなたが選んでくれた場所じゃからの」
その無邪気さに、雪杜の頬が緩む。
二人は並んで歩き、海沿いの公園へと向かった。




